2010/11/15

こっちの水は甘いよ。

相変わらずな毎日ですが、
相変わらず、あるんやらないんやらわからん仕事と格闘し、
相変わらず、やるんやらやらんやらわからん勉強をしている。
とにかく、生きていく、ということがテーマ、
つーか命題なので、そのことが先行では、ある。

書いてない日々も、進んでいないわけではない。

クルマイスの仕事は運良く取れてしまったし、
しかしながら、相手にとっては「まさかこんなことが」
というような提案だったわけで、
言い出しっぺでやらなきゃいけないながら
予算が下りるまでの保留の期間があまりにあり。
(というか来年の3月なんて!眠って待っても余りありすぎる!)
…中途半端な責任感も禍いしている。
そうこうしているうちに、
他の仕事も取れていくのがおもしろくないわけもなく、
あの日の決意は「とりあえず置いといて」となることが今はとても気がかり。
流れのままに、とは思えど、いやはやいかに、である。

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自分のことが大好きで、転生により永遠の命を生きる雄猫。
1匹の雌猫と出会い、子を育て、雌猫の死で初めて泣き、命を終える。
33年間で170万部を発行した絵本「100万回生きたねこ」の作者、
佐野洋子さんが乳がんで亡くなった。

随筆集「私はそうは思わない」の中で、佐野さんはこの絵本を、
1匹の猫が1匹の猫と巡りあい子どもを産み死ぬという
「ただそれだけの物語」だと振り返る。
それは佐野さん自身の願いだったが、この絵本が売れたのは、
多くの人が、ただそれだけのことを素朴に望んでいる
という事なのかと思わされた、とも。

本音、毒舌、温かさに冷静な観察眼が味わえる随筆には女性の愛読者が多い。
自らのがんも公表していた。
抜け毛をテープで集めつつ虫捕りに似た達成感を楽しむ。
飽きると丸坊主にし「これほど似合う髪形はない」。
余命を告知されると、長生きに備えた貯金で外車を購入。
テレビ嫌いが韓流にものめり込んだ。

「死んだらもう金いらないんだよ。金の心配しなくていいだけでもラッキー」
と友人に話した。
何かを手に入れることと何かを失うことは表裏一体。
そんな潔さが作品からも、老いとのつきあい方からも垣間見える。
70歳で死ぬのが理想と語った作家が、
子どもたちや女性に感動と元気を与え72歳の生涯を閉じた。

※日本経済新聞 平成22年11月7日 春秋より

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今が踏ん張りときだ、なんてことはよくわかっているものの、
どの辺りに足突っ込んで踏ん張ればよいものなんでしょうか。
たくさんの生き方があるんだろうけど、
はっきり言って、そのどれかにあてはまるのかも
あてはめようとしたいのかも、なんだかどうでもいい。
今さらながら「自分探し」なんてスカしても言えず、
私はただただ立ち止まる。
「いっそ、“こっちの水が甘いよ”と手を引いてくれればいいのに!」
そこの水が甘くなくても、もう何も言うことはない。
でも、できれば甘い水を飲みたいと思ってもいることに、
ただ、うんざりとしてみるフリをしているだけだ。

あー、今日は酔っぱらった。
結果がどうだったか、あるのかないのか、
人に聞かずとも、答えは自分がわかっている。

2010/07/22

「こんなんないの?」を引き出せるカタログ。

やっぱりカタログっておもしろい、と思うのが、
未だにほとんどのカタログが手渡しという超アナログな方法で
出回っているということ。
(通販じゃないの。ネットで取り寄せることもできるけど)
だから、カタログそのものを作っているというよりも、
カタログを使ってのコミュニケーションの可能性を引き出す、
という印象のほうが強い。

イメージ。
営業マン「こんちはー。新しいカタログできたんで持ってきました」
工務店のおっちゃん「おー、ありがとね。暑いやろ、茶でも飲んでいけよ」
営業マン「ほなすません。今度のカタログはちょっといいですよ」
工務店のおっちゃん「ホンマやな。また置いといたるわ」
工務店のおっちゃん「そやそや。あんたんとこにこんなんないの?」
営業マン「ちょっと待ってくださいね。えぇと(カタログをめくる)。
     いつもお願いしてもらってるヤツやったらいかんのですか」
工務店のおっちゃん「ボルトがちょっと大きさ違うんや」
営業マン「そうかー。ほなこっちですわ。今度サンプル持ってきますわ」
工務店のおっちゃん「ま、まだ先のことやからな。頼むわ」

というようなもんで、
挨拶がてらカタログを渡しに行って、
そこでアレコレ話をしたり業界の動向探ったり
(動向探るなんてていうタイソウなもんかはナゾ)
要望やワガママを聞いたり
あと、ちょっとしたメンテナンスだったらやったり、
みたいなコミュニケーションのきっかけになるもんで。
で、辞書みたいなカタログはというと、
そのまんま辞書のように使われる。
なにしろ仕事の材料なもんで、ネットで検索するよりも
いつも知ってて信頼できるアンちゃんとこに頼みたい。
事務所にあるカタログでだいたいのアタリをつけて、
アンちゃんに相談するなどして商品を買う。

たぶん、このやり取りがとても大事だから、
こんなにネットばかりの世界なのに、相変わらずカタログは作られる。
ついでに字引きのようなものなので、
これは会社での在庫管理にも使われる。
で、会社によっても相手との会話も在庫の管理の方法も違うから、
ひとつひとつ違うカタログになっていく。
それに、客同士の場合でも、「これ買うで」と了解を取り合うときには
やっぱりネットじゃなくてカタログのほうが便利。
(イチイチ出力をするのは面倒。あ、でもiPhoneやiPadならいけるのか?)
それを想像して、こんな会話が生まれたらいいなーと企画するのが
今、イチバンおもしろくやっている仕事で。

