2009/12/29

一応、我が輩は女、ですけど。

だいたい、ここでウダウダと言っていても、
元来がマイペース、そして気まぐれ人生なんである。
他人からどう見られようが、
それは相手に任せておこうというのが私の方針、
そらもちろん、よければいいに超したことはないのだが。
先輩がいない間にぐるりと回しきった仕事だったが、
それについてボスからチクリ、
「にっしゃんは、オレが質問しようと思ってパッと見たら
ぐーぐーイビキかいて寝てるんだもんね。
こいつ、えれぇ度胸してるよな」
続けざまに
「どうせ一回言ったことも3時間くらいしたら、
『そんなこと言いましたっけ』ってなるんだろ。
いいよ、図太いってことは知ってるから」

女子的な評価としてはどうかと思うけど、
ポップにガハハと笑ってごまかす。
社長だから許されるが、
ボスだってかなりの気まぐれ戦士、
「今日は気乗りしねぇから帰る」なんて
出社30分で決めて帰る。
「撮影は任せたっ、オレは散歩に行ってくる」
なんて言われた日にゃ、お気楽にもホドがある…と
ため息混じりで
「どうせまた『山が呼んでる』とか
ワケわからんこと言うんでしょ…」と返すほどで。

先輩が入院してしまった日は
いよいよ明日が家具のロケ撮影、という日で、
だから小物やらスタイリング用品を
レンタカーを借りて引き上げたついでに
商品の管理もしちゃいましょ、ということになっていた。
私ら、お気楽気まぐれコンビに、
カラダもハートもビッグなカメラマンが集合し、
用意万全に整えて「さ、いざ出発」と事務所のドアを開けたところで
「で、レンタカーってどこで借りてるの?」
「え、ボスが知ってるんちゃいますの?」
「にっしゃんが知ってるかと思った」
「あんだけ電話してたからビッグが聞いてんちゃうの?」
とダメダメトリオで言い合い、
「ま、いっか、どうせいつものとこやんなー」
てな具合で珍道中な船出だったのでした。
そんな調子なので、商品の管理場所も
ロケの住所すら(ロケハン行ったのに…)アヤフヤに
フニャフニャに、そして自身もお互いも信頼せぬまま
結果、いいチームとなったのでした。

昨日はボスと先輩と私とで繰り出して
ま、ほとんど私はオチに使われながら
ボスから先輩へのソフトな小言が続いた。
私も容赦なしに、我がをオチに利用して
さも楽し気に先輩にここまでを報告し、
ほれほれ、みんなで仕事するってのはこんなに楽しいんや!
とクギをさす。
デリカシーないヤツと言われようとお構いなし、
仕事は重いもん背負うことじゃなく、
ポップに楽しく、そしてややメリットを、
重要なんは生きていくことやー、
ていう頭でっかちさは譲れない。
ボスとふたりして、
アイツ(=クライアント)の仕事は
しょっぱいからそこそこにしときなさい、
努力しているフリができるようになりなさい、
または、仕事そっちのけで遊んでるくらいがちょうどいい、
細かいしょーもないことは西村がやるから、
それを高見から見ながら「こいつは仕事遅せぇなー」と
イラ立たせるくらいがちょうどいい、と
クドクドと説得を続けた。
最後には、「にっしゃんの女の姿が仕事のじゃまをしてる」
などとなぜか矛先はこちらにきてしまったけれど…。

とにかく、私は、先輩が退院して帰ってきたときの
あの不安な感じというか、自信のない感じというか、
そういう弱っちいところを
隠そう隠そうとしてるペラペラなところが気に入らず、
ま、そんな過激なことは言わなかったけど、
たとえば、大元のクライアントから
一気に信頼を集められるってのは
先輩くらいじゃないとできないのはかなりの才能というか、
そんなところを一所懸命伝えたりした。

ま、せっかくいっしょに(間借りしてるけど)やってるんだから、
互いの力は借りてナンボ。
利用し、利用され、
そしてこの苦しい時代を生き抜いていきましょやーと。
イヤな仕事はしない、というかできませんので、
そんなことに時間を費やすよりも
好きなとこや得意なとこで仕事しよーぜと。
いや、私はまだそんなことを言えるような立場ではありませんが。

2009/12/26

シアワセって何だっけ。

怒濤の10日間でした。
先輩が原因不明の腹痛で入院して、
その仕事のフォローと
自分の仕事とで徹夜2日×2回。
徹夜ではないけど、事務所に泊まった日、
それはほぼ毎日。
家に帰ってもいいんだけど、
不安すぎるから、着替えとかいろんなグッズを持って
「住んでいる」状態になってしまった。
でも、よくもまあできましたな、という感じ。
なんというか、
客人気分としてしか眺めていなかった
家具のカタログの撮影デビューを
現場仕切りの役目で飾らねばならず、
いやしかし、そこはみなさんのフォローを仰いで
意外と滞りなくできたからホッ。
企画書等々はアホみたいに3つも4つも作りまくり、
企業さんのパンフレットの編集ラフ出しもした。
ほんで自分の仕事、
下着カタログ40ページも2日分の夜中で書ききった。
まあホント、ようやりましたな、て気がする。
わからなくて怖いとか、経験足りないからできませんとか、
そういう次元のモンダイではなく、
やらねばなるまい、やらねば何も進まない、という感じで。
考えてみれば、余裕のキャパシティオーバーな仕事量で、
でもひとつずつを取っても、
他人の仕事だからという責任からか、
どれもおざなりにしないでできたのはエラかったと思う。
その緊張感からか、自分の仕事も緊張を抜かずにできた。

ま、言うてもこちら現場作業人。
やりきった感を存分に味わって、
いろんな人にほめられたり、
何より「西村さんいてよかった」と言われたりで、
今は満足しているわけですが、
そのテンションと合わない、
退院したての先輩とどう話を詰めていくかが
ここ数日の悩みで。
全部毎日報告は欠かさずしていたのに、
やはりその現場にいなければ何も把握できない
てのはとてもよく理解もできるけれど
私は私のものになった仕事を進めるのに必死で
先輩の焦りを感じつつも何もできないのがツライところ。
何かを聞いても泣くばかり、
そんなに泣くなよーと思いながらも、
目の前の席でメソメソと泣いているのであります。
私からすれば、ここ半年ほども家には週に一度帰ればいいほう、
という人をちゃんと家に帰らせることができた病気に、
ある意味で感謝してみるのもいいのではないかと
思ったりもして。
まずは家族、まずはその幸せや安らぎを、て思うのは、
私が現実に独り身だったり女だったりするからなんだろうか。
先輩からすれば、やっぱりそうはなれないんだろう、
それは、今アブラの乗り切った働きざかりの人間だからなのか。

先輩が入院をしている間、
仕事として必要なメールを先輩のパソコンでチェックし、
それを自分のパソコンに転送する作業の中で、
先輩が家族に宛てたメールを発見した。
「おとうちゃんはきょう、さんぽにいきたいです。
みんなでどこかにでかけませんか?
きょうはきちんとかえるよ」
ずっと帰っていない、会っていない家族、
想像するとこちらが泣けて、
お酒をもう飲んでしまっていたせいもあり
事務所でひとり泣き崩れて困った。
ほんの少しの努力と諦めで全部はうまくいきそうに思えるのに、
そう思うと悲しく、仕事ばかりに邁進することに、
単純に疑問を思った時間だった。
誰かのために、仕事をする。
それこそ独り身だからそうそう感じられることじゃない。
何にも変えることのできない誰かがいる、
それはとてつもなく尊いことだと私には思える。

こちらは、単純に便利に使ってもらえればありがたく、
そこのところに焦りを感じて涙を流されるのはとてもツラく、
というか、キャリアとしても周囲からの信頼としても
私とは全然比べもんにはならん人なので
どうして泣いてしまうのかが全く理解できないのだ。
で、それを見て、眠たくなったフリをし、
または新たに自宅から持ってきたバカデカいパソコンに
顔を隠して見ないフリをする。
最近、なんだかちょっとツライ。
みんなが自分らしく、幸せに笑っていけたらと思う。
感覚は人それぞれだから
私が思う幸せが、イコールでそうでないかもしれないけど、
なんかそう思う。
ゆっくりと、じっくりと。
私もいつかって、本当に思う。

2009/12/12

少し気分がらくになった。

生来、アタマの硬いヒトだと思う。
子どもの頃のハナシを母に聞くと
本当に恥ずかしくて赤面するしかないけれど、
「腹が立つ」とヒトコト言ったら最後、
理由も言わずにただ黙って怒っていたらしい。
最近の怒り方は、またそういうふうになってきた。
苦手とするヒトが事務所に来たときに
私は黙ってパソコンの画面を見ながら忙しいフリをし、
彼がかまってほしそうに何か言っても
「忙しいので」と返してしまう。
「忙しいフリ」は、彼が帰った後も直らずに
不機嫌そうに黙々と「忙しいフリ」をするしかない。
まぁそれは、素直にいられる事務所だから
「忙しいフリが直りません」と告白できて今はラクだ。
その「彼」が自分とこのイヌを連れてくるときなど、
お茶を入れてニコニコと遊んでいるのだから
ゲンキンにもホドがあるというもの、
一体、私はなんなんだ、ということになる。

私はこの「硬さ」でどのくらいのヒトのことを
心底キズつけたのだろうか。
ときには態度で関わることを拒み、
または粗雑なコミュニケーションを繰り返し、
ときにはコトバで必死の抵抗をし、
あるいはこのブログでもいろんなことを書いてしまった。
過ぎたことは仕方ないけど、
頑とした自分を振り返るにあたり、
すでに「赤面する」の域を超えて
反省と後悔とでドキドキして冷や汗をかいて焦る。
「イヤ」というものを「イヤ」と言わずにはいられないけど
もっと他にやり方はあっただろう。
今ならもっとうまくやれたんじゃないか、なんてことも思う。
なんてことをしてしまったんだろう、と思う。
ただの自分が思う「正しさ」だけを振りかざし、
「わからないこと」をわかろうともせず
わかったような気になっていただけなのだ。

--

もちろん、どこにでもあるという訳ではない。
そう希むのは、文明人の奢りというもの。
けれどないとなると、
寂しくてよるべない心持ちになるのは、どうしたことか。
コーヒーやお茶を喫みたいというだけじゃない、
そこに流れている時間にひたっていたいのだ。
旅人にとっては、心の渇きをいやしてくれる、
沙漠のオアシスのような場所。

パリのカフェは落ちつかない、といったら、
たちまち反駁されるだろうか。
すばしこい眼差しの好感こそ、パリのカフェの身上。
着こなしを値ぶみしたり、
アムールの矢を放っておいて、
知らんぷりをしたり、きわめつけのフランス式だ。
それだけじゃない、
年季の入ったギャルソンの、身ごなしの優雅さといったら。
パリのカフェでは、
みんなが臆面もなく自分のシャンソンを唄っている。
とてものんびりしてはいられない、
と憎まれ口をたたきたくなる。

それじゃあ、王道をゆくウィーンのカフェへ、行ってみようか。
とびきり豪奢で、ひっそりと静まりかえっている、
うやうやしく一杯のウインナーコーヒーが献じられるための大聖堂。
文句のつけようのないもてなしだが、
夕べに一人でいると、
水に浸っている棒杙になったような気がしてくる。
このメランコリーこそが、
ウィーンのカフェの隠し味になっているのだけれど。

いますぐ潜りこみたいのは、プラハのカフェだ。
壁いっぱいにポスターが貼ってあって、
いつまでも学生気分の抜けない、
パイプ煙草の匂いのするカフェ。
ぼんやりと愁いに沈んでいる青年もいれば、
怒ったようにまくしたてているパンクな少女もいて、
まるきり統一がとれていない。
このカフェに小説家のハシュクやチャペックが来て、
絶望したり気をとりなおしたと思うだけで、
コーヒーの苦みがいっそう深くなる。
テーブルの下に猫がいたり、
古くさいストーブに火が入っていれば、
もうなにもいうことはない。
チャペックの園芸についての小さな本にあったことばが、
どんなふうに春を待てばいいのか教えてくれる。
「おれたちのさびしさや、
おれたちのうたがいなんてものは、まったくナンセンスだ。
いちばん肝心なのは生きた人間であるということ、
つまり育つ人間であるということだ、と。」

カフェなんてどこにでもあるだろう、
といって油断していたら、
路地がなくなるようにカフェも消えてしまった。
どこもかしこもスベスベして、
詩人も、画学生も、猫も、いづらくなってしまった。
ボヘミアンという種族がどこへ行ってしまったか、
だれも気にとめたりしない。
新しいものを見たいという慾求を、
とがめようというのではない。
ときどきは、古くて傷んだものがいとおしくなって、
夕日を眺めたりプラハへ行きたくなるというだけのこと。

ぼんやり、知らない町の歩いたこともない路地に、
そのカフェはあるかもしれない。
ぜんたいに煤けていて、
木のテーブルには歳月が肘をついた窪みがある。
暖炉にはブドウの枝がくべられていて、
いい匂いがたちこめているだろう。
疲れからウトウトしているうちに、
ほのかな香りがしてくる。
カリブ海のどこかの島で、
摘まれたコーヒーのエキゾチックな香り。
それこそは、南からの思いがけない便りだ。
コーヒーを飲み干したときには、
愁いをふりはらって行かなければならない、
と青年のように思いつめている。
アンディアーモ!
さあ、行こう。
イタリア人でもないのに、こう口にしている。

どこへ行くかは、悪魔にまかせて、
さあ、とにかく行こう。

「Bon Bon Voyage 名もないカフェ」(文:佐伯誠/翼の王国2004年2月号)

--

わからないことを正直に「わからない」と言うのは
本当に勇気のいることだと、今でも思う。
バカにされるんじゃないだろうかとか、
「私のコトに興味がなさすぎる」と思われるんじゃないかとか。
知っていることを自慢に思うとか以前のところで
「知らないこと」を恥じてしまう自分がどこかにあって
ワードだけを必死でメモして、
知ったフリも、知らないと正直に言うことも、
できずにいることが多い。
今朝、先輩に「私は知らないことが多すぎる」と告白したら
「年数も経験も違うから当たり前や」と窘められてホッとした。

人に対してもそうで、
たとえば「この人はすごい人だ」と最初から決めてかかると
ほんの少しの油断もできないカチンコチンの状態になり、
思っていることをひとつも言えなくなる。
というか「思う」ということができなくなる。
つまり、その時点では全く意思が働かない。
それがときに自分の感情の中に
イヤな気分を醸造していたのだろうか。
わからないことを恥じながらも
「何ですか、それ」と言ってしまえばいいのだ。
虚勢を張って、無理矢理に
同じ土俵に立つ必要は全くない。
自信のなさが「虚勢を張る」を促していたならば、
とっとと「それ」とは関わりを絶つのがイチバンである。


追記
今日は事務所にひとり。
仕事できないから必死のパッチなのだ。

2009/12/10

忙しいのはうれしいことですが。

毎日書くぞ宣言も3日坊主で終わりまして、
12月ももうそろそろ半ばというのに
2つしか書いていなかったことに愕然としています。
ありがたいことに、激務でございます。
家にはたまに帰っています。
企画書がいくつかと、企画書がいくつかと、
終わったけどネタ出しと、企画書がいくつかと、
クライアントが社内で使う資料作りと、
フリーペーパー作りと、
通販カタログのコピーワーク。
この「企画書がいくつか」というのが
ま、全然おカネにならない仕事で、
そういえば、「ネタ出し」とか「資料作り」というのも、
同様に、それ自体にはおカネが出る仕事ではなかったりする。
それでも無闇に丁寧にやってしまうワタシ…。
カメラマンの収入が、カラダにしみ込んだ技術やらを
補完するものとして出るものならば、
頭の中に貯めてあるものを発揮しているこういう仕事にも
何らかの補完があってもよさそうなのに。
と、いつも思う。
予算組み的に難しいだろうから、仕方ないさね。
企画書が通って取れたら大きい。
そして、それでうんうんうならされているのが
「フリーペーパー作り」だ。

