2013/04/26

登場人物。

朝ドラを観ていていつも切ない気分にさせられるのは、
主人公を巡る登場人物の入れ替わりだ。
主人公が必死で生きていればいるほどに、
振り返ったときに「もう戻らない」ことにやっと気付いてハッとする。
『あまちゃん』、サイコー。今週は観てなかったけど。
『カーネーション』は、名作だった。
るえかさんは酷評していたけど、あれはすごくドキドキした。

そういえば、必死で立ち回っていて気付いていないことはしばしばだけど、
私の周りの主要な登場人物も流れていく。
他人の人生をドラマで観ながら、その現実にふと目が止まって
いろんなことが急に愛おしくなる。
二度と戻らない今日の日を。
二度と戻らない今のこの会話を。
ココロにピンで留めておかなきゃ。
陳腐なこんな発想が急に浮かんできたのは、
今、甥のためにと家で留守番をしていて、
今日は天気がいいし、布団も干したし、シーツも洗ったし、
庭には気持ちのいい光が入っていて、そして風がちょっと寒いからだ。
こんな日はもったいなくて、いろんなことをしたくなる。
…あ、勉強しなきゃ。

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ひとつ屋根の下で。

家を出ていった息子、「家を継ぐよ」と残った息子、そして娘。
家がある、その数だけホームドラマもある。
ひとつ屋根の下、力を合わせて、ひとつの仕事をしている、
それだけで幸せな家族を、
日本のさまざまな町で訪ねてみた。

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おばあちゃんは、産まれてすぐにこの家に養子できた。
おじいちゃんは兄弟が多くて、それこそまだ幼かったころに
この家に養子に入ることが決まっていた。
全てはこの「西村」を引き継ぐため。
私には想像ができない。
あるとき、おばあちゃんに結婚のことを聞いたことがある。
「よくわからない。当然、そうするべきだとしか思わなかった」と言った。
それはどういう心境なのだろう。
こんなイナカの街で、特に政治的に、とかいうことでもないだろう。
でも、何年も、何十年も、いっしょに過ごした。
おじいちゃんとおばあちゃんは
炬燵でのんびりとテレビを観ていることが多かった。
そして結果として私たちが今、ここにいるし、甥も姪もできた。

お父さん夫妻がイナカに帰ってくるまでは、
前の家にお父さんの兄弟も住んでいた。
いつの日か、お父さんに家族が増え、
兄弟たちもそれぞれに生活のペースができて離れていった。
私もいつか、そうするんだろう。

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奥さんが「これでもつまんでください」とお茶うけに
ふっくら大きい梅干しを出してくれた。
「カカアは漬物作りが趣味だから」、
囲炉裏の前でご主人の又三さんがそう話す。
つい先日も大根を500本漬けた。
もちろん店にくるお客さんに食べてもらうものだ。

「学校出て、店で仕事をするようになって45年ほどたつかな。
とはいってもこのあたりで昔から打ってるそばを、
父の時代も、そして今も同じように出しているだけ」

午前10時、開店前の店では誰もが忙しく立ち働いている。
仕事の合間をぬって娘の真弓さんと紅子さんが顔をみせてくれる。
「私、学校の先生をしてたんですが、先生のなりては他にいても、
あらきそばを継ぐのは私しかいないと思ってね。
夫の光さんは幼馴染みでエンジニアだった。
そば打って広げるとき図面をひくように測るんじゃないかっていってたの」
と長女の真弓さんが明るく笑う。

「大将もそば打って20年になるかな、
まあ、オレがきちんと粉碾くといいそば打つようになったよ、なあ、大将」
と又三さんが奥に声をかける。
「じいちゃん、ばあちゃんが上司だから大変ですよ」
といってのぞいた顔がいかにも優しげだ。

父が粉を碾き、娘婿がそばを打つ、母がそれを茹でて、娘二人がお客さんに出す。
「お客さん一人きても家族が一斉に立って動く、いいことだなあって思うよ」。

そのそばを食べた。
つなぎはなしのそばは黒々と太く、なかなかかみ切れないほど、
しかし、かみしめるほどにしみじみと味が広がる、
まるでこの家族のようなそば……。

「今月のホームドラマ ひとつ屋根の下で。」より
『翼の王国(1998年3月号)』

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2年前、おじいちゃんの米寿のプレゼントで
おじいちゃんのこれまでの写真をまとめたフォトブックを贈った。
作っているときに、恥ずかしながら、今さらながら、
おじいちゃんの、おばあちゃんとの、
または、私の知らない誰かと過ごした人生に想いを馳せた。
私は、おじいちゃんが「おじいちゃん」であるときに生まれた。
おじいちゃんの「おじいちゃん」以外の顔なんて想像したことがなくて、
初めておじいちゃんのこれまでの人生を振り返って想像して、
少し泣きそうになったのだった。