クルマイスのあれやこれやもようやく発進した。
あれやこれやと親分と悩んで、
メーカーと、クルマイスを使っている現場との
意識の差を埋めていくことがイチバンの課題じゃないかとなった。
今の商品の流れは、ほとんどが
専門の知識を持つ人による選択になっていて、
ものすごく生活に密着した商品なのに、
自分でソレを選ぶことができないということが悔しい。
(たとえば医者に「この薬で」と言われたら、
それを断ることも、他を選択することも心情的にできないはず)
家具のように選べたら、とまではいかなくても、
選択する幅が広がったほうがいいと思うし、
一度使った人ならその欲求は高まるだろう。
すぐに聞ける相手が身近にいないことが問題だから、
そこで商品を選べるものであること、
それをきっかけに「聞いてみよう」と思えるものであること、
のふたつが条件になるなということで、
カタログの機能を持ちながら
情報を発信できるものを企画しようとしている。
購入した人ならばメンテナンスの相談ができること、
レンタルの人ならば次に選ぶ商品の指針にできること。
「作って終わり」はやめましょう、という提案。

しかし、本当にカタログは山のように。
クルマイスやりながら家具のカタログも手伝わなあかんし、
それやりながら去年やった福祉用具のカタログの提案もしないかん。
来月頭には別の福祉用具のカタログの提案もあるし。
(親分からの仕事は福祉用具ばっかやな…)
目の前で働くニイちゃんはもっとようけ作っている。
家電に照明に家具に自転車…。
プラス、企業の情報誌。
印刷会社の生き残りもかかってるんだろうけど、それにしても案件が多い。
カタログはやはり道具で、同時に、現場に向ける顔なんだなと思う。
Podcastで日経トレンディ聞いて商品情報に必死で食らいついている。
大きなお金が動くから、先方も慎重だし、
商品をやり取りする現場と商品とを知らなければオハナシにならない。
まぁつまり、かなり没頭してしまっているわけで、勉強は午前中のみ。
あ・い〜ん、てか、え・ぇ〜〜ん、だ。

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「本業は写真家、カメラマンという変わり種です」。
アナウンサーが彼を、そう紹介した。
後からリングに上がってきた25歳の対戦相手と見比べると、
ヒゲをはやしたその顔は、リングの上が場違いなほどにふけて見えた。
「あの試合で負けたら、
ジムももうチャンスは作ってくれないだろうと思ったから、
いい試合じゃなくてもいい、クリンチでも何をしてでも、
勝ちたいと思っていったんです」

ボクサー・関根虎洸の16戦目。
鋭い眼光の7歳年下の相手を、関根は4回、KOで下した。

カメラマン関根虎洸の初の写真集『DOG&GOD』には、
その写真直後の、自分と対戦相手の写真が載っている。
シャワー室で25歳の相手はシャンプーを貸してくれた。
そして今日の試合を最後に引退するのだ、と言ったという。

ボクサーは、経済的な職業としては成立しない。
やっとの思いでプロテストに受かり、プロのボクサーになり、
毎日トレーニングをし、厳しい摂生をして身体を鍛え上げて戦っても、
ファイトマネーは時給900円のバイト代の1週間分にも満たない。
多くの選手は、勝てないまま4回戦ボーイでやめていくという。
負けがこむと、いくらいい試合をしたくても、続けられないからだ。

『DOG&GOD』には、そうした
名もなく消えていったボクサーたちが収められている。
目が潰れ、鼻から血を流す、ある種ドハデな壮絶写真のはずなのに、
戦い終わったばかりの男たちの顔は、みなひっそりと静かだ。
「肩書きはボクサーかカメラマンか?
引退するまではボクサーです。
実際の収入はカメラマンでも。
写真はその後でも出来るから」

著書を出し、有名スポーツ誌に連載ページを持つと聞けば、
リングアナでなくとも、もはや「カメラマンが本業」かと思う。
ところが彼は、笑ってそれを激しく否定する。
「ボクシングはやめたいんだけど、やめられない(笑)。
写真は好きだけど、いつだってやめられる」
「子供の頃、海とかプールで、背中にモンモンしょった人を見ると、
きれいだな、と思ってました。
恐怖心を刺激されるような“コワ美しい世界”が好きだったんですね。
アンタッチャブルな匂いというか、空気感。
ボクシングにも同じ空気感があるんです」

ジムへ行くと、先輩を見るのが好きだった。
試合が近づくと、彼らの体は目に見えてシャープになっていく。
おしゃべりだった男が寡黙になり、目がランランと光りだす。
そのさまを見るのが好きだった。
そして憧れた。
「カッコいいんですよ、ボクサーって、存在自体が!」

だから、32歳の今、
カメラマンとして注目されたから受ける取材でも、関根はこう言う。
「この秋からまたタイ、フィリピン、韓国、と回ります。
で、ネパールのチャンピオンとやろうとしているんです。
ネパールは日本よりレベルが低い。
だから彼が東洋ランキングに入っていれば、
一気にチャンスはくるんですッ」

折り目正しい、胸板100cmの人を見ていると、チャンスを祈りたい。
と同時に、彼が三度読んだという、
元東洋チャンピオン,カシアス内藤を描いた
沢木耕太郎のノンフィクション『一瞬の夏』を思い出す。
“内藤は常に優しさに反応する。
そのことがボクサーとしての名等に、
どれほどのハンデを与えてきたことだろう……。”
心優しいボクサーと、それを見守ってしまう心優しい第三者。
関根虎洸の中には、ふたりいる。