なにしろ、「テスト」と称して
別の制作者とお試し版をいくつか作り合い、
その結果や反応を待って本番…となるはずが、
担当者の勝手な一存(というか趣味?)で
こちらに決まってしまったのである。
うれしいけど、仕事が多い。
年間編集企画やスケジュールは当然だろうけど
「なぜ私たちが作るのか」を社内で説得してもらうための
資料作りばかりに追われている気がする。
それも、「明日までにこれを〜」のノリでそして内容はヘヴィ。
そういえば、カメラマンとかイラストレーターの提案はおもしろかった。
あー、でもおもしろかったのはそこまでで…。
東京で頭とってやってくれている
往年の編集者もヘトヘトの様子で、企画キャッチが死んでいる…!
その編集者も齢60ン歳のおばあちゃん、
さすがに「もっとこういうの〜」とは言えず、
私ごときがこそこそとキャッチを直している次第。
嗚呼、という感じ。
もう、嗚呼としか。

楽しみなのは、家具のカタログの制作と
(よく考えたら来週が撮影なのね!)
ヨーグルトの商品ブランディング(というかパッケージ制作)。
とにかく、早く、この社内用書類から解放されたい。
いやー、忙しいのはありがたいことなんですが。

2009/12/06

まんま。

野田の中央市場の脇にある事務所には、
いつも自転車で通っている。
…「通っている」というか、
ほとんどはお風呂に入って着替えてくる、
くらいの感じか。
行き帰りの時間は、一段落ついたときで、
だから、マチマチになる。

自転車の通り道は、当然いろいろとある。
一番分かりやすいのが、
大国町の国道をまっすぐ新なにわに突き抜けてズドンのコース。
最初はそうやって同じ道を要領よく行くように心がけていたけど、
行き慣れると別の道を通りたくなる。
次はあみだ筋、なにわ筋、別の筋を通るにしても、
西に抜ける道は中央、本町、土佐堀と、
信号が変わるのに身をまかせて走るのが第二ステップか。
大通りを通るのに慣れてしまったら
あとはフニャラフニャラと小さな通りに入っていく。
「お、あれは何だ」「こんなとこにこんなのが」などと
興味のままに走らせるのが第三ステップ。
そのうち、その小さな通りでも、
自分の気に入ったコースがなんとなくできてしまって、
フニャラ〜と気ままに走っているつもりが、
いつの間にか「いつもの」コースに来てしまっている。
「あ、またここに戻ってしまった」となる。
よくよく思えば、そこが自分にとっては最も走りやすく
導かれてしまう道なのだろう。

このところ、元町を抜けてなにわ筋を入り、
信号にまかせてあみだ筋を目指しながら
路地に入って、公園の横を抜ける途中、
平日なら営業マンの昼寝、休みの日なら家族の風景に出くわす。
それが見たいと思っているわけではないけど、
なんとなくそれを眺めながら自転車をこいで
あみだ筋に突入する手前で中央大通りを超え、
マコとウミちゃんが住んでいたマンションの
一階にあるパン屋さんの前で
何か買って行こうかなと悩んでいる間に通り過ぎ、
本町に突入して斜めの道に入る。
いつの間にか、そこには何の想いもないけれど、
勝手にこれは固定されたコースになってしまった。

万事そういうもんなんじゃないか、と、
今日、ついさっきも自転車に乗りながら浮かんだ仮定は
少々急ぎすぎだろうか。
でも、ここ最近の自分を見ながら、
「結局は元の道に戻っていく」
(「元の道」がなんなのかわからないけど)
と思ってしまう。
たくさん難しいことを考えた結果、
「この仕事」に興味を持った原点に立ち戻っているだけのようにも見える。
とにかく、「こうなりたい」なんて少し思っただけじゃ
そういうふうにはなれないし、
もしかしたら、根本で「自分を変える」なんてできるわけもない。
とても残念な結論だけど、同時に安心する事実。
最近いっしょにいる人たちにも
たくさん迂回をした結果、
なんとなく「戻った」感がするのも不思議だ。
(迂回の途中では全く会わなかったのだから、余計に)

あー、また頭でっかちになってしまった。
文章ってムズイ。

--

同じモノでも、人によってモノの捉え方はまったく違うのである。
とかくこのあたりまえのことを忘れがちだ。
モノと人の関係を丁寧に見ていくと、
残すべきものが少しだけ見えてくる。
それはとてもとてもささやかな気付きだから、
どうでもいいと思えばすぐに消え去る。
他人に相談しても伝わらないようなもの。
それをキメの細かいメッシュで
掬い上げるような仕事だったのかもしれない。

『クジラは潮を吹いていた』(文:佐藤卓/トランスアート)

--

「表現したこと」とは、イコールで「その人そのもの」。
いわゆるクリエイティブな広告やら雑誌やらのみならず、
たとえば、どこかの会社の商品だってそうだろうし
きっと経理やらの仕事だってそうなんだろうと。
私の仕事は、商品を作った想いや
そこに関わっている人の想いをちゃんと伝わるようにすること。
あーいやいや、まだまだ全然足りてないけど。
で、それをずっと考えていくと、
自分がその仕事にどうフィットしていきたいのか、
なんてことをボンヤリと思うことが増えた。

できれば相手の思うものに素直に反応して
「思うもの」というものが伝わるように作りたいけど、
どこか自然に、自分が反応できる「相手の想い」というのを
チョイスしてしまっていることにも気付いたりして。
たとえば、ほんのちょっと、誰かのために企画書を作ったりしても
こちらは「言っていること」に忠実に作ったつもりなのに
実はちょっとだけ方向が違うことってある。
そのチョイスが間違ってたら教えてもらうしかなく、
すごすごと身を引いたり、
そう解釈した理由に納得してもらえるように努力したり、
たくさんやり取りがあって、
謎が解決されていく様はおもしろい。
でもときどき、「こんなふうに解釈してくれたんや」と
言ってもらえることはとてもうれしい。
そんなだから、おもしろくない仕事はないように思える。

最近、仕事のことしか書いてないね。
ボスには「ピュアすぎるわー」と野次られるけど、
正直、仕事は、いや、人と関わるのはとてもおもしろい。
(というか、私以上に、ボスは純粋=正直?すぎると思う)
たぶん、他のこともあんまり考えてないってことです。

2009/12/02

今週は。

今週からピンの仕事が入って、気合い十分のスタート。
さっそくながら、下着の取材に勤しんだ月曜日でした。
企画には一切関わっていないし
ディレクターさんもデザイナーさんも初めましてだし、
勝手がよくわからなかったけど
商品のことはバシバシと聞けたと思う。
ま、とにかく、ここからスタート。
新しいカタログの立ち上げとなったわけです。
あと、プラスでボスからいただいた仕事を。
新しい家具のカタログの情報整理だけど、
家具のカタログに関わるのはお初で、
これまた勝手もわからないままに
しつこく質問しながらようやくページネーション案完成。
あとは撮影の香盤表と大貼りの原稿を作って
来月の撮影に突き進む、と。

とにかく、勝手のわからないことだらけ。
他の人がやったほうが早いこともわかっているけど、
そこはちょっとガマンしていただいて
辛抱強く付き合ってもらわないと。
とにかく、経験の浅さを思い知ったのでした。

--

風景とは、我々身体の外にあると思われがちだが、実は人の中にある。
風景は空間そのものではない。
あくまで人が、目からだけでなく
身体全体から受け取っているものの「感じ方」である。
人が居なければ空間はあるが、風景はない。
モノの輪郭も、その風景の中にある。
つまり人の中にある。
そして、幸か不幸か人間だけが意識的に輪郭をつくることができる。
動物や植物が輪郭をつくったとしても、
輪郭をつくろうとする意識がないから
どこにも矛盾や破綻という概念がない。
自然のまま、在るがままでしかないのである。
それが、輪郭を自由自在につくれるようになってしまった人間から見ると、
皮肉にも美しいのであり、
そこに馴染む心地よさを感じたりするのである。
デザインという行為は、人が意識して輪郭をつくる行為と言ってもいい。
それゆえ、とかく人の欲望が輪郭に出る。
それは、デザイナーの自我や
売り上げを伸ばすためだけの流通論理などである。
欲望を表出させた輪郭が心地よい風景をつくるとすれば、
こんなに簡単なことはないので
本来デザイナーの職能など必要ないのかもしれない。
現代は人の欲望で輪郭がブレているモノ達で溢れている。
そのようなモノがほとんどであると、
人の感覚もそれに慣れてくる。
本来の心地よい輪郭を越えて、
ノイズになっている空間があたりまえになる。
これは感覚が麻痺している状態に近い。
このような強い主張がぶつかり合う環境にあって、
突然心地よい風景に出会った時に、
いかにそれまでの環境が心地よくなかったかと気付くことになる。
デザインの仕事をしていると、
デザインが消えかかったと思える時が訪れる。
そのモノの本来あるべき輪郭が見え隠れした時だ。
その気配をつかめば、あとは消えたと思えるところまで
突き詰めていけばいい。
本来、デザインはモノを通してコトに導く途中にあるもので、
適度に気付かせてくれて、
そのうち自然に生活の中に溶け込んでほしいものである。
デザインは、人工によって自然を探すことなのではないか。
深澤直人と藤井保の試みは、
そういうことを考えさせてくれる。

『THE OUTLINE 見えていない輪郭(深澤直人+藤井保)』解説より
(文・佐藤卓/アシェット婦人画報社)

--

「答え」を探そうと急げば「答え」はプイッとそっぽを向いて、
こちらを見ようとすらしてくれない、ようなことがよくある。
いや、それが「答え」だ、と思ったことが「答え」になりきらない。
カンタンにピュピュッと、では浅はかで物足りない。
修行不足、執念不足。
毎度、ああ悔しい、の一言。
見えていないものが見えるようになればいいのに、と。
さて、仕事、がんばります。

2009/11/26

知らない人からうれしい仕事。

営業週間〜とは言え、
私が役に立てそうな相手がごくごく限られていることに驚愕しながら、
電話しまくった次の日、全く知らない人から電話をもらった。
「できたら下着とか、バキバキに機能があるけど雰囲気作らなあかんやつ〜」
と自分の興味をポイポイ言っていたのを聞きつけた人からだ。
まさに下着、しかも誰にも心当たりがなくって〜とのこと。
(どうやってコンペに勝ったんだろう…?)
早速今、打ち合わせに行ってきた。
またもカタログである。

というか、カタログが好きなのだ。

メーカーカタログのような、
一般消費者とは縁のない地味なカタログならば、
持っている商品が一覧になる。
アイコンや罫線、全部が平等に比べられるように作られる。
これは、なんとなく、全校集会の先生みたいな気分で、
商品全部にいいところを見つけて愛を注いでいくのが楽しい。
もちろん、何かで一等賞になったモノとか
新しくできたモノは大きく紹介されるけど、
一覧のラインアップの中に突然現れる「ねぇ見て見て」の気分がいい。
それそのものは、使う人にとっては辞書のような役割となり、
字引きのように必要な商品を、グリッドで選んでいく。

通販カタログみたいに、
一般消費者がガッツリ商品を選ぶカタログならば、
その季節ごとにイチオシしたい商品がデパートみたいに並ぶ。
一階の催事場は「ボディメイク」のイベントでもやりましょか。
二階はセール売り場だね、どんどん安くアピールしましょ。
とか、そんなふうに売り場が決まる。
買ってほしい人によって、売りの口調もポイントも変わる。
私らのような制作側は、
デパートの売り子のような気分になる。

自分の思うことを、本当にそうかと突き詰めるスリリングさは、
そら断然雑誌だろうし、それもそれでドキドキしておもしろいけど、
自分が影武者になれるカタログは、それで楽しい。
企画書仕事も、自分たちにできることは何かを問い詰められておもしろいけど、
やっぱりそれは夢や理想でしかないのが否めない。
だから今回、知らない人の仕事だろうが、
カタログの制作の波にグイッと飲んでくれるのはありがたいこと。
しかも担当の女の人、妙にどっしりとしておもしろい。
心配なのは、「コピーライター」名義で参加して、
ちゃんとできるかどうか、だけど……。

2009/11/25

ガキンチョでいいでしょうか。

凸時代に世話になったサイボーグ営業と
あと、デザイン事務所時代に迷惑をかけたディレクターと先輩とで
飲みに行くことになって飲みに行った。
2軒目に行ったのは、もう、ひどいスナックで、
でもそこは、先輩が信頼するバーのマスターの彼女の店なので、
なんとなくいつも、スゴスゴとついて行ってしまう。
気分が悪くなるのでいつも悪酔いする。
ツライ店だと思う。

私と先輩は、彼女のことを宇宙人と呼んでいる。
なにしろ、昨日も、スパンコールギラギラのマイクロミニ、
でかいチチを見せびらかすピタピタのタートルのニット、
頭にもシルバーのスパンコールが刺さっている。
たぶんそれで、50歳くらい。
妙チクリンなテンションで、腰を突き出して踊っている。
それはタンゴか、社交ダンスか、
そういえば昨日は、チューチュートレインで喜んでいた。
踊りが一段落すると、誰かにケンカを売って絡んでいる。
できるだけ、テーブルから離れてもらって、
踊らせておくのが無難である。

昨日のファッションを、ビジュアル的にキツイな〜と思いながら
ボンヤリとしていたのが運のつきか、
彼女が踊り終えたことに気づかなかったのが迂闊だったか、
宇宙人が酔っ払いの目で私を見定め、
「あんた、痩せたのにその体型?」と絡んできた。
さすがにムッとしたけど、自分をなだめすかして店を後にした深夜2時。
帰って三連の腕輪のひとつがなくなっていることに気づいたけど、
もう戻る気にも、彼女と二人きりで探す気にもなれず、
なんとなく諦めたりした。

私は諦めが早い。
最近余計にそうだ。

--

見た目以上に、興味を持てることは少なく、
だから諦めも早く、謙虚にもなれる。
「意外とオトナだった」とは、先輩の私評。
クライアントのオーダーに的確に答え、
訂正が入っても「はいはいは〜い」と機嫌よく応じる。
プレゼンに行く10分前に「表紙を直して〜」という
ちょっとそれはアナタの趣味でしかないでしょ、
いや、それは昨日のうちにわかってたことちゃうの、
みたいな訂正も快く対応、
とっととやってとっとと解放されよう、の意思しか
そこでは働かない。
目の前で先輩が「その訂正はないやろ」と怒り狂っていても
無視してとにかくさっさとやる。
訂正したヤツで提出するかどうかは勝手に決めればいいし、
そこで先輩と同じように怒るには、私はまだまだ未熟すぎる。

ともかく、意思の働かない仕事、
というのはこんなふうに済んでしまう。
正直、おもしろく、ない。

一方で、訂正が入るごとに「なんでですか」と問い詰め
担当者をタジタジとさせることもある。
それは、仕事をオーダーしてくれる担当者にもよる。
意思がぶつかり合って1時間以上も沈黙を守り、
空気を変えるためにごはんでも…となっても黙る。
「眠いの?」と聞かれても、「イライラしてます」と言う。
決してオトナな対応はできない。