今の家は、お父さんとお母さんの家だ。
二人が、自分たちが余生を過ごすことも考えて建てた家だ。
完成したのは、甥が産まれたのと同じ年のこと。
今、7年目になる。
このわずか7年の間でも、この家を舞台にしたホームドラマでは
登場人物がいろいろ入れ替わりをしている。
3年前なら、私が今、ここでこうしていることを想像しなかったし、
5年前なら、姉が今、ここでこうしていることを想像しなかった。
甥も同じく。
去年の夏の終わりにおじいちゃんが逝って、
おばあちゃんはおとついICUからHCUに移ることができたけど、
この家に戻ってこれるかどうかはわからない。
年齢も年齢だし、それにはたくさんの意味を含んでいる。
いつか、おじいちゃんとおばあちゃんの過ごした部屋で
他の人が過ごす日々もやってくる。
たくさんのことが変わっても、家はみているのか。

2013/04/23

同じ景色、違う景色。

おばあちゃん(私の祖母)がICUに入ってしまうことで
いくつか生じた問題がある。
私たちにとって最も大きい問題は、
甥が学校を終えて帰宅しても一人で留守番しなきゃいけないこと。
みんな働きに外に出ていて、甥はカギっ子になるしかない。
まだ小学校に入りたて、夕方まで預かってくれる教室はあるけど、
家でひとりでお留守番じゃ不安だし寂しいだろうし、ということで、
甥は親戚のお家で、おじいちゃん(私の父)の帰りを待つことになった。
ところが、いくら楽しいといっても、新しい学校生活。
それもいきなり帰る家の様子が変わってしまった。
さらに、お母さん(私の姉)も忙しい部署に配置換えになってしまって
お母さん自体に緊張感がみなぎっている。

甥は、おばあちゃんが入院して以降の1週間のうちに2回吐き、
連日のように高熱を出した。
風邪の原因、体調不良の原因は緊張と不安ではないか、と考えた
おじいちゃんとお母さんは、私に留守番してほしいと要請してきた。
こうして、私は急遽、高知の実家にいる。

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田んぼや畑を埋めたてても数年間は土の記憶は消えないとみえる。
団地の隣は、野球グラウンドになっていたが、
いくら抜いても雑草がぐいぐい伸びるらしく、
バッタやカマキリが地面から湧いて出た。
くるぶしで雑草をかきわけて、大海原を行く小舟気分で歩いて行くと、
トビウオのように、シャチのように、昆虫が次々と弧を描いて飛び出した。
見上げれば、白やブルーの洗濯物が、団地の灰色を涼し気に包んではためいている。
1965年、できたての団地に入り、その中に作られた未来派もどきの遊び場に行くと、
自分自身が火星から降ってきたように唐突に感じられた。
道を挟んで向こう側はもう小学校で、
千人の小学生に毎日ばたばた踏まれている青い廊下が教室と教室を繋いでいる。
上履きのゴムのにおいとランドセルの革のにおいと子どもの髪の甘いにおいに、
昼になるともう一つ独特のにおいが加わり、
一度も中を覗いたことのない隣の給食センターから
魔法のスープが大量に運ばれてくる。
校庭や垣根の向こうは市役所で、南武線の踏切が見え、
線路の向こう側にある神社や農家や梨園や多摩川が外国のように遠く感じられた。

『花椿(2010年12月号)』
自分風土記(文/多和田葉子)

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帰ってきてみると、甥は、聞いていた話と違って元気だった。
「学校、うん、楽しいよ」「ちょろいね」と。
でも、ICUに子どもは入れず、お見舞いを拒否されたことには怒っていた。
私がしばらくこっちにいると言うと、
「やったー。明日は何して遊ぼうか」とうれしそうだった。
とりあえずその日は、スーパーマリオで闘ってから、
散歩がてら山に登ってみることにした。

山と言っても、明治維新の志士・吉村寅太郎の銅像のある高台のこと。
高台に登って、戦没者の慰霊碑の裏を回れば獣道がいくつかある。
そこをズイズイと進んでいった。
人のあまり通らない獣道は、
湿り気を蓄えた落葉がしっかりと培養していてフカフカしている。
急な斜面であっても、ほとんど滑ることもなく、
むしろ歩みを進めるのが気持ちいい。
1年前なら「もうやめよーよ」と自信なさげだった甥が、
今ではむしろ先頭きってズイズイ登っていく。