※『花椿』(2001年9月号)文:知念万里子

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夏がきた。
こないだ事務所に所属している寡黙な24歳のデザイナーが、
徹夜続きの翌日に、昼間抜け出してどっか行ったなーと思っていたら、
汗まみれになって夢中で1階に入ってきて、
「今、そこの公園でバスケしてきたんす。
ニシムラさんいたんやったら誘ったらよかった」と
いつになく興奮気味に一生懸命話していた。
ひとりでバスケ。
バスケに夢中だった頃は、試合の多い夏が好きで、
みんなバテて休憩している間もひとりでボールを追いかけていた。
それだけで十分に楽しかった。
今でも夏の暑いのは好き。
必死で走ることしか知らなかったことを思い出す。

2010/06/30

見える角度をちょっと変えてみる。

モンダイハカネガナイ。
なのだ。

取材やら資料やら何やらかんやらと物入りで、
月曜日の段階にて、財布の中はわずか11円。
さすがに土日は何も食べられず、
へろへろとなった顔で事務所に入ると、
みなさん同情により食べ物を与えてくれた。
おにぎり、タバコ、コロッケ、卵焼き、トマト…。
おにぎりはコンビニで買った余りで、
ついでにタバコも買ってもらい、
コロッケと卵焼きは持参した弁当から。
トマトは事務所の近くにある立ち呑み屋で
なんと4パックももらった。
私は人に生かされている。

そういえば高知で生活をしていると
「餓死することはできん」とよく笑い話になる。
隣近所から野菜や魚をよくもらってしまうからだ。
「こんなにいらんのに」てくらいもらう。
5月に帰っていたときには、この野菜不足のご時勢に、
キャベツにタマネギ、ウドやゼンマイ、フキが転がり込んだ。
山菜は下仕事で手間がかかりすぎる。
そして納屋はキャベツで足の踏み場がない。
タマネギは、とにかく水にさらしまくった。
「ありがとう」と言いつつも、なかなか素直に笑えないとこもある。
アジを大量にもらったときも、
「どやって食べるがよ」という空気が家の中に充満していた。

ま、いずれにせよ、幸せなのだ。
食べるものがあるということは、それだけで心にゆとりが生まれる。
高知の人が陽気に生きることのできるひとつの理由とも言う。
今日は待ちに待ったギャラ振込みデーで、
「これ、どやって使っちゃろう」とウシシな気分になっている。
ああ、この気分が月末の苦難を生むというのに。
ノドモトスギレバナンチャラ。

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See you.
じっと、見ている
目玉だけになって、見ている
見ている対象は、ほんとうに
存在しているのか
見ている自分は、
存在しているのか


実際にサント=ヴィクトワール山を目にして驚いたのは
方角や距離、さらには光線の変化によって
まったく別の表情を見せることだった
山はまるで描かれることを拒んでいるように感じられた
その後、あらためてセザンヌの絵を見てみると
まずそのサイズに驚き、質感、色、グラデーションといった
画面を構成しているあらゆる要素の
的確さに心を奪われた
そして自分が記憶していたものが
いかに曖昧で僅かなことだったかを思い知らされた
それは「写真を見て知っている」という
認識の危うさがもたらすものだ
私は写真を撮りますが、見えてることだけを
信用していません。見ようとしたことが
そこに現れていなければならないと思っている
鈴木理策

※『翼の王国』2001年9月号「特集:まなざしの彼方」

--

6月の頭にNHKで車いす(というよりシーティング)の
ドキュメンタリーがあって、勉強がてら見たけれど、
正直、感動しすぎてしまったのだった。
とにかく、ただ一つ、座り方が変わるだけで、
人生に対する希望の見え方、つまり、ものの見え方が変わるらしい。
ま、そんなことは頭で考えたらいくらでも想像できるもんで、
去年カタログを作っていたときにだって
そのくらいのことは知識として頭の中にあったのだけど、
そこにはなんのリアルさもなく、
ただ知っている、ということでしかなかった。

車いすで移動をする人のことを
「チェアウォーカー」と呼ぶらしい。
そういうふうに口に出してみると全く印象が変わる。
クルマが好きな姉の息子が車いすで移動している人を見ると、
「あれ、かっこいいねぇ~~」と指差して呟くらしく、
いやまったく、そういう感じ。

ああ、すごいなー、ということを親分と話し、
実際にこの会社の商品を使っている人に会いに行こう、
ということで持ち込んでいく企画の大筋が決まった。

2010/06/25

車いすカタログ、作ります。

そろそろネコバスたたいて
ものつくり始めましょう。

親分からメールが届いた。
ここ最近、高松から大阪帰還してきた親分とともに、
車いすカタログの企画のために介護施設やリハビリ施設を回っている。
現場で必死に介護をしているヘルパーさんから
介護のプランニングと管理をするケアマネさん、
転院・退院に対して手続きをしている人など
役割も立場も関わり方違えば、モノの見方も本当に様々だ。
当然っちゃ当然だけど。
でも、どこでも漏れなく言われたことが、「情報がない」。

新しい商品の情報、注意事項等々、
一日が足りないほどに働く彼らが自ら検索をし、
あるいは足を運び、自ら情報をゲットするなんてほぼ不可能に近い。
商品を卸す会社の営業が彼らの周りをまわって
その営業トークから情報を得るか、
それぞれが所属している介護施設会社から得るか。
俯瞰で見た情報なのかがわからない。
だって、たとえば私は建築もやってるから
車いすと住宅のマッチングも考えられるけど、
そうじゃない人はそんな知識ないじゃない、と、
建築士をしながらケアマネになった女の人は言っていた。

ま、とりあえず、それは「それ」とする。
まずはカタログを作りながら、
そんな話を相手にしてくれる会社を見つけなきゃいけないから、
まだまだまだまだ時間がかかるだろう。
今回の車いすカタログ提案は、
「その会社で実現可能なカタログ」。
かなり自由な提案で構わないとのことなので楽しみ。
びっくりさせるようなカタログと言われているのでドキドキする。
もっとわかりやすく、もっと希望が持てて、
選ぶのがもっと楽しいカタログにしようと奮闘中。