そういうやり取りのできる担当者とは
いい仕事ができる、ような気がする。
で、そういう人は、「作業をしてもらうことを
アナタの仕事だとは思っていないから」と言い、
ケンカになることも時間がかかることも承知で私に考えさせる。
私ひとりで考えるのも、他人が勝手に考えたことに従うのも
結局はどちらもひとりよがりでダイナミックなものにならない。
ビジュアルよりも考え方、
考え方があってのビジュアルでコトバだ、と。
蹴散らされると腹が立ち、しかし絶対に負ける。
上等じゃないか、と思う。
次の仕事はギャフン言わしたる、と思う。
それは、とても、おもしろい。

四国から戻って、古巣のライバル会社からの仕事が増えた。
もともとは先輩に頼むのを目的にきていた担当者なんだけど、
先輩に頼むにはもったいない仕事だったりすると、
「さとみちゃ〜ん、これ、いっしょに考えてもらってもいい?」と
甘えた声を出しながらやってくる。ほとんど毎日。
他の仕事をしていると何とか邪魔して自分の仕事をさせようと戯れる。
うれしいやら、うっとうしいやら、だ。
比べると、古巣からの仕事は、
なんだか上澄みを拭うのみの作業仕事が多く、
こんなことで金もらってええんかいな、と暖簾を押す。
(もちろん親分は違う、ただし、拘束がキツイ)
古巣のライバル会社からのは、そうはいかないことが多い。
(そうでないことも、もちろん)
ビジュアルから考える…つまり、作業から仕事に入ることを
彼ら(というかそこの担当者)はイヤがる。
モノ作りの考え方も、過程も違っている。

どちらがどう、てことではない。
古巣の印刷は確かに技術が高いし、
だから入稿前まで確実にやってほしい、てのも理解できる。
どこに重きを置くか、てだけのことなんだろう。

ま、どちらにしろ、お役に立てるようにがんばります。

2009/11/24

土になる。

幸か不幸か、私は人の死というものを知らない。
葬儀には出たこともないし、
だから身近な人とのお別れというものが
どういうものなのか全く想像できない。
こないだ広島に行き、
じじぃに「もう来年は会えんと思う」と言われたときは
かなり胸がドキドキした。
どうやらネエちゃんの義理の母も
ガンを患って、もう危険らしい。
おかんが見舞いに行ったとき、
「私は好きなように生きさせてもらった。
息子もいいお嫁さんもろうて
もう死んでも悔いはない」と言って笑ったそうで、
また、ドキドキして動作がぎこちなくなったのだった。

子どもの頃、おかんから聞かされる話のほとんどは
そういうことばかりだったように思う。
保険師という仕事に就き、
介護の技術を携えながら老人を訪問し、
「病院行くならここで死ぬる」と言われたり
「もう長くはないんじゃき、苦労して来んでええよ」
とも言われただろう。
そんな人たちにおかんはいつも言葉を失い、
どうしていいのかわからん、と漏らしていた。
たくましくなった今のおかん、
それでも人の死ぬ話をするときはツラそうな顔をする。

ネエちゃんの義理の母の話を聞いたのはこの週末のこと。
新年を迎えられるかというようなレベルでなく、
明日やあさってを迎えられるか、というくらいの
かなり近い未来に予定されているらしい。
昨日ダンナの実家に帰っていたネエちゃん曰く、
意識はしっかりとしていて、
遺影に使うための写真を気にもしているとのこと。
今日も家族全員で集合するらしい。

縁の遠い私にとっては、
「タクマはさっちゃん(私)に一番似てるわ」と
ほがらかに笑っていたあの人が、と思うと
感情の行き場がわからない。
でも、間違っても「長生きしてね」なんて
プレッシャーは与えることがもうできない。

--

昼食後、しばらく好きなように過ごしてくださいと言われ、
隣の男性が大の字になって寝転んでいるのを見て、
真似をしてみることにした。
大丈夫かなと、ちょっとビクビクしながら小枝を拾い土を掻いてみた。
枯葉を除けると、そこには思いがけず
黒々とした豊かで柔らかい土が現れた。
寝転んでみるとふんわりと暖かい。
目を閉じ耳を澄ます。
静かなようでありながら何かの息吹を感じる。
目を開いてみた。
ずーっと、ずーっと上まで枝を延ばしている木々の幹、
幾重にも重なる緑の木の葉、
差し込んでくる陽の光を受けてきらめいているもの、
蔭になりやわらかく目を守ってくれるかのように重なりあっているもの、
そしてその先の高い高いところに青空があった。
美しかった。
木の幹が、緑の葉が、
そしてそこからはるか彼方に見える空が、美しかった。
長い間見つめていた。
静かで平和だった。
下から見ると世界はこんな風に見えるのか……、
土はこうやって宇宙を見ているのだ……と始めて気がついた。
人は死んで土にかえると言うけれど、
それも悪くないな、と思えてきた。
地面から見上げる地球はこんなに美しいのだもの。
土になるとは、木々を支え、育み、
葉を茂らせ、実を結ばせる、
そして時が来ると落葉や倒木を受けとめ包みこみ、
自分の一部へと組み込んでいくこと。
寝転がって土に身を預け、森の空気に包まれていると、
土になることが、とても自然で素敵なこと、
少しも怖がることではない、と納得している自分がいた。
とても暖かく安らかな気分だった。

(土になる/文:丸本郁子/森のハナシ)

--

手前味噌ながら、森林セラピーに参加された
図書館員の丸本さんの感想文を引用しました。
彼女はもう70歳と少し、
夫婦で参加され、ダンナさんのほうがガン患者でした。
少し神経質に痩せた腕と口調とで
最初、ちょっとニガテだと思ったけれど、
わからないことをわかるまでしつこく質問したり
何よりそこで一番若い私に最も興味を注いでくれた人。
最初の名札作りで、朝食で、温泉で、
私の手元を眺め、何かを学び取り、
こちらが巧くなければ助言する、という関係の人だった。
というか、こんなにも明け透けなく、瑞々しく
自分の興味に素直な人を見たことがない。

彼女が最後の日に漏らした感想は、
静かで、生き物的で、少しナミダが出ました。
生きるということも死ぬということも、
当事者であれば、案外にそんな悲しいことでもないのかもしれません。


土、とは、死んだものの積み重ねでできるもの。
それをキレイだと思えることはステキなことだと思う。

2009/11/23

原点に戻る。

四国での仕事を終えて早くも2ヶ月、
岡山の仕事は熟考して断り、定期的な収入がなくなった。
つまり、ついに、名実ともに「どフリー」となったわけである。
先輩やボスが「間違ってないと思う」と言うから納得している。
母親も「そう決めると思っていた」と言っている。
その他の道は、想像の中になかったのだ。
しばらくは先輩が間借りするボスのビルに居候する。
「アナタが成長していくことが楽しみ」と言ってくれる。
看板はまだ何も掲げていない。
自分では、「書くこと」ずばりに限定することを拒んでもいて、
(というか、それが充分満足にできるとは思えない)
だからといって、まだ何かできるワケでもないのだけど。
早く「私の看板」を掲げることができるように。
そうじゃないと、甘えさせてもらっている意味がないのだ。

想いは原点に戻る。
このギョーカイというものに入った入口は、
たかだか「フロムエー」で、「トモダチと休みを合わせたい」という
フニャフニャな動機だったけれど、そこから全ては始まった。
ミーツに拾ってもらって雑誌を作った。
作ることには意思を持つことが必要だと教わった。
親分に拾ってもらって四国でガッツリとカタログを作った。
クライアントの意思を尊重しながら自分の意思を持つことを学んだ。
先輩にくっついてボスのビルに居候させてもらって、
今はまだ「手伝い」くらいしかできていないけど、
自分で仕事を作ること、意思をカタチにする方法を覚えること、
それで、仕事をもっとおもしろがりたい。
いつも、何もよくわからないままに、
環境にできるだけ合わせようとして生きてきた。
目の前にあるヒトやコト、モノに、
無我夢中でぶち当たりながら、自分のできることを模索してきた。
ツラくもあったし、悲しくなることもあった。
デキナイコトを実感して悔しかった。
でも、同じ想いのままで同じ「作る」世界にいる、ということは
自分の中に何か理由があるんだと思っている。

私は何が好きで、何と関わりたいのか。
誰を好きで、誰と関わりたいのか。

こないだ、ボスとお酒を飲みながら、
自分のことをたくさん話した。
主には、「ワタシハナニモデキナイ」ということ。
デキナイと思っているのは、「自分の仕事」にする方法だ。
岡山に行って社員にでもなれば、それなりに役を与えられて
予算を持ってたくさんの仕事を「流す」ことを覚えただろう。
もしかしたら企業間の政治を覚え、
企業が儲かるための仕事を作ることもできたかもしれない。
四国にいたときには「上が握る決断」というものに
しばしばヤキモキさせられたし、
もっと賢くなりたいと願ったこともあった。
それもそれで、ひとつの「意思を持って作る方法」だと思う。
でもそれは、私にとってどんな意味があったのだろう。

悩んで考えた末に、
私は、「決定権を持って作る」ではなく「作ったものを愛おしむ」を選んだ。
ボスの言う「オレたちはコミュニケーションをデザインしている」が
とても意味のあることに思えたから。
作ることの意味、
つまり、コトバや写真やデザインが作る間合いのコミュニケーションを
しっかりと理解して関わることができなければ、
自分にとって何の喜びもないだろう。
もっと人の近くに行って、きちんと理解をし、
好きになって作りたいとも思った。
ここ何年かの間に作ったものには何の愛情も抱けず、
「これを作りました!」と誇らし気に言えなくなり、
背筋が寒くなっていることも理由のひとつかもしれない。
とにかく、流れない覚悟が、ようやくできたところ。
「他人の仕事」でなく「自分の仕事」、
30歳にして遅ればせながら、やっとそう思えた。

いい大人になりたい。
自分なりの生活ができる大人になりたい。
仕事は、そのための手段に過ぎないというのは変わらない。
だけど、いつもその仕事の意味で私は困惑する。
ボスは「アナタには想いがあるから」と言う。
私はそれを信じる。

編集長が「思っていなければ書けない」と言っていた。
ボスは「思っていることが自然と出てしまう」と言う。
編集長は「早く表現の筋力をつけなさい」と言った。
ボスは「想いをカタチにする方法を覚えなさい」と言う。
尊敬するカメラマンとボスを会わせたときに、
二人がコトバ少なくも分かり合っていたことがキョーレツに印象に残る。
「人を会わせてつなぐことを、私は一番楽しいと思えるかも」と言うと、
「“つなぐ”じゃなく“紡ぐ”をアナタの役割にしなさい」とボスが言った。
それが具体的にどういうことなのか、よくはわかっていないけど。

私はどんな大人になるのか。
10年後、20年後の私はどんななのか。
「悩むことができる人がいい」とみんな言う。
それならば、万年悩みの尽きない自分好きの私だから、
我が事ながらちょっと楽しみでワクワクする。

筋力増強のトレーニングに、
これからは、できるだけ毎日書くようにしよう。
「新しい毎日」に反応できる瞬発力のためにも。
というわけで、今週から営業週間です。

--

ボスのところには、最近、編集の仕事が多く舞い込んでくる。
これは、クライアントから指名できた仕事。

http://www.kikumasamune.co.jp/book/
丁寧に作られたいい本です。

2009/11/01

やっと企画書できた。

先輩のところには印刷会社だけでも
大手2社の企画部隊が毎日出入りしてくる。
10月の頭から取り組んできたプレゼンは
そのうちの1社からのもので、
それがようやく終わった。
大手代理店数社が絡むということもあり、
無理ながらもやってみようとした結果、
10月頭にあった1次のプレゼンでは通過し、
このたび、最終のプレゼンに臨むということになった。

そのプレゼンの担当者は、
これまでに見たこともないくらい
しぶとく、しつこく事務所に顔を出しては
私と先輩が向かい合って座っている席に
いっしょに並んで座り、
私たちが他の会社の仕事をしていようと
おかまいなしに途中まで仕上がった企画書を広げて
鉛筆と赤ペンを交互に使いながら
自分のプレゼンのシミュレーションをしていた。
途中、言葉に詰まるとすぐに
「これってやっぱりこうなのかな、ああなのかな」と
質問をしてくる。
答えを返すと
「じゃ、この話の流れはやっぱりおかしいかも」と言って
また企画書を最初のページに戻して悩み始める。
それがほとんど毎日、時間も何もかまわず、
ライバル会社が打ち合わせに来ているときでも
気にせずにそこにいた。
ときには夜中すぎに事務所に来て、
朝方まで付き合わされたこともある。

その一連のことはたいへん迷惑でもあったけれど、
(最後のほうは本当にイライラを隠さずに作ったほどで)
おかげで企画書を満足そうに持っていく顔に
達成感も手応えも大いにあり、だった。
何よりも、こんなにも「自分が相手にできることは何か」
「相手が自分に求めていることは何か」
「そう求めているのはどうしてなのか」
「この商品は何を言いたいものなのか」
などなど、不器用にも必死で向き合う担当者は初めてみた。
先輩曰く「だからなかなか成功例を作れない人だと思うけどね」と、
他人の巻き込み方にはやや問題あり、
いやがる人は多いだろうなあというのが先輩の見解。
まず、作っている場所に来られることを疎ましく思う人も多いので。
逆に、ぽいっと投げられてこちらが返したものを
そのまま使う人もいるけど、それに関しては、
「本当に内容を理解しているのだろうか?」と不安になるし、
そもそもの意思を私が理解できていたかどうかも疑問に思う。
それに比べれば、ストイックに付き合わされるのはまだいいほうか。
できたものは、たぶん、定石の企画書にもなってないんだろう。
一次のプレゼンが通過した理由は
「他の会社とは全然違ってトンガッている」
という評価だったみたいだし。

ちなみに全く同じ案件でコピーだけ提供した会社の企画は一次で落ちた。
よくよく思えば、「できない」ことを最初から排除し、
「考え方」を考えることもなくビジュアル案しか見せなかったことが
そこの会社が通過できなかった原因だと思う。
(うまくいったほうのは、今思えばはじめは「考え方」だけだった。
具体的な案を全く出さないままによく通ったもんだと思う)

企画書が「トンガッていた」かどうかはよくわからない、
というか先輩や私を含む本人らが必死に考えて出した結果で、
むしろ当たり前のことを素直に言っただけのような気さえする。
代理店やそれに付随する広告に関する企画書と言えば、
何やらよくわからない、どこにも響かないフレーズが
話を煙に巻くようにくり返し流されるモノばかりなのを思えば、
(特に今回、代理店にとって充分な金額の仕事でないだけに
その姿勢は想像しやすい)
できるだけ寄り添えるものを、とオリジナルに考えられたものは
「トンガッている」ように見えるのかもしれない。
難しいことを難しく言うよりも、
小難しいウンチクはさておいて
感じてほしいことを感じられるように単純に作ろうとしたのも
そういう評価につながったのかもしれない。

ま、とにかく力一杯作った企画書だ。
実際にそれが採用されてしまうと、
企画書を作る以上にたいへんな仕事が待っているけど、
うまくいったら本当にうれしい。

2009/10/22

会話する。

ちょっと前のこと。

弟カップルに誘われて、広島の母の実家に行ってきた。
母の両親は、もう70歳も過ぎているのに
未だ現役バリバリの農家だ。
ナスもネギもふつうに見るのより1.5倍はある。
「うち(実家)で作ってる野菜より立派やねぇ」と
今さらの気づきを口にしていると
母親から「そら、この人らはプロやからね」とたしなめられた。
じいちゃんもばあちゃんも色黒く、
早朝に起きだして畑の世話に行っている。
実家のほうの祖父母と比べると
心身ともに健康そのものといった感じで、
健康そのものな二人の作った野菜はもっと若くて健康。
ちょっとトクした気分になったのだった。