この山…というか丘はあまり高くはないのだけど、遠くを見渡せて清々しい。
「ねぇねぇ、この“ゴォォォ”っていう音、何?」「川の音よ」
上に登ると、一層激しく耳を振るわす川の音。
川の姿は遠く眼下に映るのみ。

この丘の別の獣道を行けば中学校がある。
でもその獣道は封鎖されていた。
そういえば、台風か何かで崩れてしまったと言っていたかもしれない。
青い空から隠れるようにして、森に覆われた小道を行った。
たとえば、私には青いスクリーンに映る木々や葉の影絵に感じられたし、
甥には、その細かい緑にいろんなカタチがあることがおもしろく映ったらしい。
中学生のころも、この場所は、誰かといっしょにいたとしても、
見えているものはそれぞれに違うと感じられる場所だった。
見ていた景色は、当たり前に“私のもの”だった。
甥がこのままここの中学校まで行けば、同じように“甥の景色”になるのかな。
私と違う人が、そこで同じようなことを思えることは、
思えば思うほどに、想像を超えた異次元なる話へと広がっていくようだ。

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なんとか、みんなが寂しいなんて思わずに日々を過ごせますように。

2013/04/18

家族のこと。

おばあちゃんが倒れた。
数日前に転んで頭を打っており、
それが原因で硬膜下出血となったらしい。
家族には食欲のなさ・吐き気を言っていたようだけど、
かかりつけ医には背中の痛みだけを訴えたそうだ。
叔母BとCがベッド脇にうずくまって失禁し
倒れていたおばあちゃんを早朝に発見、
救急ヘリで高知駅の近くの病院に運ばれ手術を受けた。

母と私が広島から駆けつけたときには手術は終わっていた。
ICUで完全に医師や看護師の監視下に置かれている。
病院の処置なんかが優先されるので面会には予約が必要、
面会は30分以内・1度の入室は3人までというのは、患者の無理を避けるためか。
(10人いたら、3人・3人・2人・2人とかに分かれて順に入室する。
4組合わせて30分なので、1組あたり約7分という計算になる)
面会が許されて病棟に入ったときには
おばあちゃんはクスリで眠っており、たくさんの管でつながれていた。
自慢だったキラキラと銀色に光る髪の毛は剃られ、
代わりに腫れて内出血になった傷口が痛々しい。

それでも翌日には、弱々しくも意識は戻った。
左側はちょっと不自由な様子。
右手を握ると握り返してくれた。
目を開ける気力はないようで、ずっと閉じたままだ。
話しかけるとそれに答えて口を開く。
どこにいるのかわかる?と母が尋ねると
ゆっくりと、かかりつけの病院の名をなぞった。
声は出ない。
待合室に戻って叔父や叔母と交代がてら
おばあちゃんの様子を伝えると、叔母Cはほっとして泣き崩れた。
Cはおばあちゃんの生き写しくらい似ている。
結婚をしていないし、仕事が休みのときは
ほとんどおばあちゃんといっしょにいるので
分身みたいな感じなのではないだろうか。
おばあちゃんの娘たちはアタフタしていた。
それも、病状が落ち着くと伴に落ち着きを取り戻すだろう。
おばあちゃんは、家族に愛されているなぁと思った。
母と私は広島に戻った。

3日目は、弟の家族と姉がお見舞いに行ったらしい。
その晩、叔母Aから母に連絡があった。
ほとんど苦情のような感じの内容だった。

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子どものころ、姉とおばあちゃんは折り合いが良くなかった。
働きに出る母に、おばあちゃんは
「なんで私が子どもの面倒を見なきゃいけないの」
「なんで私が家事をしなきゃいけないの」と文句を言い、
(言っているように見えたというのが正確か)
仕事をやめるよう、母に求めた。
姉は、母を守ろうと思ったらしく、
朝、登校の前におばあちゃんと激しい口論をするのはいつもだった。
姉が口論以外でおばあちゃんと言葉を交すことはなかった。
ひょっとしたら目を合わせることもなかったかもしれない。
姉の感情は私や弟に波及した。
私はおばあちゃんの作る、大根を煮ただけの夕食も、
学校から帰ったときにくれる煎餅や饅頭も嫌い。
おばあちゃんからお小遣いをもらうのも、
飼いならされているように思えて気分が悪く、突き返したこともある。
そのうち、心配されるのも、会話をするのも、
おばあちゃんのいる空間にいるのもイヤになってくる。
おばあちゃんはいつも、
家でヒマそうにしている(ように見える)のが不快だった。
それなのに母を叱りつけることが理解できなかった。
そういうのが小学校の低学年だったころから高校で家を出るまで続いた。