デザインはネコバス。
たたかないと走らないのんびり屋。
ネコバスよ、疾走してくれ。

2010/05/26

草木と原点。

高知での取材が終わり、
土日は実家でぶらぶら過ごす。
月曜は姉に高知市まで送ってもらい、
送ってもらったお礼がてら、牧野植物園に誘う。
新しく温室ができていると
広報の小松ネエさんがうるさく言っていたので
その様子うかがいも兼ねて。

というか、牧野植物園は本当にいい。
植物の色やカタチやらがたくさんあって、
それぞれにそれぞれの必然性があるんだろうと思うと、
何モノかが深く深くカラダに沁みてくる。

姉はそのことを子どもの頃からよく知っていて、
小学校の行き帰り(まだ私がひとりでは不安な頃)、
必ずどっかの空き地に入っては草を眺め、
草を摘んできては精巧に絵を描いていた。
当時の姉曰く
「春も夏も秋も冬も、どれも植物があるから好き!」
とのことで。
幼き私はそんな姉の背中を追いながらも、
追いきれずに途中で背中をぼんやりと眺めたものだった。

今の植物園でも同じく。
姉は植物園の門に入る前から、
何か植物が目に入るたびにウロウロと動き回る。
少しだけ成長した私は、
今度こそ置いていかれないように必死で姉を追いかけた。

この季節は、私のような植物観察初心者には楽しく、
野のアジサイの花の色の多様なことを確認しては喜び、
…鮮やかな紫もあれば、白に近いピンク、
 葉っぱの色とほぼ同じな茶色など、
 また、それぞれの間の色や表現の追いつかないものなど本当に多彩!
カラーの高い(=衿の高い)花びらも、
自分の知るクマガイソウ以外にもたくさんあるんだと知って喜んだ。
牧野博士がこよなく愛した
野草の梅花オウレンの葉っぱはあまりに可憐でかわいく、
他にもシダやコケの静かなことや、
いろいろと(もう私には固有名詞がわからない)楽しかった。

ほぼ自然と同じ状態で生きている草木は、
初めこそ植えられたんだろうけど
今では自生し、自由に生きている。
その証拠に、立て札がつけられている場所よりも、
そこから派生して生きている「その植物」のほうが
「生きている」ように見える。
何度か植物園には来て同じように感動しているけど、
それはただ遠目から眺めているだけと同じで、
やはりガイドの姉がついていると
植物の物語を教えてくれる分、距離感が縮まるのがいい。
その楽しさたるや、
つい長居をして、乗る予定だったバスは見送ったほどで。
(最終のバスで大阪に帰れたけど)

小松ネエさんには偶然にも園内でバッタリ遭遇、
目的の温室は、これから5〜10年もの間でジャングルと化すんだろう。
それまでもきちんと見ておきたい。

--

子供の頃、私は虫が大好きな昆虫少年だった。
最初は蝶。
捕虫網を握りしめて、じっと目当ての蝶が飛来するのを待った。
暑い夏の日。
蝶はなかなかやってこなかった。
今日はあきらめて帰ろうととぼとぼその場を離れかけ、
もう一度振り返ると、
高い梢のあいだを縫うように蝶が飛び去って行くのが見えた。
蝶には通り道とそこを通る特定の時間帯がある。

また別のあるとき、
目を皿のようにしてミカンの葉の裏に
産みつけられたアゲハチョウの卵を探した。
黄色く光る小さなその卵を枝ごとそっと持ち帰った。
スケッチと短い文章からなる観察記録を毎日つけた。
卵から孵った黒い幼虫は、まず卵の殻を食べ、
そして一心にミカンの葉を食べる。
何回も脱皮してその都度、大きくなる。
黒い幼虫は、鮮やかな緑色になる。
その肌の文様にはすでにアゲハチョウの翅の予感が宿っている。

蝶への興味はやがてもっと硬質の美しさへの希求にとってかわる。
あこがれたのはルリボシカミキリだった。
小さなカミキリムシ。
でもめったに採集できない。
その青は、フェルメールだって出すことができない。
その青の上に散る斑点は真っ黒。
高名な書家た、筆につややかな漆を含ませて
一気に打ったような二列三段の見事な丸い点。
大きく張り出した優美な触角にまで
青色と黒色の互い違いの文様が並ぶ。
私は息を殺してずっとその青を見つめつづけた。

※『ルリボシカミキリの青』(福岡伸一著/文藝春秋)

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こないだたまたまテレビをつけると、
福岡伸一さんが出ていた。
「もし生物学者じゃなかったら」の質問に、
「建築のほうに行ったでしょうね」と答えている。
その理由は、生物の色やカタチが好きだから、
その構造物としてのモノ、ということになるんだろうと。
姉は建築士である。
私は、姉はてっきり生物学者のほうに行くんだろうと
当然のように思い込んでいたので、
建築士という道に決めたときに不思議に思って聞くと
同じようなことを逆のアプローチで言っていたことがあった。
そういうもんなんだろうな、と。

そういえば、私はタウンページを
じっと探っている子どもだったらしい。(自覚なし)
当時は「こんな仕事もあるんやなと思って」と、
タウンページをめくる理由を語っていたという。
それは、今の仕事に生きている、のかもしれない。


追記
姉に初めて教えられた植物はオオイヌノフグリ。
なぜこれを鮮明に記憶しているかというと、
姉が「ほら、犬の顔と似てるでしょ」と言ったからだ。
幼き私は「似てる?」と思いながらも
頭の中で無理矢理に犬に似せて納得をしたんだけど、
それにしても今だって「犬?」と思っている。