ひょんなことからばあちゃんが
「インターハイ出たときの写真あるよ」と言いだしたので、
夜中だというのに古いアルバムをごとごとと出して
母親と祖母とで眺めながら、
採れたての大根の葉をアテにチビリチビリとワインを飲んだ。

古いアルバムには戦時中の写真も残っている。
写真は全部白黒だし、数も少ないから
当時の街の様子は想像できない。
あるのは、集合写真に人の正面写真。
みんな気合いのこもった顔をしている。
若いときのじいちゃんは、キレイに整ったオトコマエだった。
ばあちゃんは、お世辞にも「キレイ」なんて言えないけど、
「あのときは若いうちに結婚をして、
じいちゃんとこは兄弟も多かったから
母親代わりに世話していた」なんて話を聞くと、
コマメに気の付く、
しっかりとしたええ娘さん具合が目に浮かぶのだった。

--

引きだしに、絵はがきの束をしまってある。
気に入ったものを見つけては買ううち、増えた。
物価があがるなか、絵はがきの値段は二十年まえと変わらない。
不思議なことと思っている。

学校のそばに、絵はがきを専門に売る店があって、
四年間アルバイトをした。
その店にいたおかげで、筆無精もすこしあらたまり、
週にいちど、郵便局に行く用事がある。
記念切手を貼り、あかいポストに落とす。

便せんをひろげて、ちゃんと書こうと思うと、
思うだけで日がすぎるばかりとなる。
それで、拝啓とはじめなくてはいけない先輩あてのお便りも、
こんにちは。以下いきなり用件として、失礼してしまう。
はがきの片ほうには、絵や写真が印刷されている。
反対がわの半分に、宛名を書く。
そうすると、書くところはぽっちりしかない。

あれこれお世話になったこと、
楽しかった集まり、いただきもののお礼。
しばらく会わずにいるひとには、
きのう見た展覧会のはがきに書き、みやげのかわりとした。

おなじ絵を二枚買い、一枚は壁に貼った。
インドの風景画は、昼寝のまえにながめると、夢見がいい。
おなじように、猫のはがきを見れば、猫好きの顔が浮かぶ。
悪筆でつづる近況報告より、
おどろくほど伸びきって寝ているトラ猫を見せたくて送る。

せわしなく暑い日、はがきをえらび、切手を貼る。
への字の口でペンを握り、
インドの景色のように乾いて音のない、
しろい昼さがりにもぐる。
ここにいないひとと向かいあう。

話しかけるひとは、おだやかな表情で、なんにもいわない。
瞳の動きはおぼろで声も聞こえないのに、
会っているときよりも、ことばに頼らずにいられる。

ゆるやかな波が通いあい、宙に浮かぶ。
かたちのない、やわらかなものが、
そのひとにむかって流れていくのが見える。
はがきのかたちに切りとられた短いひととき、
ひとのあたまに細く透明な触角が伸びて、
たがいに交信しているのかもしれない。

行をならべるにつれ、文字がちいさくなっていくのは、
小学生のころとかわらない。
たくさん書いても、まるで上達しない。
筆のさきは、寸詰まりになっていくほどあわてる。

ありがとう、お元気で。
このあたりにくると、けしの粒をならべたようになっている。
読めるかな。
ひらひら振って、インクを乾かし、切手をなめる。

ちいさくなっていくほど、
あて先にいる姿をありありと追いかけられる。
それは、駅のホームで見送る心もちと似ている。

窓ごしに、ゆっくり口を動かし、首をかしげる。
身ぶり手ぶりで伝えると、
いつもより、おおきな笑い顔を見せあう。
走りはじめたら、しばらくついて歩き、あきらめ、手を振る。
そのとたんに、懐かしくなる。

書き終え、息をつき、壁の絵はがきを見る。

ラジオから民謡が聞こえ、ここにいるとわかる。
椅子の脚もとには、ホームに残ったひょろ長い影がある。

『絵はがき』(文:石田千/暮らしの手帖2008年夏号)

--

居候気味にいつかせてもらっている野田の事務所にいると、
ほとんど毎夜、先輩と、さらに先輩の先輩といっしょに
街にくりだすことになる。
私は、自分の仕事や考えていることに
興味津々で乗り出してくれるのがうれしく、まぁ、よく話をする。
イナカのことを話せば、行ってみようと計画を立て、
仕事の悩みを話せば、解決の糸口をするりと垂らしてくれる。
好きに提案をして好きに作るには、
考えも甘く、方法も少なく、手数は多い。
まだまだやなぁと、かつての自分を見るような顔で言われるのも
悔しさ半分、居心地のよさ半分かと。

とにかく、興味を持って関わってくれるのがうれしいのだ。
いくら興味深い仕事をさせてもらっても
仕事をする相手が無反応ではちょっと寂しい。
想いが強くなれば強くなるほど、
思い入れを共有してくれているかは気になる。
こちらはまだ未熟者でもあり、
やっていることに不安も出てくるし。
そういうときに、先輩方のように
横から口出ししてくれる人らがいるとありがたい。

仕事も、会話のようにやるのがいい。

さて、今度は岡山の仕事。
いつまで続くか地方行脚。

2009/09/24

カラダ、呼吸。

高松での仕事が一段落した後、
1週間ほど実家でのらりくらりと家事手伝いの真似事をしていた。
毎度のごはんを作り、片付け、
時間が有り余っているので掃除をした。
雑巾掛けは楽しかった。
何かにぶつかりそうになる毎に
向きを変えたり拭き方を変えたり、
拭くモノによっては水の絞り方を変え、
とにかく頭の中を空っぽにして拭いた。

カラダを動かすということは、
環境に柔軟にできることなんだなと思う。
思想や意思を持ってやることは、
そんなに柔軟にふらふらと方向を変えることはできない。
想いが先に突っ走って、ぶつかっても気づかなかったり
障害物に乗っかって壊しているようなことはよくあるけど、
そうではないことに関してならば、
カラダはかなりのレベルで周囲に合わせている。
雑巾を持って家の床を拭きながら
そんな当たり前のことに気がついて
ひとりボンヤリと感動を噛み締めたりしていた。

--

ヒゲをのばしている。
『喪服の似合うエレクトラ』という舞台のためた。
南北戦争時代のアメリカのはなしで、
負傷してかえってきた若い北軍兵士、
というのが僕の役どころである。

舞台のうえでは、僕はボロボロの軍服に身をつつみ、
アタマに包帯をまいている。
そうした格好だとヒゲもなんとかサマになる気もするのだけれど、
上演をおえて私服にもどると、なんだかどうもシックリこない。
こんなに長いあいだヒゲをそれないのは生まれてはじめてのことだ。
朝、コンタクトレンズをいれていない目で鏡をみると、
ひと月ちかくたったいまでも毎回ギョッとしてしまう。
まあ本人が気にしているほど、
まわりは何ともおもっていないのだろうが。

(中略)

いや、いいたいのはヒゲそのものではなく、
「役でヒゲをのばしている」というときの、
ちょっとウキウキした僕のココロのことだ。
充実感というか安心感というか、
はっきりした手ごたえをもつなにかのことである。

「役づくり」というコトバが具体的にはどのようなものなのか、
なさけないことに僕はよくわかっていない。
「セリフをつぶやく」
「当時の状況をしらべてみる」
「おなじ作家のべつの作品をよんでみる」
といったいかにもなものから
「共演するかたの顔をおもいうかべる」
「台本をひらいてボーッとしている」
などという、どうでもいいようなものまで、
僕のなかではすべて「役づくり」とよんでいる気がする。

舞台稽古や撮影にはいるまえ、
台本をながめながら役についてアレコレ思いめぐらせる作業は、
たのしいけれど心もとない。
僕の場合いろいろかんがえて
結局まったくちがう人物だった、というときもおおい。
いや、むしろ僕は自分の
「人間観察のセンスのなさ」には自信をもっている。
現場にはいるまえの思考はほとんど無駄、
といってもいいくらいだ。
実際に現場にはいってからも、僕にできる確実なことといえば
「やること(ふつうはセリフとト書きだが)を
おぼえて時間どおりに現場にいく」くらいである。
正直にいうけれど、役のきもちなんてやってみないとわからない。
もっと正確にいえば、わからないままやっていることも僕にはある。
そのヒトがどんなヒトなのか、
そう簡単にわかるわけがないのだ(と僕はおもう)。

その点ヒゲは安心だ。
演出家がヒゲをはやせといっている以上、そこに間違いはない。
よく役づくりのため減量したとか、
筋肉をつけたとかいうハナシをきくけれど、
かれらはかならず嬉々としてそうした作業をやっているにちがいない。
すくなくとも、むかう方向はあっているのだ。
「ただしいココロ」をかんがえることにくらべれば、
「ただしいカタチ」にむかう作業は、
手っとりばやく、無駄がないような気がする。

ココロは呼吸にあらわれる、というハナシを
禅かなにかの本でよんだことがある。
心をコントロールするのはむつかしいが、
呼吸をコントロールするのは比較的たやすい。
ゆっくり呼吸をすればおちつくし、
あさい呼吸をしていれば、せわしない気分になる。
(友人の器楽奏者がヨーロッパの音楽学校で試験をうけたとき、
演奏まえに深呼吸をしたところ、
『ゼンか? それはゼンのサトリなのか?』と、
まわりのヨーロッパ人がおおさわぎしたらしい)

ひとのこころはゼンのサトリのように深遠だ。
それでもわれわれは、
やれるところから手をつけていかなければならない。
禅僧はひたすら坐って呼吸をする。
われわれ俳優は、とりあえずヒゲでものばす、というわけである。

※『文・堺雅人』(堺雅人著/産經新聞社)より

--

最近、試合の合間のタイムアウトでの時間帯をよく思い浮かべる。
なぜかいつもウキウキとしていた。
だいたい私は監督から一番離れて、
イスに座りながら事の次第を眺めていたと思う。
監督からの指示は聞こえているけど、
その一方で時間と点差を確認しながら
控え選手がくれるスポーツドリンクを一口すすり、
イスから立って、屈伸したりアキレス腱を伸ばして
カラダの動きをもう一度確認する。
人に声を掛け、呼吸を合わせる。
集中力が高まっている自分を自覚できる瞬間だったのだろう。
ひょっとすると、コートにいるときよりもこの時間は、いい。
佳境の中にふっとできたポケットのクールさが、いい。

今はようやく腰を据えて先輩の事務所に居候気味に
居着かせてもらっている。
ありがたいことに、新しくレギュラーが決まって
すでに制作がスタートしている。
それとは別で、大学案内のコンペ参加が決まった。
ウヤムヤな感じの中、もしかして流れに乗ったら
家具のカタログも作れそうなニオイだ。
どれもが全く種類の違う仕事なのでおもしろい。
実は、クライアントも、バーターも違っている。
違っているということは、たくさんの反応があるということ。
コミュニケーションの方法もそれぞれで、
そのひとつひとつを無視できない。
回を重ねるごと、話を重ねるごと、
さまざまにある事情や制約や希望が見えてくる。
できるだけ奥深くに関わっていこうとすると
自分にはできないこと、印刷では解決できないことがわかって
歯がゆくなったりイライラしたりもするけど、
今のところはおもしろい。



森の奥で見つけた葉脈。
木は真ん中から腐って空洞ができる。
養分になるものから輪廻の旅に出る。
これもまたおもしろい。
このところ、見るもの全てがおもしろくてしょうがないらしい。
おかげで、弟曰く「姉は落ち着きがない」とのこと、
ありがたいコトバと受け取っている。

2009/09/10

お父さんのブログ。

母親の仕事のブログに影響され、
父親にもブログを作りました。
イナカの写真ばかりが上がると思われます。
(とりあえず今日は高知市だけど)

http://e-naka-p.blogspot.com/

2009/08/19

森林セラピーのブログ。

母親からの要請で、母親の勤める街の、
というか森林のブログを作った。
「森のハナシ」というタイトルで、
母親は役場の人としてインフォメーション担当、
森林に住むお医者さんが医学に絡めた日記を書いて、
森林によく訪問してくる議員さんには
森の紹介をしてもらう。
母親きっての希望だったけど、
もちろん予算はなし、その代わり、こちらも好きに作って、
ついでに森林セラピーへの参加を無料でさせてもらうことにした。
(個人的な興味から、だけど)
アドレスは
http://matsubara-forest.blogspot.com/
広告が任意でしか入らないからここにした。
というか、ワタシのブログもここだけど。
さっそくお医者さんが書いてくれたのでうれしく見ている。

2009/07/27

最初は無味無臭。

もう随分と前から、「自分探しの旅(死語?)」とか
「自分は一体何のために生きてきたのか」とかの疑問に対して
疑問を抱いてきた者である。
今ではすでにそんなことを考えるような人は
この世相で探すのも難しいかもしれないけれど、
「自分」とは、そこに実在する「自分」しかいないし
「生きる」とは、「生きていく」ということが目的でしかないと思ってきた。
つまり、最初にある疑問とはロマンティシズムでしかなく、
こうなりたいという理想の自分のカケラを探すことでしかない。
実在する自分は、もっと無味無臭、個性のカケラもないのではないか、と。

タクマが生まれて早くも2年と半年になるが、
すくすくと育ち、周囲から「こんなワガママな子は見た事がない」と
これまた重宝される存在となってきた。
生まれた当初、姉曰く「育児書がマニュアルに思える」くらいに
何の個性もなかったのに。
そういえば、あるバーで
「“こうしたい”という動機は、環境の中で生まれる」
みたいな話を聞いたことがある。
それが少しずつ目に見えてわかってきて、
自分のリアリスト具合を恥じている。

--

初期胚の中で、それぞれの細胞は、
その核の中にゲノムDNAを保持している。
これは受精卵が持っていたゲノムの正確なコピーである。

したがってすべての細胞は同じ設計図を持つことになり、
この時点で、それぞれの細胞は
どんな細胞にでもなりうる万能性(多機能性)を持っている。

しかし、ここが重要なポイントだが、
それぞれの細胞は将来、何になるかを知っているわけではなく、
また知らないままにあらかじめ運命づけられているわけでもない。

まして細胞群全体を見渡し、
どの細胞が何になるべきか、
鳥瞰的な視座から指揮を下している者がいるわけでもない。
にもかかわらず、
各細胞は筋肉に、また別の細胞は皮膚へと、
それぞれが分化していく。

この分化とはどのように決定づけられているのか。
あえて擬人的な喩えをすれば、
各細胞は周囲の「空気を読んで」、
その上で自らが何になるべきか分化の道を選んでいるのである。
君が脳になるならば、僕は脊髄になる。
君が皮膚になるなら、私はその下の支持組織になるという具合に。

各細胞は、細胞表面の特殊なタンパク質を介した
相互の情報交換によって、すなわち「話し合い」によって、
それぞれの分化の方向について、
互いに他を律しながら分化を進めていく。
そして、このプログラムは常に進行する。
つまり細胞は「立ち止まる」ことがないのである。

『動的平衡』(福岡伸一著/木楽舎)

--

「環境を与えれば、環境に沿う」ともよく言われることで、
たとえばバスケットボールのチームでも、
身体能力の具合からキャプテンには不向きだと非難されながらも
立派にキャプテンを務めた人たちをワタシは知っている。
「こうなりたい」よりも「こうならなきゃいけない」が先立つからだと思う。
つまり環境がその個人を変えていく。
それは傍から見ていて気持ちのいい脱皮に見えて
ときどき羨ましくもある。