「おばあちゃん」と仲良くしている家族がいるなんて想像したこともない。
むしろ、「おばあちゃん」とは、新しいものが嫌いで
聞き分けの悪い、好き嫌いの多い、頭の堅い人種だと信じていた。
弟が結婚する前、弟の奥さんとなる人と二人で飲みにいったときに
「どうしておばあちゃんと仲良くしないの」と無邪気に聞かれたときに、
初めて、私はおばあちゃんにやさしくないということに気が付いた。
だから、その筆頭で矢面に立っていた姉にとってはなおのこと、といった感じ。
私はおばあちゃんの人生を想像するよう努力することにした。
それからは多少ぎこちなさは残るけど、やさしくなれたと思う。
姉は、今はいっしょに暮らし、
心配も会話もする間柄にまで快復しているけど、
ふとしたときに嫌悪感を露にせずにいられないようだ。
少し強い口調で「干渉してほしくない」旨を訴える。
自分の息子に触れてほしくないと叫ぶ。
たぶん、それは本当に仕方がない。
本人は自分の振る舞いを自覚できない。

叔母Aから母への「苦情のような感じ」は、
姉が見舞いに来たことへの不快感を表したものだった。
「今さら罪滅ぼしをしようとしている、もう遅い」とAは言ったようだ。

くやしい。何も知らないくせに。

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「男の友情もここまで深くなれば男色関係などあってもなくても同じことで、
男女や主従を超えたところにある美しい愛のかたちが、
雲間を出ずる月影のように、あまねく下界を照しているように見える」
本書のこの箇所を初めて読んだとき、
素直にこういうふうに思える白洲正子が妬ましいと同時に、
「嘘つき」と思った。
男色関係があったかなかったかは、ものすごく大きな違いだろう。
この人、夫以外の男とあんまりセックスしてないんじゃないか……と、
下界の私は邪推したのである。

白洲正子は夫以外の男とつきあいがなかったわけではない。
それどころか男友達のとても多い人だ。
小林秀雄、青山二郎、河上徹太郎、正宗白鳥、梅原龍三郎、
晩年は、高橋延清、河合隼雄、多田富雄などなど、広い交友があった。

女を感じさせないタイプだったのかというと、
写真を見る限りそうでもなく、
とくに小林秀雄や青山二郎と夜を徹して酒盛りした三十代後半や四十代などは、
しっとりとした色香を漂わせた美人に映っているものも少なくない。

だから当然、彼らと「何かあったのでは」と勘ぐられもした。
白洲正子は別のところで、こうも言っている。
「小林さんとか青山さんとか、何かなかったはずはないって、人は思うんだよね。
そういう考え方ってケチくさいことだ。
男女じゃなくて、人間同士の付合いってもん、あったのよ。
不倫なんてわざわざすることない、骨董だって何だって、みんな不倫だもの。
旦那ほったらかして(笑)」(月刊「太陽」1996年2月号)

白洲正子は、小林秀雄や青山二郎、河上徹太郎といった男たちが
「特別な友情で結ばれていること」を知ると、
「猛烈な嫉妬を覚え」、「どうしてもあの中に割って入りたい、
切り込んででも入ってみせる」(『いまなぜ青山二郎なのか』)と決心した。
そして彼らと、文学や骨董の師弟として、友人として、生涯つきあった。
小林は、白洲の夫の次郎とも親友で、
子供同士が結婚したので親戚にまでなった。
何かあってはそんなつきあいもできまいから何もなかったのだろうが、
いいじゃん何かあったとしても。
ともするとそういう方向に行きがちな私は、
バカにされたようでイヤな気分になった。

それが去年の暮れ、ブ男と美男をテーマにした本を書きつつ、
「美男の歴史は男色と切っても切れない関係があるなあ」などと
痛感していた折も折、本書の解説の仕事がきた。
読み返すと、「両性具有」といいながらすべて男の両性具有の話で、
女の両性具有の例は一つもない。
しかも全編、日本男色史ともいうべき一冊なのである。

これはどういうことなんだろう。

と考えつつ、彼女の対談集やら全集やらにあらためて神経を集中させると、
白洲正子を読み解く鍵が、まさに「両性具有」と「男色」にあると思えてきた。

(後略)

※『両性具有の美』(解説/大塚ひかり)