2010/05/16

突如、ヘアピンカーブを曲がる。

ゴールデンウィーク中に、姉から執拗に説得をされた。
「あと10年たってみい。私らはお父さんの姉妹の面倒をみなあかんのやで。
今からそのための資金を作るとなったら、犯罪するか医者になるしか…」
はかなりのいきおいで冷や汗をかかせ、
「ついでに医者になったらいいとこ住めるで。思い立ったら旅行なんてすぐやで」
に頭はすっと妄想の世界へ誘われ、
「兄弟のなかであんたが一番ふらふらしてるんやから、そろそろしっかりしてよ」
には視界がクラクラとなり、
「医学部の6年間、またふらふらできる期間が増えるんやで」
という矛盾した誘惑に根っこはぷかぷかと浮いて、
「最低でも年収1,500万。それで解放してあげる」で逃げ場がなくなった。

成分の9割方はオチョーシモン。
褒められれば天にも昇る。
考えてみればバスケットボールだって褒められるのが気分いいから伸びた。
そういえば、流れのまま逆らわずにきた今までの人生だって、
オチョーシモン特有の「なんとかなるやろ」精神に他ならない。
「万年学生」とは学生留年時代に先輩からいただいた呼び名だが、
今だって、学生時代と生き方はなんら変わらない。
「ゴールデンウィーク多めに帰ってきますわ〜」という
間借り中の事務所への挨拶も
「お金はなくても、にしやんの過ごし方って気楽でええな〜」と解釈された。

そうか、そろそろちゃんと、「社会人」にならなきゃいけないのか。

というワケで一念奮起。
これまでの人生を否定するわけではなく、
これまでの人生を念頭に置きながらも、
やっとこさ私は自分のこれからを決めるとする。
いやむしろ、大逆転をものにしようの決意が必要。
取り急ぎ、その資格を得るための勉強をするために、
遮二無二勉強である。

2010/05/05

最後の将軍のこと。

突然だけど、竜馬ってほんとに
新しいモノ好き、知らないモノを見るのが好き、
で、もしも暗殺されずに生きていたとするなら、
勝手に(図々しく岩崎弥太郎の世話になりつつ)
海外貿易の船に乗って世界を旅したんじゃないか。
そもそも、生き方について不便を感じたのは、
せっかく海外を知る人が周囲にいるのに
自分は自由に外へ出て行けなかったこと。
珍しい品をもっと見たかったし、
アメリカの自由な国家体制というものが
どんなふうなのかを知りたくて、
とかそういう好奇心が出発点だったはずだからだ。

長いことその期待的観測を抱いていたがために、
竜馬を崇め称える周囲の目にも、
ドラマに関しても少々違和感がある。
(別モノとして見れば充分におもしろいんだけど)
「そうだったらいいな」というヒーロー願望もわからんではないが、
いやいや、それよりもっと単純で自己中心的、
単に外の世界を見てみたい、という
個人的な野望を実現するために動き回っていたのだとしたら
もっとロマンチックな話だ。
高知県民にとっては、まっこと土佐の人ちや、と気持ちがいい。
叶えるために人に会い、実現の糸口を探るうちに
ほんまはこうしたほうが筋が通るがじゃないがかえ、
というふうに論じていたというならスイっと腑に落ちる。
(司馬遼太郎も言っているが、高知人は議論好きなのだ)

竜馬と同じ時代つながりで好きなのは徳川慶喜。
したたかで冷徹なイメージばかりが先行するし、
頭の回転が早すぎて周囲にはなかなか理解しにくい人だったらしいけど、
司馬遼太郎が解釈して描いた『最後の将軍』では
妙に人間味があって正直で、意外と無邪気な慶喜は愛らしく、
久しぶりに読み返してやっぱりぐっときた。
どこか引用しようかと思ったけど、
引用するなら解説が一番わかりやすいのでその部分を。
ついでに、やはり時代がそうだったのか、の感嘆もともに。

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慶応三年(一九六七)十月十三日、
十五代将軍徳川慶喜は京都の二条城大広間に在京四十藩の代表を集め、
政権を朝廷に返上する旨を告げた。
この大政奉還の立案者で、
当時河原町通の商家に止宿していた坂本竜馬のもとに、
土佐藩家老後藤象二郎からそのことを知らせる書状が届いたのは
夜も遅くなってからのことである。

竜馬はその文面に眼を通すと、しばらく顔を伏せて泣いた。
同席していた土佐系の志士たちは、
この一事の実現のために骨身をけずる苦労を重ねてきた
竜馬の胸中を思いやって粛然としたが、
竜馬の感動は彼らが想像していたのとは別のことだった。
竜馬は体を横倒しに倒し、畳をたたき、
やがて起きあがると、声をふるわせてこう言った。

大樹公(将軍)、今日の心中さこそと察し奉る。
よくも断じ給へるものかな、よくも断じ給へるものかな。
予、誓ってこの公のために一命を捨てん。


司馬遼太郎は『竜馬がゆく』のなかで、
その最大の山場ともいうべき大政奉還実現の日の
竜馬のふるまいをあらましこんなふうに描いたのち、
竜馬の胸中を推し測って言う。

日本は慶喜の自己犠牲によって救われた、と竜馬は思ったのであろう。
この自己犠牲をやってのけた慶喜に、竜馬はほとんど奇跡を感じた。
その慶喜の心中の激痛は、この案の企画者である竜馬以外に理解者はいない。
いまや、慶喜と竜馬は、日本史のこの時点でただ二人の同志であった。
慶喜はこのとき坂本竜馬という草莽の士の名も知らなかったであろう。
竜馬も慶喜の顔を知らない。
しかし、このふたりはただ二人だけの合作で歴史を回転した。
竜馬が企画し、慶喜が決断した。
竜馬にすれば、慶喜の自己犠牲への感動のほかに、
企画者として、ちょうど芸術家がその芸術を感性させたのと
おなじよろこびもあっただろう。
しかもそのよろこびが慶喜の犠牲の上に立っている、
ということで竜馬は慶喜の心中を思い、同情し、
ついには「この公のために一命を捨てる」とさえいった。


