2009/02/03

見た目のよさは罪作り?

またも高松。
カンプ帰校と、次号の企画会議のための滞在である。
初日分の訂正紙を受け取って、
再度デザイン調整をお願いするページと
そうでなくてもいいページとに仕分けをして、
指示を終えて事務所を出る。
親分とご飯を食べに行く。
ほとんどが仕事の話なのだが、
どっからそういうふうになったのか、進化の話になる。

何で読んだのか忘れてしまって残念なんだが、
たとえば、昆虫というのは、
地上にいる時間よりも土の中で眠っている時間のほうが長い。
なのに、記憶されている姿というのは
生殖のために地上に出てきた姿である。
それまで「進化っていうのは何かからジャンプできた者ができる」
と展開していた話の腰を折られた親分は、
「それは、ボクが言っている話とは違って文学的やね」
と言っていたけど、私は勝手に、
やっぱりこの話は生物学的だという思いを強くしていた。
つまり、生殖するというのは多種との区別をつけて
同種の生を遺していくことであって、
要するに、「記憶に残る」姿になるようになっているんではないか。

思いつきのまま、全然別の話。

随分昔、中学校の制服を廃止しようみたいな話で
うちの中学校も盛り上がったことがあった。
そのときの生徒たちの言い分では
「制服だと個性が出せない」とかいうものが主。
ボンヤリと「私服だってみんな同じようなもんしか着んくせに」と
思っていたけど、その欲望自体、生物的に正しんではないか。
あるいは、産まれたての赤ん坊はおそろしく本能的で、
姉曰く「育児書って取扱説明書か予言書みたい」てくらい個性がない。
そういうもんであっていいのだ。

これは何かモノを作っていくときのプロセスにも
似ているような気がして、酒のせいもあるけど、
どんどん自分の頭の中での展開に酔っていくのであった。

ところで、久しぶりに140Bのブログを見ると、
先輩が「作れてしまうこわさ」について書いてあって、かなりおもしろかった。
カタログでも全く同じことが言える。
実際の商品と、カタログの出来とが比例せず、
掲載商品が良く見えてしまう場合というのが必ずある。
そういうカタログというのは
はじめは成果を上げるけれどもその後客が定着しない。
「あのカタログは嘘をついている」となるからだ。
カタログとは、どういうものをどういう値段で売っているのか、
誰に売っているのか、ということを予め想像して作るのが常で、
あるいは通信販売ならば、どんなパッケージに入り、
どういう状態で届くのか、誰に対してその商品を買うのか、
そのカタログは、いつ、どういうときに見るのか、
なんてことも考慮に入れていい。
前号、喘ぎながら粗末なカタログができてしまったのだが、
その出来に反して、実は売り上げは伸びてしまった。
この場合、「作れなかった」ことが功を奏した。
結果オーライである。
結果を「生殖」とするなら、その行為が成功しなければ
そのカタチというのは全く意味を成さないということだろう。
例えるなら、いきなりオトコマエが現れても
腰が引けて挨拶すらままならん状態と似ている。
カタログの、反応のナマナマしさというのはおもしろい。
制作者やカタログの企画者は
一度作ってしまった「見た目のいい」カタログから
離れることがなかなかできず、赤字の一途を辿り、
ついには媒体の存在すら危ういという状況に陥ることもある。
中身が伴ってないことに気づいていないというのは怖い話だ。

そういう意味で、見た目のいいモノというのは、罪作りなのかも。
自分の関わっているカタログは上っ面でスベらないように、
と思ったりするけど、そのへんのことが伝わりきらず、やっぱり難しい。
制作者はできるだけ「見た目のいいモノ」を作ろうとするし、
そのことで努力をして、寝袋片手に臭い息を吐いている。
そこであんまり色気を出さないでほしい、
と冷や水をかけるのはまた、酷な話になるんだろうか。
お粗末。

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