--

叔母Aにはわからなくても、おばあちゃんは、
姉のそういった行動のワケを理解してくれていると信じたい。
幼いころのイヤな思い出が、互いの内面に同じ嫌悪感を生んだだろう。
でも、その嫌悪感を補おうとする不器用な気持ちが
行為の裏に見えることもあったはずだから。
おばあちゃんは寂しがり屋さんだから、
入院している間、私たちの兄弟で唯一高知在住の姉には
ちょくちょく病院に顔を出してもらいたい。
そうしている間に、気持ちがほんの少しでも和らげば出来過ぎか。

それにしても、母方の祖父、父方の祖父と不幸続き。
やっと落ち着いて、ほっとしたころのおばあちゃんの事故。
母曰く「硬膜下出血から快復することもあるから」と。
最初に連絡をもらったときには最悪の事態も予想したけど、
どうやら快方に向かっているようでよかった。
ICUから早く脱出して、近所の病院に転院できて、
さらに、家に帰って来られたら、もっといいな。

2013/04/09

やっぱりいいや。

どうやら、イラ立ちを伴って何かを見た場合、
それは私にとってとても攻撃的なものとして映るようだ。
人間関係は鏡である、という聞き飽きた話は、
どうやら、人間関係にとどまらず、
テレビだろうが広告だろうが雑誌だろうが、
私の感じるものの印象は跳ね返って戻ってくるようだ。
つまり、フレンドリーライクに見た場合、
それは馴れ馴れしくも私に近寄ってくる。
気づいたのはもうずっと前のことだし、
「なにをそんなこと、今さら」だと思われることですね。
問題は、そんなにフレンドリーにしたいわけじゃないのに、
ニコニコしながら擦り寄るあいつらとどう付き合うか、だ。

考えることを排除して凝視する、見なかったふりをする、
表面的にだけ見てスマイルを返す、そもそも見ない、立ち去る。
答えなど出ないだろうし、
きっと波や風のように気分は変わるだろうけど、
今のところ、というか今日は「むしろ徹底的に考えながら凝視する」
というところに落ち着けたい。
しかし残念ながら、考えようとすると、
考えようという意識はスルリと抜け落ちていっていた。
おかげで知らない(または知る必要がない)のに「知っている」状態が煩わしい。
自分の意識ほど、つかみ取るのは難しいものはない。
コントロールが効くものだと思っているからこそ、だろうか。

--



Morning
It's another pure grey morning
Don't know what the day is holding
When I get uptight
And I walk right into
The path of a lightning bolt

The siren
Of an ambulance comes howling
Right through the centre of town and
No one blinks an eye
And I look up to the sky
in the path of a lightning bolt

Met her
As the angels parted for her
But she only brought me torture
But that's what happens
When it's you that's standing
In the path of a lightning bolt

Everyone I see just wants to walk
With gritted teeth
But I just stand by
And I wait my time
They say you gotta tow the line
They want the water not the wine
But when I see signs
I'll jump on that lightning bolt

And chances
People tell you not to take chances
And they tell you that there
aren't any answers
And I was starting to agree
But I awoke suddenly
In the path of a lightning bolt

And fortune
People talking all about fortune
Do you make it or does it just call you
in the blinking of an eye
Just another passer by
in the path of a lightning bolt

Everyone I see just wants to walk
With gritted teeth
But I just stand by
And I wait my time
They say you gotta tow the line
They want the water not the wine
But when I see signs
I'll jump on that lightning bolt

In silence
I was lying back gazing skyward
When the moment got shattered
i remembered what she said
And then she fled in the
path of a lightning bolt

"Lightning Bolt" by Jake Bugg

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だから物的存在としての都市というのは、
その中にいる多様人間のそれぞれの生活の反映としてあると考えられる。
だからさしあたってどんな生活の反映として
どんな都市の物的存在があるのかという観察をしようと思う。
当然それは複合的な都市の一部分をとりだしたものだから、
その観察の中からルール(法則)を引きだし、
それによってデザインすればよいほどわれわれの町は単純なものではない。
ともかくわれわれは今都市に住んでいるし、
それは私の世界であり不思議なものだし、
いらだちでもあり静けさでもある
それについて考えはじめようということか。

コンペイトウ「見切品アメ横」
(『都市住宅』鹿島出版会、1969年11月より)