もちろん、この推測は竜馬の側に立っての一方的なもので、
慶喜自身が大政奉還の事業を「自己犠牲」という言葉で
表現しなくてはならないほど深刻なものと考えていたかどうかは、
また別の問題である。
政権を投げ出すことは、
慶喜にとっては「自己犠牲」どころか、
「決断」というほどのことでさえなかったのではあるまいか。
司馬遼太郎はかねてからそう観察していたように思われる。

(中略)

『竜馬がゆく』の場合と同じく、『最後の将軍』でも、
大政奉還をめぐる条々が一篇の大きな山場をなしているのはいうまでもないが、
幕府の大目付で慶喜の幕僚だった永井尚志が
坂本竜馬と後藤象二郎から聞いた大政奉還案のことを、
はじめて慶喜の耳に入れたときのありさまが、
ここではこんなふうに描かれる。

永井は、勇を鼓してこの動きを申しのべた。
が、勇気は無用であった。
(まさか)
と、永井がわが目を疑ったのは、
慶喜が案に相違して怒りもせず、取りみだしもせず、
むしろ目の色があかるすぎることであった。
永井は、次の間で慶喜の感情をおそれ、ひたすらに平伏してつづけている。
慶喜はいった。
「そうか」
それだけである。
それのみを言い、あとは沈黙した。


そして、司馬遼太郎はその沈黙の意味をこう解く。
それは「自己犠牲」などといったことからははるかに遠く、
もし、「よくも断じ給へるものかな」と感動した竜馬が知ったら、
ガックリと拍子抜けするていのものだ。

慶喜は永井にはいわなかったが、
この瞬間ほどうれしかったことはなかったであろう。
慶喜は、この徳川十五代将軍という、
つるぎの刃の上を踏むよりも危険な職に就いていおらい、
慶喜がつねに自分の遁げ場所として考えてきたのはそのことであった。
事態がにっちもさっちもゆかなくなれば、
政権という荷物を御所の塀のうちに投げこんで関東へ帰ってしまう。
「あとは朝廷にてご存分になされ」というせりふさえかれは考えていた。
が、この胸奧の秘策は死んだ原市之進に語ったことがあるのみで、
慶喜はたれにも洩らしたことがない。


「自己犠牲」の感情からだけではない、
慶喜という人は悲憤、慷慨、痛嘆、憤怒など、
いうところの激情からおよそ遠かった人のように見える。

大政奉還後、旧幕色の一掃をめざす大久保一蔵ら薩摩系策士の画策で、
「辞官納地」をはじめ、慶喜にさまざまな難題がつきつけられたが、
彼はさからうことなくそのすべてを請け、
別して嘆くことも、不満をあらわにすることもなかった。
それよりも、策謀家たちの打ってくる手の先を読むことに
興を動かしているふうだった。

(後略)

※『最後の将軍』(司馬遼太郎/文藝春秋文庫)解説より(向井敏)

--

“最後の将軍”として立ったのが、
縁の遠かった水戸からの慶喜、というのもおもしろい。
家定・家茂の時点ですでに尻尾は切れていたという解釈もどうだろう。



連休前から高知に帰ってきている。
大阪に戻るのは今月の半ばほどか。
ま、たまには出かけて行ったりもするけど
ほとんどは家で家事と持って帰った仕事に明け暮れる。
気分転換は一日数本の喫煙タイムで、
室内は禁煙のため、庭に出てタバコを吸うことになる。

家の庭は、旧家とは違ってけっこう広い。
父親がせっせと山から木を移植し始めたのが数年前で、
今はツツジもモミジもキレイないい庭になっている。
コケや雑草も元気で、中には珍しいクマガイソウなんかも。
そんな場所には動物も多く、
蜂やミミズ、モグラがウロウロしているのはよく見るが、
昨日は鱗がべっ甲色に光るトカゲの走る姿を発見した。
タバコそっちのけで追っかけて捕まえてみたい気がしたけど
いきなり尻尾を切られてびっくりするのも
さすがにちょっと恥ずかしい気がしてやめた。

そんな夜に、夢を見た。
都会の真ん中で、ビルの上からバンジージャンプをしたら
そこを歩いていた人にぶつかって殺してしまうという夢で、
事故なのになぜか私はその事故を隠蔽しようとして必死で逃亡、
詳しくは覚えていないけど、
その追いかけてくる警察も顔は無表情で
なんだか理不尽な罪をかぶせようとしていたように思う。
その秘密を唯一知っていた男の人と共謀するふりをして
彼のこともビルから突き落として殺してしまった。

ドキドキして落ち着かないまま目が覚めた。
トカゲの尻尾を思い出した。

2010/04/19

カワイイ。

1年くらい前のことだろうか。
下着の通販カタログを作るための取材にて、
ライターの女の子が出された下着を見て
「カワイイ〜♡」と熱狂の声をあげた。
取材相手の会社には年をとった男性も多かったのだが、
「ボクらには、その“カワイイ”っていう感覚がわからないんですよね」
「そういえば、女の人の“カワイイ”っていろんな意味を持ちますよね」
などなど、「カワイイ〜♡」の一言に食いつく食いつく。
私はそれらの「カワイイ〜♡」とはなんぞや、という疑問と、
それを考察する話に妙に納得をして、
以来、「カワイイ」をよく使うようになった。
ちなみにその会社とは、女性の下着を主に扱っている会社で、
男性社員たちは否応無く女性の感覚というものに悩まされるらしい。
カタログ制作窓口担当のMさんも、
「ボクにはブラジャーって言われても、
窮屈そうやなてくらいしか思えんかった。
最近ようやく、機能がわかるようになったくらいで」
と、よく喫煙所で話していた。
商品の開発は女性中心でされるが、
そこに混ざっていかなければならない男性にとって、
地元の有力会社にちがいなくとも、苦悩の多いことだろう。

