2009/07/27

最初は無味無臭。

もう随分と前から、「自分探しの旅(死語?)」とか
「自分は一体何のために生きてきたのか」とかの疑問に対して
疑問を抱いてきた者である。
今ではすでにそんなことを考えるような人は
この世相で探すのも難しいかもしれないけれど、
「自分」とは、そこに実在する「自分」しかいないし
「生きる」とは、「生きていく」ということが目的でしかないと思ってきた。
つまり、最初にある疑問とはロマンティシズムでしかなく、
こうなりたいという理想の自分のカケラを探すことでしかない。
実在する自分は、もっと無味無臭、個性のカケラもないのではないか、と。

タクマが生まれて早くも2年と半年になるが、
すくすくと育ち、周囲から「こんなワガママな子は見た事がない」と
これまた重宝される存在となってきた。
生まれた当初、姉曰く「育児書がマニュアルに思える」くらいに
何の個性もなかったのに。
そういえば、あるバーで
「“こうしたい”という動機は、環境の中で生まれる」
みたいな話を聞いたことがある。
それが少しずつ目に見えてわかってきて、
自分のリアリスト具合を恥じている。

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初期胚の中で、それぞれの細胞は、
その核の中にゲノムDNAを保持している。
これは受精卵が持っていたゲノムの正確なコピーである。

したがってすべての細胞は同じ設計図を持つことになり、
この時点で、それぞれの細胞は
どんな細胞にでもなりうる万能性(多機能性)を持っている。

しかし、ここが重要なポイントだが、
それぞれの細胞は将来、何になるかを知っているわけではなく、
また知らないままにあらかじめ運命づけられているわけでもない。

まして細胞群全体を見渡し、
どの細胞が何になるべきか、
鳥瞰的な視座から指揮を下している者がいるわけでもない。
にもかかわらず、
各細胞は筋肉に、また別の細胞は皮膚へと、
それぞれが分化していく。

この分化とはどのように決定づけられているのか。
あえて擬人的な喩えをすれば、
各細胞は周囲の「空気を読んで」、
その上で自らが何になるべきか分化の道を選んでいるのである。
君が脳になるならば、僕は脊髄になる。
君が皮膚になるなら、私はその下の支持組織になるという具合に。

各細胞は、細胞表面の特殊なタンパク質を介した
相互の情報交換によって、すなわち「話し合い」によって、
それぞれの分化の方向について、
互いに他を律しながら分化を進めていく。
そして、このプログラムは常に進行する。
つまり細胞は「立ち止まる」ことがないのである。

『動的平衡』(福岡伸一著/木楽舎)

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「環境を与えれば、環境に沿う」ともよく言われることで、
たとえばバスケットボールのチームでも、
身体能力の具合からキャプテンには不向きだと非難されながらも
立派にキャプテンを務めた人たちをワタシは知っている。
「こうなりたい」よりも「こうならなきゃいけない」が先立つからだと思う。
つまり環境がその個人を変えていく。
それは傍から見ていて気持ちのいい脱皮に見えて
ときどき羨ましくもある。

母と話していたこと。
ワタシは他人に知ったように褒められることを嫌うが、
裏腹で、知っている誰かに褒められることアホほど好き、
というか、それしか生き甲斐がないんちゃうか、と思うほど。
それはとても繊細で微妙なサジ加減である。
褒められたいと思う人には死ぬほど褒められたいし、
褒められたくないと思う人からは、
その話題にすら触れてほしくない。
無理矢理ながら、勝手に自分で結論付けてしまうと、
ワタシは勝手ながら自分の褒めてもらいたい人の顔色を
伺いながらこれまで生きてきた、ということになる。
そういう意識も“つもり”もなかったけれど、
なるほどそれは、とても合点のいく話だ。

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