※『路上と観察をめぐる表現史ー考現学の「現在」』
 (監修/広島市現代美術館、フィルムアート社より

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遺留品論

おねがい
とり違えないでください。
遺留品としての採集は、単にデザイン・ソースのための採集とは、
その向うむかいかた、構えかたが本質的に違いがあります。
ところでデザイン・サーヴェイなるものの方法論が、
実は現象する事物と観察者である主体とを、安直に癒着させ、
そこに現前する(物と自己との)距離意識を短絡し、
その結果デザイン・ソースとしてのストック作業から
一歩も越えきれてこないことに、
ぼくらはひどく疑問と失望とを感じています。
デザイン・サーヴェイにとって、フィールドに現象する事物を観察し、
構造付け、最終的に描き出してくれるもの、
あるいはコピーしてくるもの(結果)そのものを、
ぼくらの依って立つ都市現実である日常性の接点から改めて
そこでぼくらは問わねばならないでしょう。
実に、そうした時その地点へ向けての言及、考察を
ことごとくあいまいに保留し続けてくる
いわゆるデザイン・サーヴェイには、ぼくらは興味がないのです。

遺留品研究所「URBAN COMMITMENT」
(『都市住宅』貸間出版会、1971年7月より)


※『路上と観察をめぐる表現史ー考現学の「現在」』
 (監修/広島市現代美術館、フィルムアート社)より

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陳腐さがしばしばウリとなる深夜のテレビ番組にでさえ、
洗練された(ような)アーティスティックな(ような)学術的な(ような)
ビジュアルでもって、実験的な(といえばかっこいいのだろうか)ものが
増殖していたりすることに、ペラペラで空しい気分を助長されてしまう。
それは、かっこいい、のか??
「ダメ出しをやめよう」なんて言いながら、
ラジオでインテリジェントな(ような)顔をして、
ふつーの人からのダメ出しを現場の声として引き出そうとする。
これは、クール、なのか??
制服違反することを「個性」と呼びながら
結局みんな同じ違反(アレンジ)をしていたことが懐かしい。
見た目にかっこよくしているつもりで、中身が何も変わっていない。
葛藤の最中の、チグハグな現れでしか、ない。
改めて「かっこいいは、むずかしいか」。
というか、かっこよくなければいけないのか??
やっぱり「かっこいいは、むずかしい」のだ。

考えていたら、ひとつのことだったものが放射状に散らばって
どんどん、どんどん、収集がつかなくなってくる。
「徹底的に考える」の風呂敷はもうたたんで、
これは自然な社会現象だと心に納めよう。
で、やっぱり、ま、いっか、なのだった。

2013/04/08

成長と退化。

うちでは、子メダカの水槽(というかバケツ)は
孵化直後〜7mmほどの産まれたての子たちを入れているヤツと
8mm〜15mmほどの大きくなった子たちを入れているヤツとで分けている。
大きくなった子たちに大人用のエサ(少し大きい)を与えてみると
すぐに食べてしまった。
大きくなった子たちの水槽に卵のついた水草を入れていたら、
いくつか孵化したチビメダカが隅っこで遠慮深く泳ぐ姿も見られたのに、
あるとき、そのチビたちがいつの間にかいなくなってしまったことがあった。
どうやら大きくなった子たちが食べてしまったらしい。
かわいそうなので、卵は他の水槽に入れることにした。
それにしても、成魚になったら、だれかもらってくれるんだろうか。
今も続々と産卵と孵化を続けるメダカに、やや青くなっている。
いつか、私の部屋はメダカの水槽で埋もれるのではないだろうか。
新しい卵が見えても、見なかったふりをしようか、
ああ、でも、見てしまったしと、しばし葛藤。
大きくなるのはいいけれど、そのことが今イチバンの心配事なのです。

そうそう、メダカの色はいつわかるのだろうと
インターネットでチコチコ調べてみたら、
生後半年ほど、とのこと(白メダカはすぐにわかるらしいが)。
うちのメダカはまだまだですね。
それにしても、遺伝子との関連や、色素が動的であることなど、
興味深い話がてんこ盛り。
よく観察してみようと心に決めて、母に「おもしろいでしょ」と報告すると、
「うちのゼミでもメダカ育ててみようかしら。
生体理解への一歩として、いいと思わない?」と言っていた。
何にせよ、引き取り手ができるのはありがたい。

--

先週1週間、甥が春休みを過ごしに広島に来ていた。
会うのは半年ぶり。
たったの半年ぶりなのに、彼の中ではいろんなことが進んでいて、
たとえば、ひらがなだってスラスラ書けるし、
カタカナを書くのはまだ十分ではないけど、スラスラ読める。
最近はちょっとずつ漢字を読めるようになっていることがうれしいらしい。
「ねぇねぇ、『大きい』は読めるよ」
「『川』もわかるよ。あ、そういえば、『山』も!」
などなど、読めるものを見つけるたびに報告してくれた。
「『一』と『十』だから『千』は『いちまん』て読むんでしょ」
とほざいていたのは、かわいかったので訂正するのはまた今度にしよう。