--

「美しい」とカワイイとは極めて対比的な感性だ。
いうまでもなく「美しい」という感性は、
自然に、自身学習が必要となるものだ。
だから「美しい」は一度頭を経ての感性といっていい。
例えば、「走る姿」を美しい、と感じるとする。
それは走る姿に対するバランス、秩序感のようなものや、
その軽やかさのようなものに対して美しい、と感じるのだろう。

理にかなった走り方、無駄のない走り方、
身体を上手に活かした走り方というものがあって、
その結果、実に軽やかに走っている。
こうした完成された走るフォームの秩序感が分かった上で
「美しい」と感じる。
このように美しくは知っている事象と美しく感じることの間に、
一定の走る秩序感に対する学習があって美しいと映るのだと思う。

一方、走る姿からカワイイを感じる場合は、
そうした秩序感の世界とは全く別の、完成の視点から生まれてくる。

一生懸命走る姿、間の抜けた走り方、
ピョンピョンする走り方、楽しそうに走る姿など、
走る表情を一瞬に見分けて、カワイイと判断する。
カワイイは心に直結して判断され、判断に迷いは生じにくい。

それは対象との生命的な共感から派生してくるものだからだろう。

※『カワイイパラダイムデザイン研究』真壁智治◎チームカワイイ/平凡社より

--

(前略)

「配偶者の条件」は「才能」「美貌」「情愛」である。
これは一読してわかるとおり、いずれも「主観的価値」である。
「才能」は「埋もれた才能」「世に容れられぬ才能」という形容があるように、
その人に「才能がある」と思う人間の眼にだけ見えて、余人には見えない。
「美貌」も然り。
多くのラブロマンスは
「キミは自分の美しさに気がついていない」という殺し文句を伴うが、
彼女の美しさは「自分で気づかない」くらいであるから、
この言葉を発した人以外のほとんどの人にも
これまで気づかれないものだったのである。
「情愛」も同断。
「こまやかな情愛」などというものは
クローズドの空間で私的に享受されるべきものであって、
公的場面で開示されるべきものではない。
つまり、「配偶者の条件」はすべて私的、主観的だということである。
私的、主観的ということは、言い換えれば「一般的な仕方では存在しない」ということである。

(後略)

※内田樹の研究室「配偶者の条件(2009.10.18)」より

--

そんなことを考えました。

明日からタカさんと広島へ。
平和公園と宮島のみだけど楽しみです。

2010/04/18

いつか。

こないだ、取材の仕事の打ち合わせでクエストルームに行くと、
同じフロアのパーテーション区切りで140Bがあり、
青山さんや江さんにかなり久しぶりにお会いした。
なんというか、クエストの稲田さんにも言ったのだけど、
先輩にチョコレートを渡す気分というか、
妙にドキドキとして恥ずかしいというか
なんだかよくわからない緊張をしてきた。
二人に初めて会った、
ミーツの編集部に入る前の面接のことを思い出したりもした。
あのときは緊張しすぎて膝の裏から汗がたらりと流れたもんで。
よくよく考えてみると、
二人に編集部に誘われて以来のことで、年月こそ経ったけれども
未だに何ができると自信を持って言えることもないままに
私はなぜかずっとこの仕事に関わっている。
そういえば今回、タカさんに写真をお願いしたいからということで
オマケのように私宛に仕事が降ってきたのもありがたい。
(セットのように思われていることがナゾだけど)
それも、編集・ライター講座で同期だった李くんからの仕事で、
なんだか妙な結びつきをじんわりと思ったのだった。

そういえば、青山さんと喋りながら
相変わらずのパワフルさに圧倒されたり焦ったりしながら
ふと思い出したのは内田先生のブログであった子育ての話だった。
たしかに自分の周囲のママたちは、
あきらかに何か別のところで、
生き物として成長しているように思える。
諦めや粘り強さというか、そういうものがあって、
地元の森で見る木の根っこの、
障害物をウネウネとかいくぐりながら
静かに這って生きているのと同じような凄みというか、
そういう感じがして好きだ。
なんというか、きっと話している本論とは別のところで
そういうのを想像していた。

--

つまらないことをこのあいだ考えていたのですが、
私の知っている骨董屋が死んだのです。
私は瀬戸物が好きでして、
三十年くらいつきあっていたのですが、
その息子がこのあいだ来まして、
親父の一周忌に句集を出したいと言うのです。
彼は俳句を詠んでいたのですね。
こっちはそんなことを知らなかった。
こそこそやっていたわけですね。
じつは親父さんの日記が出てきて、
その日記を読んだら、私が行って二人で酒を飲んだとき、
おれの句集を出すから序文を書けと言ったら、
よし、書いてやる、と言ったと書いてあるんだそうです。
書いてやると言った証拠が日記にあると言う。
だから書いてくれと息子が言うのです。
そんなことはこっちは知らないし、
少しも覚えていないのです。
息子がそう言うものだから、
それじゃ句集を見るからもっておいでといった。
持ってきたノートブックには鉛筆でたくさん書いてあるわけです。
それをこの間、私はずっと読んでいたのです。