母と話していたこと。
ワタシは他人に知ったように褒められることを嫌うが、
裏腹で、知っている誰かに褒められることアホほど好き、
というか、それしか生き甲斐がないんちゃうか、と思うほど。
それはとても繊細で微妙なサジ加減である。
褒められたいと思う人には死ぬほど褒められたいし、
褒められたくないと思う人からは、
その話題にすら触れてほしくない。
無理矢理ながら、勝手に自分で結論付けてしまうと、
ワタシは勝手ながら自分の褒めてもらいたい人の顔色を
伺いながらこれまで生きてきた、ということになる。
そういう意識も“つもり”もなかったけれど、
なるほどそれは、とても合点のいく話だ。

2009/07/23

流浪的生活と仕事場。

高松にオフィスができた。
「オフィス」と呼ぶにはいささか図々しいか。
オペレーターが多数詰めている会社の一角を空けてもらってそこにいる。
入口すぐの個室。
10畳くらいのスペースには、
ワタシ専用(と、この際言ってしまおう)のコピー機も完備。
机はアホみたいに広く、机の前には空の本棚。
エアコンをそこそこにかけて
原稿を広げてあれやこれやと考えながら作業をしている。
飽きたらのんびり本を読む。
今は気分に合わせて3冊掛け持ち。
「難しすぎてわからんわー」と言いながら読むのがおもしろく、
ときに突っ伏して眠っている。
て、あれれ。

ほとんど毎日、誰かが遊び(?)にやってくる。
親分はほぼ1日に2回、進捗状況を伺いに来ているつもりだろうが、
たいがいはワタシが取ってきたパンフレットやらを眺めて
仕事とは別の情報を交換して帰っていく。
こないだは「差し入れ〜」と言って本を2冊くれた。
イスにゆっくり腰掛けて世間話をして帰っていく高松の営業マンや、
カンプ上がりを待ちながらお茶を飲んでいくディレクター、
ここは学校で言うところの保健室みたいなもんだ。
こないだまでのケツに着火している日々は終わり、
誰も来なければマイペースに緩やかな時間を過ごしている。
やんわりな刺激とそれを処理するだけのゆったりした時間、
こういう日々がワタシにはちょうどいい。

今やってる仕事が終わるまでの期間限定だけど、
かなり居心地がいいので、
高松の仕事はこれからもそこでやろうかとこっそり企んでいる。
いしし。

「西村さん、いつまでおるの?」って言われるね、ええもちろん。

--

Fハカセは考えた。
赤い薔薇を、ツユクサのような鮮やかな青に変身させたい。
そのためには、ツユクサにあって、薔薇に存在しない
色素合成酵素の遺伝子を、薔薇に導入してやる必要がある。
しかし、主役となる酵素一つだけでは薔薇は青くならない。
その酵素を助ける別の酵素群もツユクサから移植してくる必要がある。

一方、赤い薔薇には薔薇を赤くするための
色素合成メカニズムが本来的にそろっている。
そこへ青い色素を作るメカニズムを移植すると、
当然のことながら競合や干渉が生じる。

したがって、薔薇の酵素でじゃまになるものについては、
これを除去する必要がある。
また、せっかく合成された青い色素が
安定して存在する細胞内環境を整えないと、
薔薇は青さを保てない。
そのために色素を安定化する仕組みもツユクサから持ってくる必要がある。

ハカセは根気よくこの作業を一歩一歩進めていった。
薔薇を青くするための遺伝子を移植しつつ、
薔薇にあって不必要な遺伝子を除去する。
何年か後、とうとうFハカセは可憐な薔薇を咲かせることに成功した。
花は鮮やかな青色に輝いていた。

ハカセは気がつかなかったが、
その花はどこから見てもツユクサそのものだった。

『動的平衡』(福岡伸一著/木楽舎)
「青い薔薇」ーーはしがきにかえてより

--

流れ着いた岸辺にて、お昼に蕎麦を食べながら
メモ帳に思わずシコシコと写したのがこれ。
流浪の身でもクセは変わらず。
遺伝子操作もされてないし。

そういえば、親分から仕事をもらい始めて早くも1年。
ホテル暮らしにもいよいよ慣れて、
週末などで旅立つときには作業場に常備品を置いていく。
常備品の中身は、

・エマール(手洗いしても手にやさしそうだから)
・リセッシュ(毎回クリーニングはちとキツイ)
・物干しのセット
・ティーバッグ&コーヒーバッグ(ていうのか?)
・あさげ&コーンスープの類(淡路島で買ったオニオンスープ旨し)
・醤油(ホテルでの手料理=つまり豆腐が限界、につける)
・マヨネーズ&ドレッシング(ホテルでの手料理=サラダが限界、につける)
・紙の皿&紙コップ&携帯箸&スプーン
・コンタクトレンズ洗浄セット(家にもあるので)
・爪切りとか毛抜きとかの類
・生理用品
・読んでしまった本&読まれ待ちの本(内数冊は親分にあげた)
・見つける度に取ってしまうパンフレットやカタログやフリーペーパー
・ノートパソコン(家にはもっと仕事のできる娘がおる)

とまぁまぁ所帯染みたラインアップ。
これを段ボールに詰めて、えっちらおっちら担いで運ぶ。
高松の仕事がなくなったら…の心配で浮かぶのが、
「これから生活できるのか」よりも
「この荷物を家に持って帰るのか」のとこに苦笑する。
(もちろん宅急便で送るけど)

2009/07/13

雨と晴れ。

親分とケンカをした。
正確にはワタシが一方的に責めただけで、
だから「ケンカ」と言うのとは違うのかもしれない。
ひとつ、仕事を断った。
それからワタシは親分と無駄話をしていない。
ワタシの無駄話に付き合ってくれるのは親分くらいのもんだから
仕事は首が回らないくらい忙しいのに、
なんだかちょっとヒマしている。
「あんなこと言わなきゃよかった」とか
「仕事断らなきゃよかった」とか湿っぽく思う。
もしかしたらもういっしょにお酒を飲むこともないかもしれないと思ったら
ときどきちょっと泣けてくる。
ホームズとワトソンくんの関係に戻りたい。早く。

いっしょに高知のクライアントのところに行く車の中、
深い沈黙が流れていた。
いつもなら、親分が仕事の話をして、
ワタシがそれを茶化して別の話にすりかえていく。
この仕事はどうなったんやろ、
あの仕事はどうなったんやろ、
ワタシはそれを聞きたがり、
関係のない案件に首を突っ込んでかき回す。
ああ、今は何も聞けない、と思うと哀しくなってくる。
目に入れると引くに引けない自分を哀れに思うので
(でもたぶん、間違ったことは言っていないと思う。今回に限り)
できるだけ親分を視界に入れないように、
ワタシは助手席の窓から外を眺める。

外は大粒の雨。
ワイパーは最速にしなきゃ間に合わない。
トンネルを越すたびに雨はひどくなる。
ワイパーを動かしている意味がないように思えてくる。
四国の大きな山を抜けて高知に入ると、
カンカン照りの晴天だった。
「えらい天気違いますね」とようやくコトバを発しようとしたら、
親分が窓を開けて外に手を出し「えらい天気違うな」と言った。
なんか笑えた。

2009/05/28

たっすいきね。

毎週のように、高松と高知を往復。
平日の半分以上は高松、
重なって半分以上が高知。
で、なんだか家に帰っていない。
出張と称して大阪に「行く」こともある。
こないだ書いていたディレクターのおっさんには
いつもえっちらおっちら大阪に会いに行く。
でも、たいがいは多くても1泊で四国に戻ることになる。
あとは、着替えを入れ替えて洗濯をするために帰るとか。
なんか、ややこしい。
たくさんの人に、四国に住むことをすすめられるけど、
なんとなく引っ越すつもりもないまま、
とりあえずこの数カ月、ホテルでの生活を続けている。

理由はいろいろある。
大阪に家がなくなったら、雑誌の仕事がもらえなくなるから。
仕事の9割以上は親分からの発注だし、
一時的に高松にいる(と本人は言いたいらしい)親分が
大阪に帰ってしまうと困るから。
ホテル代とか交通費は遠くにいるから出してもらえる、
とか、まぁ、それらしい理由はいくらでも。
高松は自分にフィットしているかは疑問だけど、
やっぱり高知の、自分の街を好きな人らは好きだし
夜の街も最強におもしろい(やっぱり高知は酒飲みに寛容だ)。
「カツオとか魚とか酒だけが高知やない」と言いながら、
その口でみんな酒を飲んで肴を食べる。
どこの店にもとりあえずカツオはある。
はりまや橋の交差点にあるビルでは
毎時、よさこい節をもじった妙なオルゴールとともに
妙チクリンなからくり人形が踊っていたりする。
そういう情けないとこはものすごく好きだ。
だけど、たまに帰った大阪で
見ようとして見なくても見えてしまう物事が刺激的で、
「大阪に帰る」を自分に強いてしまっている。
その他に何があるかうまく説明できないけど、
そういうようなことで引っ越せない、
と酔っ払いながら言うと、弟は「あー、なんかわかる」と言っていた。
本当にわかったのかはナゾだ。
ま、それはそれとして。

そういえば、高知でのキリンの広告は「たっすいがはいかん」。
「たっすい」とはアサヒのことかと勘ぐれば、
土佐弁を知らない人も想像できるだろう。
「たっすい」とは、「へたれ」の最上級と言うべきか。
味の薄いビールはたっすい、キレよくても味はあるべし。
(て、これ、高知の日本酒やんかい。
ちなみにアサヒ派のほうが多いけど、高知)
それにしても、そこには愛がある。
悪口を悪気を持って言い切れない情けなさがある。
客の会社にて、うちの担当営業(岸和田出身)は
いつもヘコヘコしている(それは本人の元来の性質なんだが)。
こないだ、印刷でミスをした(紙がへたってしまった)営業担当に、
散々怒りをぶちまけながら、
「オマエはこないだも酔っ払って
泣きながら電話してきちょったきにゃ。
あれは夫婦ゲンカやったんかのぅ」
なんて言って救いの手を伸ばしていたんだが、
営業はさらに恐縮してヘコヘコするばかり。
その様をクライアントの社長は、
「アイツは顔はええけどたっすいにゃぁ」と
ガハハハと笑いながら蹴散らして拾っていた。

だいたいが、完璧な物をイナカもんは嫌う。
欠点を見せられない銀行マンの弟はそれを悔いていたが、
私なんぞは欠点が歩いているようなもんで、
だから高知では何かと甘えさせてもらっている。
最近では原稿の確認と言いながら高知に入り浸り、
勉強不足な介護の知識をいただきながら
酒にも浸らせてもらっている日々(もちろん営業経費)。
距離を詰めればおもしろい、てのを高知ではぜひ。
だから「カツオ」や「珍魚」では、
大阪で言う「たこ焼き」「お好み焼き」のように高知ではバカにされる。
(でもやっぱり誰もがウリにするし食べたくて食べる。
これは売上げ的にも切実な問題である。つーか、もっと複雑である)
未だに「うどん」でしか客を取れないのに
もがこうとしない高松(他にももっと広げようがあろうに)では、
同じようにいかないのが難儀である。

雨。

高松は高松で、高知は高知で忙しない。
大阪はもっと忙しいんだろうか。
今日、四国は雨。
半袖ばかりだった高知の街に、
今日は長袖が増えていた。
来週半ばほどには大阪に帰れると思います。
ていうか、そろそろ帰りたい。

2009/05/17

この数週間。





GWには、弟の彼女の両親とうちの両親とがご対面。
ついでに家族で奈良を巡った。
いいにおいのするお茶屋さんでお茶を買った。
先週は高松で、姉夫婦の散髪に付き合い、
三越の辺りをうろうろ。
散髪でぐずったタクマも風船もらってごきげん。
昨日は取材でエレタカといっしょで、
取材終わりに情報交換しながらちょっと飲んで、
飲んでいる途中で押しつけがましく写真を見せてご教授いただいた。
「子どもの写真は(限定)うまいね」と誉めてもらった。
でへへ。

この金曜には、大阪に戻っても
なかなか連絡をしない私に業を煮やして、
トロンボーン奏者アングリーアイが高松にやってきた。
相変わらずの仕事中心な精神で
ほとんどほったらかしにしてしまったけど、
ギリギリ本人は満足の様子で、
「これならいつでも来れるな」と納得して帰っていった。
ただ今は大阪にいる。
今からまた高松に戻る。
明日は高知だ。
高知に行けば、クライアントの社長が、
「どんだけ飲めるか確認しとかないかんから」と
飲みに連れて行ってくれる。
雇い主の営業部長(a.k.a.赤鼻のおんちゃん)からは
「おいおい、さすがにクライアントやから遠慮して飲めよ〜」と
嬉し気な忠告をされた。
ま、楽しみ。

クライアントのひとつでは、
今、買収がどーたらこーたら、社長交代がどーのこーのと
せっかくの企画提案も「いや、どーなるんでしょ」という状況。
でも最近、仕事がおもしろい。
雇い主とうまくコミュニケーションが取れてるからだろうし、
何より、クライアントにとっていい結果を今のところ出せているからだ。
諦めるとこはうまく整理して諦める、
妥協しないとこは踏ん張る、のバランスもようやく取れ出した。
どの仕事も、誠実にしたいと思う。
…とか思っていると、やっぱり私には、
枠を先に作ってくれるクライアントあっての仕事がやりやすいらしい。
枠とはつまり、クライアントに潜在的にある悩みであって、
設定されている枠は単なる基準で、破っても超えてもいいことがほぼ、
そういうやり取りができることは幸せだ。
で、今度、その枠を完全に取り払うために広告を出す。
初の新聞全面広告のコンペ、
勝って、もっと悩みに付き合って、利益をもたらしたい。


こないだ高松のおふくろ酒場にて、
親分から、おもむろに鞄から取り出した本の、
難解なコトバを指で示しながら読んで聞かされた。
妙に納得してしまったので抜粋。

--

ピカソのキュービズムの発明は、
確かに、20世紀絵画開幕の合図であろう。
だが、彼は言う、
「我々がキュービスムを発明した時、
キュービスムを発明しようという様な意向は全くなかった。
自分等の裡にあるものが明かしただけだ」
そして、自分のうちにあるものとは、
目前に坐ったカーンワイラー氏についての意識に他ならず、
心理を探ってキュービスムを得ようという様な意向は全くなかったとも、
ピカソは言い得たであろう。
彼が、エジプトやニグロの芸術に赴いたのも、
単純に、彼等の作った現実の物へであって、
古代人や原始人の心理へではあるまい。
彼を駆り立てたものは、
趣味とか好みとかいうものでもなかったろう。
趣味も解釈も批評も、美醜でさえただやくざな言葉と化したと知った人間が、
たまたまピラミッドやニグロの仮面に出会ったと言ったほうがいい。
「内部にあるものが明かしたかったのだ」と言いながら、
ピカソが実際に行ったところは、
寧ろ内部からの決定的な脱走だったと行ったほうがいい。
ロマンティスムが育成して来た「内部にあるもの」は、
次第に肥大して、意識と無意識との対立となった。
ピカソは、そういう問題に関心を持ったが、
彼には天成の画家として関心の持ち様がなかった。
彼には見えるものしか描けやしない。
内部にあるものは考えられるだけだ。
意識と無意識とが問答する様な暇はない。
彼は絶えず見える物に向って、
外部にある物に向って行動を起すのである。
従って、そうして得られた驚くべき形象の多様は、
混乱した心理風景でもなし、任意な独白でもない。
彼が言う様に、自然は常に目前にあり、
自然を前にした仕事しか、彼は信じてはいない。
客観主義も自然主義も、自然の解釈に過ぎない。
画家が対象を見て描くとは、対象に衝突する事である。
平和も調和も去った。
恐らくはそれは自然を吾がものとなし得たという
錯覚に過ぎなかったであろう。
ピカソは、可能な限りの身振りで、
対象に激突し、彼は壊れて破片となる。
それより他に彼には自分の意識を解放する道も、
他人の意識を覚醒させる道もなかったのである。
恐らく彼は正しい。
だが、誰にも正しいと言うには、あまりに危険な道である。
模倣者は呪われるであろう。