ちっちゃかったころ競って食べていたシイタケやピーマンのことは
彼のお父さんや友だちの影響か、嫌いになってしまっていて残念だけど、
こないだまで「上手にできないから」とイヤがっていた
ボール遊びも、ジャングルジムも大好きになっていた。
「できること」が多くなって、本人は誇らしげだ。
そうそう、計算もできるようになっていてびっくりした。
もう、身支度だって、ほったらかしにしても自分でちゃんとできる。
今日、入学式。立派な小学一年生になったのです。
すべり台を逆走して、得意気なのです。
--

甥は2月生まれ。
同じ学年で彼より後に生まれたのは1人とのこと。
発達目覚ましい幼児にとっては、1か月の差はけっこう大きい。
だから、4月生まれの子がもうできるようになったことが、
3月生まれの子にはちょっと難しい、ということは当然。
甥にとってもこれが難関だった。
公園で遊んでも、他の子が悠々とジャングルジムをのぼっていくのに、
まだ握力が充分でなかったりしてのぼれない。
そんなことが年少のころからなので、
カラダを動かすことに自信がなかったようだ。
やっと追いつけるようになった今は、
鬱憤を晴らすかのようにのぼりまくる。

私が小さいころ、姉と姉の同級生と河原に行ってよく遊んだ。
夏場なら泳ぐけど、泳げない時期は石投げが定番。
誰が遠くに投げられるか、飛び石は誰がキレイにできるか競争していた。
姉の同級生に対して私は小さすぎて、
うまくできないことなんか気にならなかったけど、
姉は「私は投げ方がかっこ悪い」と言ってイヤがった。
姉の誕生日は、3月30日だ。

--

「何歳まで」自治体間に幅

公衆浴場で何歳まで混浴できるのかーー。
調べてみると、都道府県ごとに年齢は異なり、
実にバラバラであることが分かりました。

公衆浴場法は、具体的な年齢を明示していません。
国は「おおむね10歳以上の男女を混浴させないこと」と
通知していますが、あくまでも目安。
都道府県がそれぞれルールを設けています。

中国地方では鳥取県は「7歳まで」、
岡山県は「9歳まで」と条例で定めています。
残る広島、山口、島根の3県は条例には明記していませんでした。

全国で、混浴できる年齢の上限が最も幼いのは「6歳まで」の京都府。
一方、香川県や北海道は「11歳まで」。
こんなにも幅があるのかと驚きました。

独自の基準を設ける銭湯もあります。
音戸温泉(広島市中区)は10年前、
混浴を制限する2通りのルールを掲げました。
一つは10歳になった。
もう一つは身長が135センチを超したらー。

吉村昌峰社長(58)は「発育には差があるから、
年齢だけでなく、身長にも目安を作った」と言います。
女性客からの要望がきっかけだったそうです。

年齢の上限を変更する自治体も出てきました。
滋賀県は1995年、子どもの発育や性への目覚めが早くなったとし
「9歳まで」から「7歳まで」に。
一方「5歳まで」だった兵庫県は2008年、
「小さい子を1人で入れるのは不安」「まだ体を洗えない」
との声を反映し「9歳まで」に引き上げました。

多様な意見を吸い上げようと、自治体も苦慮しているようです。
体の発育や心の成長には個人差があり、
子どもとの混浴に対する捉え方も人それぞれ。
線引きは難しいけれど、他の利用者を思いやる気持ちだけは
共通ルールにしたいものです。

「よろず相談室(中国新聞2013年4月7日)」(文/余村泰樹)

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「あれ、この話、どっかで聞いたぞ」と思っていたら、
数ヶ月前、同じ話題について、ラジオでおぎやはぎが喋っていた。
子どもがいっしょだと、関係ないと決めていたいろんなことに気がつく。
たとえば、この新聞の記事にあるようなルールだったり。
他にも、甥といっしょだと歩いたことのない道を歩いたりして、
今住んでいるとこの近くには4つも公園があることを知ったし、
その先にオシャレげなカフェがちんまりとあるのを発見したし、
うん、今度、気分転換に行ってこよう。
(いや、これは、単に探究心がないだけかもしれない)