※近代絵画(小林秀雄/新潮文庫)

--

自分に自然に。
難しいことをごちゃごちゃと考えないで
反応する感情に、素直に。
人に合わせられるなら合わせて、
合わせられないところはうまくやり過ごして、
先に自分が思えたところはきちんと押したりして。
それは、「何かを作る」という実作業でもそうだけど、
そうじゃない部分でも言えると思う。

2009/04/30

いけしゃーしゃー。

いけしゃーしゃーと、仕事ばかりが増えている。
今度はメンズウェアのカタログ、
京橋でおかんな焼肉店をデザイナーズな店に変身させた
街なオッサンと組んで企画を立てるらしい。
…なんつって、これ、ほとんど当て馬的要素満載、
強がりなドングリ(代理店)の小競り合いの中で、
「おいらたち、こんな企画だってできるんだぞー」と
できるだけ高く飛び跳ねることを期待されている空気が漂っている。
親分の好きなオッサンと、
親分の親指ほどの私とのドリームマッチ、てか。アホくさ。
でも、親分だから協力せねば仕方がない。

仕事の続きで言うならば、下着の仕事は今のとこかなり順調。
ま、これもこれから、クライアントのドロドロな政治に
巻き込まれるだろうアホくさい匂いは充満している。
「下着なんかわかりません」なんて
いけしゃーしゃーと言っちゃう“トップ”が(一体何の会社や)
売り上げがどうの、という現場の切実なことよりも
自分の趣味やメンツのためだけに周囲をぐるぐると巻き込んでいく。
よっぽど自覚のない無作法者か、
自覚して巻き込むイヤミなハゲオヤジである。
カタログのキャッチを全部タテ打ちにしなさい、
なんて全社的にいきなりの統一事項も、
ただただ自分が威厳を保つために
何か文句でも言うとこか感が垣間見えて見苦しいことこの上ない。
それともタテ打ちにすれば売り上げが倍増するとでも言うのか。
それにしても「タテ打ちに」なんてスケールが小さい。
小さすぎるぜ、オヤジ。
小さいくせに、訂正費、内々でようけかかるっちゅうねん。

ま、カタログや広告は、自分が“話”を提供するワケじゃないし、
ましてや大きな金の動くカタログにしてみれば
このテの問題はけっこうどこの会社にでも転がっている。
(とは言え、制作費自体は不十分。そのことに彼らは全く無自覚だ)
決断をしても責任だけでメリットがないからか、
話を先延ばしにするための“打ち合わせ”に付き合わされるか、
うやむやにしながら「タタキを作ってもらえるかな」
なんていう“上”からのオーダーを受けることになる。
こちらにしてみれば、
グレーな話の決断を促すようなヘタな発言はしたくないし、
そもそもお悩みをクドクド聞いているうちにどうでもよくなっている。
キャッチコピーはヨコかタテかなんていう小さすぎるグレー問題同様、
できれば、「決まったら教えてね」という立場でいきたい。
で、そういう話が出てこない会社は、単純にいい会社だ。

そしてただいま高知。

高知の仕事はいい。
なんといっても、何をしてもほめてもらえる。
これまで作ってきたカタログがフォーマッティブだっただけに、
商品を見せようと奮闘したらすぐに結果が出る。
喜んでもらえてほめらてもらえてうれしい。
決定権が全員にあるから話していて決断が早くて気持ちいい。
むしろ筋のない話をすればこっぴどくやられる。
でも、しょーもない営業も失敗をくり返しながらかわいがられている。
あー。どこもがこんな会社ばかりだといいのに。

ちなみにここのカタログ、無料じゃないのに40万部(すごすぎる)。
こないださらに、増刷すべきかどうかで悩んでいた。
しかもカタログだけで商品を売っているワケではない。
小さなほったて小屋みたいな事務所で、
いけしゃーしゃーと、やりよります。

2009/04/11

仮り末代。

数ヶ月前、あるひとつの制作物に対して
ナットクのいくモノを作ることができず、
親分といつものようにビールをチビりチビりと飲みながら
原因を探ってなじり合った。
私は、うまく作れなかった原因を、
「踏ん張る」ことのできない体制にあると思った。
「そんなもんオマエが踏ん張れよ」と親分は言う。
それに対しても、できない原因をいくつか連ねてみせたが、
所詮は私が「いい人」で「無関心」であるからという結論に至らされた。
概ね当たっているのでムグッと言葉を飲み込んだ。



親分に関して言うなら、
十年来仕切ってきたカタログを競業他社に獲られ、
また同時期に、評価の高かったカタログが廃刊になってしまった。
「課長」で高松の事業所の管理人である親分は
いよいよ背水の陣といったところでもある。
最近ではクライアント全体にすら「売り場」というよりも
「作品創り」といったフワフワと浮いた感じが漂うのは否めず、
しかも商品の善し悪しの類までこちらが判断するという、
一体どちらが会社の主体か…という空気すら。
そのうえ資金効率化などと知ったふうな顔してのたまっている。
「やってられへんわ」と言いたいのは親分のほうであろう。
こちらからは「お気の毒」としか言いようがない。
クライアントにいた数少ない「主体」が
続々と会社を離れていることもヤバさを物語る。

ちなみに、冒頭のカタログ、出して1週間ほどで、
スタートダッシュで前年比5倍の売上げを記録したらしい。
必死で作ったのは確かだし、
そういう評価はうれしくないわけじゃないが、
写真もコピーもデザインも中途半端、
いかにも「ブリっ子」なシロウトカタログである。
一体何がよかったのか頭を抱えて悩んでいる。
というか不本意で不可解である。
比べた前年の売上げがどのくらいのもんなのかもナゾだ。
(1人にしか売れてないとして、5人が買っても大差ない。
しかし、それも「5倍」である)
そろそろ出て1ヶ月ほどになるが、結果はどうなのだろう。
正直言って、怖い。

-+-+-+-+-

「トタンはそっくりかえっちゃっているし、
屋根はバラバラになっているし…」
居酒屋のおかみさんが言った。
「うちも、そうなんだ。茶の間も、子供の部屋も、
便所も雨漏りがする。……しかし、おたくなんか、
そのうちにビルを建てるんじゃないか。駅前あたりに」
「とんでもない。屋根だってなおせないんだから」
「そうかねえ。とてもそんなふうには見えないけれど」
私は、自然に天井を見て、それから、あたりを見廻すようにした。
「もう、一生、このままですよ」
「ここへ来て、何年になります?」
「十五年ですよ」
それは、板のむこうで、タコとコハダで小鉢を造っている主人が言った。
私には、柱も壁も、きれいで、しっかりしているように見えた。

はじめ、私は、体をこわしているので、今日は飲めないのだと言った。
すると、おかみさんは、飲まないほうがいい、
と言って、湯呑茶碗を用意した。
そこへお茶が注がれるまえに、私は、
すばやく、しかし一本ぐらいならいいだろうと言った。
飲まないほうがいいかな、
それとも飲んだほうがいいかな、と、つけ加えた。
そのへんが、私の本心だった。
なぜかというと、飲まないほうがいいにきまっているのであるが、
そこは、なにしろ、居酒屋であり、酒にしたほうが、
いきなり御飯にするよりは、
うまいものが出てくることがわかっているからであった。
もうちょっと説明すると、その店では、私は、
いっさい注文をhしないことにしていた。
そのほうが、主人も機嫌がいいし、
また、確実に、うまいものが出てくるのだった。

薄縁を敷いてあるところでは、
商店に勤めているらしい三人の青年が鉄火丼を食べていた。
それとは別に、小皿に持った沢庵の色が、まことに良い。
彼等は、さかんに、全学連について悪口を言っていた。

主人は、私のほうを向いて、飲んだほうがいいよと言った。
それから、そっぽをむいて、くすっと笑った。
私をからかっているつもりなのだ。
同時に、おかみさんをもからかっているつもりなのである。

私は、一本だけ、飲むことにした。
おかみさんに、それ以上、飲ませないようにしてくれと頼んだ。
いつものようなコップでなく、猪口にしてもらった。
おかみさんは渋そうな顔つきをした。

はたして、アナゴのキモと、ミルガイのコが出てきた。
主人が、飲んだほうがいいと言ったのは、
半分はこのためであることがわかった。
「十五年。へえ、十五年ねえ」
「このうちは、四十年経っているんですよ。
だから、台風とか地震のときはこわくてねえ」
「おどろいたね」もう一度、見まわした。
「でるからね、はじめて来たときには、子供がいやがってね。
家へはいらないんですよ。
家を見ただけで、沼津へ帰るって言うんですよ。
あたしたち、それまで沼津にいましたからね」
「そうなんですよ」
おかみさんの言葉が終らないうちに主人が言った。
「畳は赤くなっているし、部屋は汚れているし、柱はへなへなだし…」
それにおっかぶせるようにして、おかみさんが言った。
「あたしたち、ずっとここに住もうなんて思っていなかったんですよ。
それに、こんな商売を続けていこうとも思っていなかったんですよ」
「あたしは、ほんとは会社員だったんですよ。鉄工所のね」
「仮り末代なんですよ」
そこまで、主人とおかみさんが、二人で競走するように、
早口で、せきこむような調子で言った。
「えっ?」
「仮り末代って言うでしょう」
「知らない」
「よう言うじゃないですか。仮に住んだつもりが、
そのままになってしまうことをね」
それを主人がひきとった。
「そう。あたしたちは仮り末代」
「もう、家を建てることも出来ないし、この家をなおすこともできない。
屋根だってなおせないんですから。このまま、一生…」
「そんなこともないだろう」
私は、残りすくなくなった一合の酒を、慎重に、大事に飲んでいた。

どういうわけか、私は、医者のことを思いうかべていた。
医者になってしまった友人のことを考えていた。
それも、一人や二人ではない。

私たちが、旧制の高等学校や大学の予科を受験するころ、
徴兵のがれのために、こころならずも、医科を受ける人たちがいた。
その数が一人や二人ではなかった。
なかには、学力に自信がなくて獣医学科を受ける男もいた。
卒業して兵隊にとられても、獣医ならば、楽であり、
危険がすくないという計算もあったのだろう。

医科には徴兵延期があった。
それは、おそらく最後まで続くだろうと考えられていた。
安全な道だった。

中学の同窓生や同期会に出席すると、たいていは、その男たちが、
そのまま医者になってしまっていることに気がつく。
父とか兄とかが医者である場合は、そろそろ独立して、開業医として、
それ相応にやっていける年齢に達している。
そうではなくて、会社員とか官吏とか
教員とかいう家庭に育った男たちは、
いまでも病院勤めであったり、大学にずっと残っていたりする。
その数が、つまり、一人や二人ではない。
三年ほど前に、月給が三万円とか四万円であることを知って驚いた。
なぜならば、こころならずも、予定を変更して、
医科を受けて合格してしまうという同級生は、
優等生であり、秀才連中であったからだ。
なんだか申しわけないような気がした。

同様にして、本来は、文科系tか文学部を希望していたのに、
やはり徴兵のがれのために理科を受けて、
現在もそのまま、工業会社に勤めていたり、
科学方面の仕事をしている男の数は非常に多いのである。

また、徴兵延期があるということで、
当時は、いくらか軍隊にちかい印象をうけていた
商船学校を受験した男がいる。
兵隊にとられるよりはマシだと思ったのだろう。

その男は、結局、そこを卒業して、船員になってしまった。
戦後になって、何度も船員をやめようと思った。
しかし、いまでも彼は船員であって、
一年のうちの十ヶ月ぐらいを海の上で暮している。
ことによると、私たちは「仮り末代」の世代であるのかもしれない。

居酒屋での、私の酒は5本になり、
おかみさんはいよいよ渋い顔になり、主人はますます上機嫌になった。

私にしたって、居酒屋へ寄るつもりで散歩に出たのではない。
暗くなったので、ひょいと、はいったのである。
飲むつもりはなかった。
かりに一本だけ飲んだのである。
いつのまにか、そのままずっと飲みつづけてしまった。

酔ってくると、私には、すべての人が、世の中全般が、
たとえば男女のことにしたって、仮り末代に思われてくるのである。
そんなときでも、誰にとっても、
こころならずもというのが、実は、本心なのではあるまいか。

※「男性自身」傑作選 中年篇(山口瞳著)

-+-+-+-+-

高松に来て思わぬ苦行を強いられている親分、
このところよく「大阪に帰ったら…」と言う。
高知に向かうクルマの中でも、追手筋のひろめ市場の中でも、
高松に戻ってきて居酒屋に向かう途中でも、
「戻ったら○○会社にこうこうこういう提案するから、
それまでに制作部隊組んどいてや」など、具体的に描いているらしい。
しかし「具体的に」とは言え、いつ大阪に戻れるかわからないから
結局のところ、実際は妄想なのである。
こないだ高知での打ち合わせを終えて
しばらく帯屋町の商店街の周辺を案内しているときには
「おサトは高知の人なんやな。
オレは大阪出身や、って四国におったら実感する」とも言っていた。
余程、大阪に戻りたいと見える。

でも希望に反して、まだしばらく親分は高松にいるんではないか。
高松のスタッフ、営業も制作も含めてだが、
親分に対する信頼は相当に厚い。
「親分が高松にいる間はここを離れたくない」と
毎晩のようにコンパを仕切っているチャラけた男風情も
そこだけはしっかりとした口調で言い切る。
「親分が来てここの雰囲気は本当に変わった。
みんな仕事に集中しようとするようになった」とはベテラン女史の弁。
全てを鵜呑みにしないでいようともがきながらも、
親分のペースになっていて、それが意外と楽しいのだとも言っている。
ひとつずつの言葉に含まれるズシリとした重みに
ウンザリすること多々であるが、
「相手の売上げに付き合えない企画には何もない」
などと言いながらクライアントと向き合おうとする
サラリーマンには意外と出会えない。
周囲は、そういう真っ当な考え方に振り回されながら
仕事ができることを楽しんでもいるように見え、
親分が大阪に戻っていくことを損益だと思っている。
つまり、私の予想は、高松でのほとんどの収益を預ける
そのクライアントのモンダイを本当に解決できるまで、
親分は「四国」に付き合わなくてはいけないだろうということである。



冒頭の話に戻る。
比べて曰く、私にはこだわりのようなもんが全くないという。
どこで何をしようと、私自身には
別段の変化はないようにも見えるらしい。
他人のやることや意見に無関心、
合わせることができるというよりも
合わせることしかしていないとも言った。
呼吸を合わせることで自己防衛もしながら
相手の様子を見ているということなんだろう、
「だからオマエは人付き合いに時間がかかる」と
オニの首でも獲ったかのようにうれしそうに親分は指摘する。
その指摘は半分合っているかもしれないが、
半分は私への、親分の希望である。
当人はそれを悪いふうに思っているわけでもないようで、
むしろ酒に乗じて珍しくホメてみた感じのところもあり、
結局のところ戯言に結論は出なかった。
「別にもう、なんでもええっすよ」と返事をした次第。

2009/03/28

カラムーチョと、まくしたてるカン高い声。

訃報。
エルマガジン社が誇るべき校閲の大プロ、
小原美砂さんが亡くなられた。
今日が葬儀とのこと、
東京の編集部隊同様、私も参列はできない。

小原さんは喫煙者で、だから喫煙所にて仲良くしてもらった。
小さいカラダでカン高い声、まくしたてるような口調で
いつも格好つけて生きていた。
昨晩、テンコから知らせを聞いたときには
酔っ払っていたのもあってうまく処理できなかったけど、
一晩明けて改めて思った。

小原さんは、自分で意識はないだろうが、愛着のある相手に対して
または愛着を持ってくれる相手に対して、
素直に正直に、隠さずに本性を見せきっていた。
それは仕事にも然りで、校閲のプロとしてやるべきことをやった後に、
打てば返ると思える人に、きちんと打った。
それは、後で大先輩から聞いた逸話でも伺えた。
不器用で人間的、そんな人がバシバシと校閲に入ることの安心感。
小原さんの仕事は、本当にプロだった。
ミーツの「なんば」特集で、私はミナミの話を書いた。
全ての始まりはそこだった、みたいな
背伸びした話を書いていた途中で行き詰まり、
喫煙所で出くわした小原さんに出力した文章を見せて相談したときに、
「もっと西村ちゃんの言いたいことを読んでみたい」
と言われたことを思い出す。
書ききったけれど、それが自分の言いたかったことなのか自信はない。

身近にいる尊敬すべき人がいなくなるということには
やっぱり慣れることができない。
早すぎるんだ。


--以下、以前に小原さんのことを書いたブログを再録。


「誰か私に欲情して」とは、中村うさぎの著書の帯に書かれたモンクで、「ものすごくうなづいたの〜」と出版事業部のテンコが興奮して言っていた。すさまじくスレた、かつ純粋なモンク。「誰か私に欲情して」とは、意識の外で私も思っているような気がする。(スレてると純粋はよく反対の意味で使われるけど、絶対に間違っていると思う)

校閲のプロフェッショナル、推定60歳の不良少女は、いつでもカリアゲにショッキングピンクの口紅、パーカー。ロックがめちゃめちゃ好きで、ミーツの音楽ページはくまなくチェックしている(てかチェックしようとしなくても目に入るか)。「この服ね○○で買ったの〜、いいでしょ」とタバコ場で自慢する辺りが少女。こないだ辞めたウチの美人な新人に対して、「アノコはオトコに媚を売る」などその評価には珍しくけっこうな女的厳しさを見せていた。ま、言ってもそのばあちゃんも、私に話す声のトーンと、オトコに対する声のトーンには「#」くらい違っている。意識はしていないのだろうが、意識してない辺りがまたヤらしい。きっと無意識に「誰か私に欲情して」と思っているのだろう(思っていてほしい)。歳を取ってると思って甘くみたら後悔する。

前編集長は、不良少女の校閲に「さすがやのぅ。シビれる校閲や。さすがプロやなぁ」と必ず声をかけていた。不良少女の仕事ぶりは、編集長が交代した今だって変わらないが、そういう意味では、「この朱書きシビれるのぅ」などちゃんとこだわった細かい部分を理解していた前編集長はやっぱりデカい。ま、その辺が「欲情」として受け取られていたのだろうなぁ(その意味通りの「欲情」ではないだろうが)と最近思う。やったことへのこだわりの部分を見つけてもらうことは、無償の奉仕へとつながることも多い。それは無償の愛でご奉仕する官能的悦びと似ている。

「欲望」に応えるのはカネや名誉じゃないことは、特にこの業界ではキレイ事でなくよくある話。カネやら名誉も大事だけれど、相思相愛で作ったものは、そういうものを目当てに作ったものより強い。昔のウチの雑誌ではたぶんそういうのでおもしろいスタッフが内外にいたんだと思う。で、そうならなきゃおもしろくはないだろうなぁとか、たまに思ったりする。
(2006年9月11日)


--


これからもきっと、
カラムーチョと明太子せんべいを見るたびに
小原さんの真っ赤な口紅とキャップと
キンキンに響く口調を思い出すだろう。
小原さん、お疲れさまでした。

2009/03/27

ロートル魂。

私のパソコンは2台。
ひとつは、去年買ったばかりのiMac、
モニタはテレビよりもでかくて24インチ
(単に私のテレビが小さいだけ)
もちろんインテル搭載、
メモリも増強させていただいたし
キャパも広く、作業も素早い「デキる子」だ。
たとえるなら、スマートで背も高くて別嬪で
仕事のできるいい女、といったところ。
しかし彼女をウロウロと持ち歩くワケにはいかず、
常日頃持ち歩いているのはもう8年ほど前に買ったノート。

こないだお茶をこぼしたので
カーソルの「↑」がとうとう効かなくなってしまった。
ちなみにインテルなんぞ入っておらず、
無理矢理にOXの10.4を入れてみたものの、
入れたおかげで動きはノロノロと散漫になった逸材。
ちなみに残っているメモリは100MBとちょっと。
鼻にメガネかけて、近所のおっちゃんと無駄話をしながら
そろばんをポツリポツリと打っては
「あー間違えた」と言って何度も何度もガシャガシャと
リセットするようなそんなおっさんと似ている。
別に嫌がっているわけではない。
時間に余裕のあるうちは。
このロートルの愚鈍なハゲのおっさんに鞭打ちながら
せっせとデータを作っている。
麗しい美女に早く会いたい。
そして、できることなら、5月からの高知おこもりでは
「デキる」人材を投入したい。
できることなら。

と、ブツブツ言いながら
このテキストを作っているのもロートル愚鈍ハゲ。
今からまた事務所に入って打ち合わせブースの一角を占拠し、
スペックの整理とフォーマットの原稿を作り、
取引先メーカーとその商品の一覧を作るんだが、
その作業を支えるのもロートル愚鈍ハゲである。
私のように熟れたキーボード打ちには到底着いて行けず、
しばしば「どうしたんや、じいちゃん」と振り返って元来た道を戻り、
タンを吐こうとゲホゲホ言うじいちゃんの背中をさする。
道中は、長いぞ。

2009/03/26

ジミヘン。

こないだプレゼンした介護用品のカタログの制作が決まり、
さらに、下着のカタログ制作は引き続き…というよりも
ありがたいことに、名指しにて続投決定(自慢)、
いよいよ撮影からプルーフまでの工程に入ってしまったので
私の周り(てか、私)は一気に祭りの形相。
ちなみに、カタログ制作における「祭り」とは、
「しっちゃかめっちゃか」、という意味である。

ま、下着のほうは、改善の余地は多々あれど、
慣れたスタッフとの仕事ゆえに心配は少ない。
今、私を縛るのは介護用品のカタログだ。

介護用品のカタログの主は高知にいる。
アジト(本社)は高知市でも春野町の麓、住宅街のほとりにある
バラック小屋みたいな建物。
ヤ○ザのごとくぬっとした存在感の社長を筆頭に、
マッチョな社員で固められ、数字だけを見ても年商350億、
ギョッとさせられる「デキる」会社だ。
打ち合わせはものの30分もあれば充分に終わり、
250ページに及ぶカタログの商品取材の際も
投げる質問に対してとっとっと、と答えが出て、
わずか1日と半分で全ページの概要を把握させられた。
問題を先送りにしない、仕事が終わればとっとと飲みに街に出る、
などの大胆不敵で陽気な様は、高知に根付いた性格でもあるんだろう。
これまでに作られたカタログを見ても、
節々におもしろ要素はふんだんにある。
ミッションは、もっと元気があっておもしろくて話の早いカタログをと。
冷や汗タラリ。

おかげさまで、高松の事務所におこもり状態である。
昨日の朝からずっとカタログとにらめっこで
おもしろい話を落とし込むためのルール作りに悩んでいる。
その作業はおそろしく地味だし、
200ページにわたり、車いすや浴槽から、
肌着、食器、食材に至る様々な300種もの
商材を集めるカタログはヘビーの一言。
作業をする全員が、商品知識のあるスタッフならいいが、
使っていいのはデザイナーでなくDTPオペレーターのみ、
ボリュームがあってスピードを要求される作業日程のため、
原稿は広範囲の人に整理してもらわなければならない。
てなわけで、一口にスペックの整理と言っても
たとえば「サイズ」を先に出すか「素材」を先に出すかのルール決めが必要。
そして多岐に渡る商品であればこそ、
語り口は様々だし、知りたい情報の順位は変わる。
云々云々。

と悶々とした風情で言いながらも、
このジミヘン(地味でヘビーな編集)作業、嫌いじゃない。
こないだの打ち合わせでも「商品がわかるようにやってくれるなら」との
緩い条件をいただいて頭の中で何かが「キラリン☆」と光った。
情報を地道に理解していきながら
「これはこうしよう」「これはああしよう」のページが見えてくる。
今朝も、その妄想を早くカタチにしたいが余りに早く目が覚めた。
新しいおもちゃを与えられた子のように夢中。
さて、やりましょ。

2009/02/25

このところの傍役志向。

気づけば2月も終わり。
今月もよく働いた。

働けば働くほどに
矛盾するいろんな感情に気がつく。
いつも悩んでんな〜と、谷本氏にも言われた。
優先すべきは、自分の立場かプライドか。
それともクライアントの利益か。
答えも、そもそもの「プライド」の設定位置の間違いも
とっくの昔に分かっているのだが、
冷静に、その判断ができないのだ。
そして、何が一番大事なことなのかを見失う。

「あらゆることを自分を感情に入れずに」と
宮沢賢治は『雨ニモ負ケズ』で叫んでいた。
暗唱できていた中学生の頃は、
「そんなことできるわけがない、ただの理想論だ」と
これに単純に異見したけれど、今になってわかる。
できないのではなく、理想論でもない。
やろうとしないからできず、
また、「やろうとしない」理由をまず先に考えるから
そこの発想に至ることもできない。
至らぬワケをとっとと探して認めるが勝ちだ。

-+-+-+-+-

理由こそわからなかったけど、
誰もが誰かに対して、
あるいはまた世界に対して
何かを懸命に伝えたがっていた。
それは僕に、段ボール箱に
ぎっしりと詰め込まれた猿の群を思わせた。
僕はそういった猿たちを
一匹ずつ箱から取り出しては丁寧に埃を払い、
尻をパンと叩いて草原に放してやった。
彼らのその後の行方はわからない。
きっと何処かでどんぐりでも齧りながら
死滅してしまったのだろう。
結局はそういう運命であったのだ。

※1973年のピンボール(村上春樹)

-+-+-+-+-

ミゾさんからの要請で、
大阪のいくつかの店を巡っている。
昨日は路に行った。
松山の露口にて、様々な人から
「大阪なら路に行く」と散々聞かされた。
露口さんは、カウンターにて
無口に淡々と酒を作る。
たまに言葉少なながらうれしそうに話をする。
往年だからと背筋を正すのではない。
不思議にくつろぐ下町のええ店は、
路でも共通するのであった。
「気泡が上に上がっていくからハイボールって。
先代の母親が言ってたけど、うまいこと言うよね」
と目を細めながら教えてもらった。
長くあるからいい店なのではない。
愛されているから長く存在できるのである。

それは名傍役の渋みとも似ている。
つながりを作りうまい話を醸造させる街の中の“名傍役”、
たぶん私は、そういう店に敬意を払うことが多い。
いきなり自分に振り返って恐縮だが、
私はそういったふうに傍役になりきれているのだろうか。
主張し、我を張っているだけではないか。
そんなことを事あるごとに思う。

2009/02/16

答えはないのだ。

プロジェクト・ランウェイに夢中。
家では観られないので、実家にて録りだめ、
こないだ高知出張のついでに
実家でむさぼるようにして観た。
昨年の優勝者(米では2006-2007シーズン)、
ジェフリーのデザインは超イカしてたし(英訳風)、
今年ももちろん要注目。

しかし、観ている私ら側からの、
ひとつひとつのファッションに対するダメ出しの多さよ。
全米から選ばれた才気溢れるデザイナー数名、
それがほんの半日やそこいらでドレスやスーツを作ってしまう。
モデルにフィッティングしてメイクしてランウェイに出て、
てことだけでも普通に「スゲー」なんだけど、
審査員から言われる小言は縫製の甘さにデザインの仕上がり、
テレビのこちら側にいる私らも、同じく。
着られるわけはないのに、
勝手に自分が着ることを想定して
デザインの善し悪しを勝手に判断している。
あるいは、「これ、こんなときに着たいなー」などの
勝手な妄想を膨らませたりもして。

ともかく、「作っていない他者」になると、
その工程がどうだったかなんて関係がない。
私ら観客に見えているのは、
その服を着たいかどうか、のその一点。
もしかしてそのデザイナーが身内とか知り合いだったら、
別の反応になるはず。
てのは当たり前のことなんだけど、
日常では自分の判断能力を客観的に見るなんてほぼ不可能、
それに気づいて、テレビを観ながら深く感激したのだった。

ちなみに、YouTubeでも視聴可能。

ちなみに通常の番組はこう。


-+-+-+-+-

「いったい日本人は無用の知識が多過ぎる、
『中央私論』だとか『改作』だとか、
その他のいわゆる高級総合雑誌をみたまえ、
月々それらの誌上には哲学、社会学、人類学、
科化学、史学、国際情勢、経済学などという有ゆる思想、
批判、論駁、証明の類がぎっしり詰まっている、
そしてかかる雑誌が多く売れ、読者の数が逓増すれば、
それで日本の文化水準が高まったと信じて誇る、
愚や愚や汝を如何せんだ」
署長はここで憐憫に耐えぬという風に片手を振りました。
「いいか聞きたまえ、これらの論文を読むことは
たしかに見識を広くするだろう、
然し見識を広くするだけでおしまいだ、
僕の知っている質屋……ぼろが出たね……の主人公に、
哲学、社会学、自然科学、考古学などに
極めて深く通暁する人がいた、
実際びっくりするほど熟く知っているんで
感にうたれたくらいだ、
恐らくこういう例は到る処にあるだろう、
銀行の出納係、駅の改札、魚問屋の番頭、
商事会社の社員、呉服屋の手代、町役場の吏員、
どこにでもいるに違いない、然し、
それはどこまでも唯それだけのこった、
質屋の主人や町役場の吏員が
ギリシア哲学に就いて論ずるということは、
タルタラン的性格として諧謔の種にこそなれ、
それ以外には笑う価値もありやしない、
実行力の伴わない知識、社会的に個人の能力を高めざる知識、
これらのただ知ることで終る知識は
恒に必ず人間をスポイルするだけだ、
彼等はなんでも知っている、
だからいつも物事に見透しをつける、
すべてがばかげてみえ、利己的で勤労を厭う、
同朋を軽侮し、自分の職業を嫌う、
……社会的不正、国家的悪などという、
国民全体の最も重大な出来事に当面しても、
高級なる知識人であればあるほど、
三猿主義になるものと相場は定っているんだ、
……こんなこってなにができる、
泣っ面をして『長いものには巻かれろ』などと
鼻声を出しているようでは、社会全体に対する、
或いは文化に対する個人の責任を果すことなど
夢にもできやしない、
そしてその責任の自覚なくして
文明なる国家というものは存立しないんだ、
失敬だけれども」

そのとき自動車は或る邸の前で停りました。
「こういう風習が小栗青年や露店街ぜんたいの
人たちを無力にしている原因だ、
自分の能力を試してもみずに、
暗算でものごとの見透しをつける小利巧さ、
こいつを叩き潰さなくてはいけない、
有ゆる学問思想に通じながら、
なに事も為し得ない腑抜け根性、
こいつも叩き潰さなくちゃあいけないんだ」
「署長、車が停っていますよ」
「わかってるよ、車は停った、下りればいいんだろう、
己はもってお云いたいことがあるんだが、
……まあいい、あとにしよう」