今の生活をしていると、私は出不精なんだなと確認することひしひし。
万事が面倒で、スーパーなんかの、生活に必要な買い物以外で
外と関わりを持つことに無精になっていても、
全く気にかからないし、ストレスにもならないどころか、むしろ心地よい。
甥といっしょに、広島の親戚とも遊んだのだけど、
慣れない人と会話をするのは、例え親戚でも、
私にとってはいささか疲れることだった。
よその空気を吸うことをやめると、
その回路は退化して閉じてしまうのかもしれない。
これではいけないと、気分に乗じて久しぶりに店に入ってみたり、
美術館などに行ってみたりして、外出気分を楽しんでいる。
疲れるけど、聞こえる音や見えるものや吸い込む空気が新しい。
会話が多ければ、新しい空気と古い空気を交換できた気にもなる。

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わからなければ訊けばいい

まだ終戦後といった言葉がふさわしいような、
ずいぶん昔のことになるが、
川端康成先生がこんな話をしてくれた。

外国旅行をしていると、六歳か七歳の少女が飛行機に乗っていた。
父も母も同乗していない。
知りあいもいないらしいことがわかってきた。
彼女は一人旅なのである。
父親の任地へ行くところらしい。
母親も一足先にそこへ行っていたのだろう。

川端先生は、その少女の態度が実に毅然として美しかったと言われた。
少女の一人旅に感動するというのが、いかにも川端先生らしいが、
ここにも、ひとつの礼儀作法の問題が提起されていると思う。

彼女は、おそらく、対人関係についてのエチケットなどは何も知らないだろう。
ただし、両親に、飛行機に乗っていた何か困ったことがあれば
スチュワーデスに相談すればいい、何か要求するべきことがあれば、
そのときもスチュワーデスを呼べばいいと教えられていたと思う。
エチケットというものは、実は、それだけで充分なのである。
だから、彼女は、毅然たる態度でいられたのだと思う。
その意味において、彼女は立派な社会人であった。

訊けばいいのなら、そんな簡単なことはないと誰でもが思うだろう。
その通りである。
しかし、その簡単なことが、なかなかやれないというのが実情である。

東北地方の、仙台なら仙台の青年がいて、
その土地の高校と大学を卒業して、東京で就職して、
はじめてのボーナスを貰ったとする。
『東京たべあるき地図』なんかを見て、勇躍して、
銀座の小料理店や寿司屋へ行ったとする。
行ったというだけで勇気のある行動であるが、
そこで悠々として注文するということが、むずかしい。

最初に言葉のことがある。モジモジする。オドオドする。
品書きに「いわし」と書いてあるが、
こんな店で「いわし」を注文していいものかどうか、それがわからない。
牛肉のロースのバター焼きとあるが、これは高いんじゃないだろうか。
そんなこんなで、口も体も硬直してしまう。
毅然たる態度とはほど遠いことになり、不愉快な思いをして、
つまらない散財をすることになる。

どうして、訊くことができないのだろうか。
中年の、ものわかりのよさそうな仲居を呼んで、
こういう店で食事をするのは初めてなので教えてくださいでもいいし、
あならにマカセルでもいいのではないか。

これが、寿司屋であると、もっと恐ろしい思いをする。
職人に睨みつけられているように思うし、
絶えず急かされているような気がするものである。

小料理屋へ行ったら、酒を一本頼んで、
それを飲みながら、ゆっくり考えればいい。
吸いもので一品、刺身で一品、
焼物で一品、野菜で一品というように選べばいい。
なにかを省略してもいいし、鍋物を食べたければ刺身だけにしてもいい。
それは簡単なことだと思われる。
私は、川端先生の見た六歳か七歳の少女には
それができるような気がして仕方がない。
われわれ日本人は、そういうことに不馴れであり、下手であるようだ。

いつか、ある酒場の女給を小料理屋で連れていったら、
品書きを見て、ジュースと蛤の吸物と
土瓶蒸しと赤出しとノリ茶漬けを注文した。
こっちが恥をかく。
これは全部ミズモノである。
理に適っていないし、腹が張って、
とても全部を食べられる(飲める)ものではない。
また、ある女は、コースを食べ終わったあとでテンプラを追加した。
小料理屋で、何を食べようが、何を頼もうが客の勝手である。
しかし、女なら、テンプラには、
めんどうな下拵えがいるくらいのことは知っているはずではないか。
それができるまでに時間がかかる。
他の人は食事が終っている。
間がもてない。
それに、職人には手順があって、注文を聞いてから、
どの順序で出せば客が喜ぶかということを常に考えているのである。
食事が終わる頃に、突如として、テンプラとは何事であろうか。
相手の気持ちのわからない女は、田舎者と呼ぶよりほかにない。

『礼儀作法入門(新潮文庫)』(著/山口瞳)

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あ、えらく長くなってしまった。