※寝ぼけ署長(山本周五郎・著/新潮社)

-+-+-+-+-

先週、親分の元に行くとたくさんの仕事が待っていた。
メインは通販カタログの修正のために
オペレーション事務所に籠ること、
(籠ってアガリチェック、即訂正、
そうしてくれるだけありがたい事務所である。
しかし、暖房機能が弱く、コートを着たまま作業。寒すぎる)
ひとつは介護用品カタログのプレゼン資料制作など準備、
もうひとつは官公庁のパンフのコンペ資料制作。

ひとくちに「制作」とは言っても役割は様々。
方やカンプまで制作したモノのケツ拭き部隊として、
方や現行カタログの難点を探す監察官、
方やパンフに夢を与える編集者。
いやしかし、それでもどれも視点は同じ、
見る「お客さん」が、本当にそれを見てわかるかどうか、だ。
(このへんが雑誌と違う。
欲しいと思ってもらうのは媒体でなく商品なのだ)
むにゃむにゃと作業をしたり考え込んだり、
別のカタログをめくってみたり、
資料を探しに本屋に出かけたりと、忙しないことこの上ない。
考える道中では資料を見ながらカタログをひらいて
「こんなんじゃ車いす選ばれへんやんかー」と唸っては
おもむろにコピー機の紙を掴んで表組をカリカリと作ったり
パンフをひらいて
「緩速ろ過法って何よ、ネットで検索してもなんのこっちゃやんかー」
と叫びながらイスでクルクル回ってみたりと、
(そしてあえなくその言葉は削除)まさしく奇行である。
その合間、ラジオのように、
ひっきりなしに各ディレクターの会話が入ってくる。
最初は気にしていなかったものの、
あるとき親分が「うちのディレクターたちは…」とボヤいていたので
周波数を合わせて聞いてみることにした。
気分は「サントリーウェイティングバー」である。

おもしろくないので会話の詳細は省略。
ともかく、「私の趣味じゃないんですぅ」とか
「制作で考えてもらったものの、
何を言っているのか理解ができません」とかの
軟弱なお悩み相談が多いことにびっくりする。
ことさらにたまげたのは
「もう、クライアントの趣味がわかりませんー!」
なんていうお悩み。
あ・いーん(志村けん/C)。
あなたの仕事は、
クライアントにある問題を理解して解決につなげることで、
相手は趣味で仕事なんてしてませんよ、と言いたい。

下着に車いすにベッドマット、ポータブルトイレや、
それにろ過の言語やら意味と格闘しつつ、
なんだかため息がこぼれるのでした。
彼らには、真っ向から商品の海に飛び込んでいく私が
アホらしく見えるんだろうな……。
しかし、こんなこと偉そうに言っている私も
クライアントの先の客が本当に見えてるのか。
不安になってきた。

2009/02/03

見た目のよさは罪作り?

またも高松。
カンプ帰校と、次号の企画会議のための滞在である。
初日分の訂正紙を受け取って、
再度デザイン調整をお願いするページと
そうでなくてもいいページとに仕分けをして、
指示を終えて事務所を出る。
親分とご飯を食べに行く。
ほとんどが仕事の話なのだが、
どっからそういうふうになったのか、進化の話になる。

何で読んだのか忘れてしまって残念なんだが、
たとえば、昆虫というのは、
地上にいる時間よりも土の中で眠っている時間のほうが長い。
なのに、記憶されている姿というのは
生殖のために地上に出てきた姿である。
それまで「進化っていうのは何かからジャンプできた者ができる」
と展開していた話の腰を折られた親分は、
「それは、ボクが言っている話とは違って文学的やね」
と言っていたけど、私は勝手に、
やっぱりこの話は生物学的だという思いを強くしていた。
つまり、生殖するというのは多種との区別をつけて
同種の生を遺していくことであって、
要するに、「記憶に残る」姿になるようになっているんではないか。

思いつきのまま、全然別の話。

随分昔、中学校の制服を廃止しようみたいな話で
うちの中学校も盛り上がったことがあった。
そのときの生徒たちの言い分では
「制服だと個性が出せない」とかいうものが主。
ボンヤリと「私服だってみんな同じようなもんしか着んくせに」と
思っていたけど、その欲望自体、生物的に正しんではないか。
あるいは、産まれたての赤ん坊はおそろしく本能的で、
姉曰く「育児書って取扱説明書か予言書みたい」てくらい個性がない。
そういうもんであっていいのだ。

これは何かモノを作っていくときのプロセスにも
似ているような気がして、酒のせいもあるけど、
どんどん自分の頭の中での展開に酔っていくのであった。

ところで、久しぶりに140Bのブログを見ると、
先輩が「作れてしまうこわさ」について書いてあって、かなりおもしろかった。
カタログでも全く同じことが言える。
実際の商品と、カタログの出来とが比例せず、
掲載商品が良く見えてしまう場合というのが必ずある。
そういうカタログというのは
はじめは成果を上げるけれどもその後客が定着しない。
「あのカタログは嘘をついている」となるからだ。
カタログとは、どういうものをどういう値段で売っているのか、
誰に売っているのか、ということを予め想像して作るのが常で、
あるいは通信販売ならば、どんなパッケージに入り、
どういう状態で届くのか、誰に対してその商品を買うのか、
そのカタログは、いつ、どういうときに見るのか、
なんてことも考慮に入れていい。
前号、喘ぎながら粗末なカタログができてしまったのだが、
その出来に反して、実は売り上げは伸びてしまった。
この場合、「作れなかった」ことが功を奏した。
結果オーライである。
結果を「生殖」とするなら、その行為が成功しなければ
そのカタチというのは全く意味を成さないということだろう。
例えるなら、いきなりオトコマエが現れても
腰が引けて挨拶すらままならん状態と似ている。
カタログの、反応のナマナマしさというのはおもしろい。
制作者やカタログの企画者は
一度作ってしまった「見た目のいい」カタログから
離れることがなかなかできず、赤字の一途を辿り、
ついには媒体の存在すら危ういという状況に陥ることもある。
中身が伴ってないことに気づいていないというのは怖い話だ。

そういう意味で、見た目のいいモノというのは、罪作りなのかも。
自分の関わっているカタログは上っ面でスベらないように、
と思ったりするけど、そのへんのことが伝わりきらず、やっぱり難しい。
制作者はできるだけ「見た目のいいモノ」を作ろうとするし、
そのことで努力をして、寝袋片手に臭い息を吐いている。
そこであんまり色気を出さないでほしい、
と冷や水をかけるのはまた、酷な話になるんだろうか。
お粗末。

2009/01/30

みそっかす。

高松から高知へ、高知から大阪へと、
このところ、高知に住む弟の車を足にして移動することが多い。
弟の彼女が大阪に住んでいるので、という理由だ。
これまで寡黙な弟からは空気を感じ取るのみ、
言葉を交わすことはほとんどなかったのだが、
そんなワケで、よく弟と話をするようになった。

つい先日。
10日に長らくの休みを終えて大阪へ戻った。
ちょうど弟が彼女に会いに大阪へ、というので
ありがたいことに車に便乗させてもらった。
その日、弟は饒舌だった。
結婚に対する悩み、仕事に対する悩みは尽きない。
弟がそんなにも自分のことを話すことはないので
そのことだけで興味深く聞きながら、
いつの間にか弟も大人になったんだなという想いと、
意外と弟は幼かったんだなという矛盾した感想が
恥ずかしながら、親の如く頭を廻ったのだった。

-+-+-+-+-

子供が大勢、鬼ごっこをしている。
妹や弟を連れている子もいる。
妹どもはなかまにはいりたがってだだを捏ねる。
そこで姉たちは
「じゃあ、みそっかすで入れてやろう」といって、なかまにする。
みそっかすはつかまえられても、鬼になることから免除されている。
だから誰もみそっかすなんかつかまえようと狙いはしない。
けれども、みそっかすの姉が鬼になったときに、
みそっかすは協力して人をつかまえにかかる。
鬼につかまらなくても油断してみそっかすにつかまれば、
その児は鬼にならなくてはいけない。
これが遊戯におけるみそっかすの位置なのである。
じゃんけんにしても、認めてなかまに入れた以上は、
みそっかすだけを勝負から脱かすわけには行かず、
勝ったところでなんにもならず、
負ければ一人前な責を負わされる。
厄介ななかまなのである。
もちろん一般に、「あの児はみそっかすでね」とつかわれる時は、
一人前でない、役たたずの、きたならしい、
しょうのない残りっかすという意味である。
であるから、また一方には諦められ、
大目に見て赦される恩典にもあずかるが、
大概のみそっかす根性といわれるものは、
折角のその恩恵を白眼で睨む性質をもっているから、
結局は憎まれるのがおちであるらしい。

※みそっかす(幸田文/岩波書店)

-+-+-+-+-

弟の話を聞きながら、
私はそれまでの弟と自分との関係を振り返り、
転じて、姉との関係を思った。

幼い頃、姉が中学生になる頃までだったと思うが、
私は姉しか見ずに育った。
私は姉と同じ時期に、同じ物に興味を持ち、
同じように人生を選択していくことに疑う余地はない。
現に、小学1年生のときの担任は同じだった。
変な話、たとえば姉が小学4年生で先生に怒られたとしたら、
私も同じような事項で怒られるもんだと留意した。
姉は私にとって予兆である。
世界は姉を中心に回り、私はその後をピタリと付いて回っていた。
同級生が遊びに来ても、
姉が自分の友だちと遊んでいたらその誘いを断り、
学校でもことあるごとに姉に絡んでいく。
姉が肉を嫌いなら、私も肉が嫌いだと言い聞かせるなど、
その崇拝具合は、今思えば宗教じみたもんだったかもしれない。

母の実家、広島でのこと。
車で山道を走っていたら、突然に姉が言った。
「さっきのカーブの脇に変なキノコがあった」
父は急いで車を停め、姉はひとり車を飛び出しキノコを採りに行った。
その他の、珍しいという植物もいっしょに採ってきた。
車に戻った姉は目を輝かせながら
採ってきた植物について説明をしている。
車の中の家族は、誰ひとり、その説明を理解できる人はいないのに。
さすがにそれはできないし気づけないし理解できないな
と強烈に思ったことを覚えている。
いくら姉のそばで、姉のやる通りに、としていても、
本当に好きなものへの時間の遣い方が細かく違っていたのだろう。
姉と私とは違うのだと気づいた、初めての出来事だったと思う。

2009/01/27

戯れ事。

どうも最近、悶々としているワケです。
書きたいことがあるようなないような、
年末からこっち、たくさんのことを話し過ぎて
頭の中がいまひとつまとまっていないような。
それとも、もしかしたら何も考えていなかったのかもしれない。
とにかく、ひとつ物を考えれば、
そのすぐ後に別の戯れ事が浮かんでくる。
表面的な関連がないからややこしく、
何かその「戯れ事」を引き出すキーワードが
最初の考え事の中にあったのかと悩みに没頭する。
しかしそのどれもが、
誰に伝えたいことなのかどうかもわからないから
結局は、書こうという行動には移れず
ただパソコンの前で雑務をこなしてホッとするにとどまってしまうのです。
考えが散漫なのか、
散漫な考えの関わりを探ろうとしすぎなのか。

というワケで、暗礁に乗ってしまいました。
いや、悩んでいる、考えすぎ、というほどのことでもなく。

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三原は、ほとんど一日おきくらいに、
この店のコーヒーを飲みに来ていた。
五六日、休んだために、店の子はそう言ったのだが、
もとより彼の九州行きのことは知らない。
店内には常連の顔も二三見えた。
いつもと少しも変っていない。
女の子も客も、ふだんの生活の時間が継続していた。
いや、窓越しに見える銀座の生態そのものが継続していた。
三原だけが五六日間、ぽつんとそれから逸脱した気持になった。
世間の誰も、三原のその穴のあいた時間の内容を知らない。
彼がどんな異常なことを見てこようと、
いっさい、かかわりのない顔をしている。

※点と線(松本清張)

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私の混乱の原因の主立ったところは、
各「戯れ事」が同期的に頭に浮かぶことなのかもしれない。
この動きは情報システムの内部に流れるシンクロシステムと
類似しているけれども、果たして。
同じ時間に同じキーワードを元にして
思ったことのような顔をしているけれども、果たして。


とか書いていたら、親分から制作スタッフに対する
苦言メールが転送されてまいりました。
カンプチェックの段階で腹をくくったことですが、
今回も、撮影が全て終わって後からの、
「素人」であるべき立場のクライアントからの
サジェスチョンを受けながらの足掻きになります。
表現をする、ということに程よく辛抱強く、
程よくクールでありたいと思う今日このごろ。
いや、この仕事は私が表現する仕事ではない、くれぐれも。

2009/01/20

タクマだらけ。その2

高知のイナカは雪が降りまして候。





お試しで受注しておりましたインナーカタログ、
来期も続投ということで、誠にありがたきお話。
新しく作っている物は撮影も順調、
苦労は尽きませんが
いいモノができそうな感じで楽しみ。
とにかく、生活安泰、良きことでございます。

タクマだらけ。その1

家にいれば、タクマだらけでございますゆえ。




このところ、いかつい顔がお好みの模様。
撮ってくれとせがみながらこの顔。

2009/01/05

見知らぬ旅人のように。

旅に出ることは、
すこしだけ misfit になることだ。
もう、愛想笑いなんか、できっこない。
もう、なにもかも寸法があわなくなる。
そんなときだ、
古い友人のことを、
読み切ってしまった本のように、
閉じてしまいたくなるのは。
不幸なことだろうか?

見知らぬ旅人のように(文=佐伯誠/翼の王国2007年2月号)

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新年早々から風邪をひいてしまった。
イマドキサイセンタンノ、インフルエンザ。

買い物やら遊びやらで昼間にみんなが外出してしまった後、
客間からコソッと抜け出す。
厚着をして毛布持参でデッキに腰掛け、
片手にゴミ置き場で見つけた古い雑誌、傍らにコーヒー。
日中の太陽は暑いくらいに照りつける。
丘の下の公園では老人たちがゲートボールに励む声、
たまに周囲を見渡せば、PSPを持った野球帽の中学生が
荒地でコソッと隠れながらゲームをしている。
私はボンヤリとデッキに横たわって
本を読むふりをしながら考え事をしてみたりする。
去年の終わりに話した大事なことを
もう一度頭の中で整理しようとしたりする。

夕方深くなったころ、母に起こされ目を覚ました。
いつの間に眠っていたのか。
考え事をしていたのを途中で諦めたんだな、と思い出す。

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見たつもりで、なんにも見ちゃいないんだ、あいにく。
これは、旅についても、おなじこと。
旅慣れることで、感動を失っていくという、
二律背反から逃れられない。
つまり、旅をするのは、文明人のオトナにかぎられているでしょ?
そこが、問題。
ほんとうに旅をすべきなのは、
野蛮なコドモじゃないだろうか?
それとも、彼らはわざわざ外国へ出かけていかなくとも、
いくらでも感動をみつけられるかな?

見知らぬ旅人のように(文=佐伯誠/翼の王国2007年2月号)

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風邪は治ったけれど、
なんとなく移動するのが面倒で、
もう少し高知にいることにした。
ここにいないと会えない人に会いに行ってみたり、
ここでしかできないことをやってみたりしようかな。
とは言ってもほんの1~2週間もないくらいの
わずかな期間ではあるんだけど。