素人の俳句ですから、それは駄句でしようがない。
俳句でもなんでもありゃしません。
するとね、「小林秀雄を訪ねる」とかなんとか、
そういう詞書きがついて、俳句を詠んでいるのです。
彼は李朝のいい徳利を持っていまして、
ぼくは酒飲みですからいい徳利がほしいのですが、
それだけはいくら売れと言っても売らないのです。
骨董屋ですから、みんな売物のはずだが、それだけは離さない。
それで二十八年間です。
二十八年間、私に見せびらかしやがって、
そいつも酒飲みですからね、
どうだどうだと言って、そして売らないのですよ。
私はほしくてほしくて、
ついに二十八年目にぶんどっちゃったのです。
どうしても売らないから、
ぼくは酔っぱらって徳利をポケットに入れまして、
持って帰ってしまった。
そしてお前が危篤になって電報をよこしたら返しに行く、
それまではおれが飲んでいるからなといって、
持ってきちゃったのです。
それでぼくはいまも飲んでいるわけですが、
奴は電報を出す暇もなく死んじゃったのです。

その俳句をずっと読んでいったら、
「小林秀雄に」という詞書きが出てきましてね、
「毒舌を逆らはずきく老の春」という句を詠んでいるのです。
考えてみたら、それは私が徳利を持って帰った日なのです。
そしてその次に
「友来る嬉しからずや春の杯」とかいうのがあるのです。
その日なんです。
「毒舌を逆らはずきく」ということは、
つまりぼくが徳利を持って行ったということなんですわ。
ぼくは、まさか徳利をぶんどったときに
俳句を詠んでいるとは知らないでしょう。
息子が持ってきて、俳句をひねっていることがわかったわけです。
それから私は俳句というものを少し考えちゃったのですよ。
芭蕉とかなんとかいったって、
おもしろいということになると、
このほうが駄句だけれど、私にはおもしろいのですよ。

(中略)

しかしそれは私でなければわからないのです。
それがまたおかしな俳句が沢山あるんです。
そいつはとても食いしん坊で酒飲みで道楽者で、
死んじゃったのですが、こういう俳句はどうです。
「あれはああいふおもむきのもの海鼠かな」、
ナマコが好きな奴なんですよ。
ナマコで酒飲むでしょう。
そのナマコの味なんていうものは
お前たちにはわかりゃしないという俳句なんですね。
そういう句はですよ、
ぼくがその男を知っているからとてもおもしろいのです。
こんなものを句集で誰かが見たって、おもしろくもない。
都々逸だか俳句だかわかりゃしない。

「二日月河豚啖はんと急ぐなり」。
柳橋かなんかで芸者をあげるんでしょうが、
「来る妓(をんな)皆河豚に似てたのもしく」
なんていう句もありました。
そこで私はこのごろこういうことを考えているのですが、
結局そういう俳句がおもしろいというのはおれだけだ。
その人間を知っていますからね。
実物を知っていて詠んだということでおもしろいのが俳句だね。
そうすると、芭蕉という人を、もしも知っていたら、
どんなにおもしろいかと思うのだ。
あの弟子たちはさぞよくわかったでしょうな。
いまは芭蕉の俳句だけ残っているので、
これが名句だとかなんだとかみんな言っていますがね。
しかし名句というものは、そこのところに、
芭蕉に附き合った人だけにわかっている
何か微妙なものがあるのじゃないかと私は思うのです。

※『人間の建設』(小林秀雄・岡潔/新調文庫)
「人間と人生の無知」小林秀雄のコトバから

--

ボスが昔に所属していた会社の社長が亡くなったらしく、
今日は昼間からいそいそと葬儀に出ていた。
若いころにいた会社で
社長とも付き合いが深かったり
その周囲の人とも深い付き合いを重ねていただけに、
(葬儀が増えた、とは言いながらも)
かなりガックリとしている様子だった。
祖父の兄が亡くなり「わしも一人になってしまった」と
ボケ始めた頭の奥でぽつりと呟いたときに、
ああ、そうか、と想像して
寂しい気持ちになったときの印象と似ている。
先輩とボスと3人で連れ立って飲みに行くと、
酔うごとにぶちまける思い出は増えた。
いい話もあり、恨み言もあり、それは仕方ない。
私と先輩とは、知らない相手を顔を想像しながら飲んだ。

年をとるごとにおもしろいものが増えていくらしい。
私にはまだ富岡多惠子さんの全文はよくわからないけど、
やっぱりいつか夢中になれるときがくるのか。


追記
今日は昨年お世話になったクライアントに会った。
思いのほか(私にとっては「思いのほか」ではないけど)
冒険をして作ったカタログは好評だったとのこと。
高知からわざわざ会いに来てくれた。
それだけで充分、私はうれしい。

2010/04/08

春です。

白川さんが、「最近のヤツはおもろない」と嘆いていた。
いくつか自分のお店を若い人に任せているんだが、
白川さんから見ると「そんな生温いことすんなよ」と見えるらしい。
「癒し系かなんか知らんが…」と呟いていた。
これには私も身に覚えがあって、
たとえば今もそうだけど、キョーレツにスゴイと思ってしまうと、
それ以降、ココロが縮こまって亀の甲羅に潜ったように出てこれない。
「あんたらよりおもろいこと、私やるで」と言えない。
弱い、意思もワガママ具合も弱すぎる。
最近、ボスの仕事をちょくちょく手伝ったりしているけど、
やはり縮こまっている自分に気付く。
仕事のやり方も違うし、
ボスの仕事は建築の専門知識が必要で難しいし、
…なんて言い訳もしたいながら、ハァ〜〜となる瞬間。
そんなときに自分が見えている範囲なんて、
おそらくは左右に10度くらいの角度くらいしか見えてなくて
しかも視界はモノクロだ。
精進、精進、と思っているのに、
これではぶつかり稽古にもなりはしない。

とか思いながら肩をガックリと落としていると、
あるお客さんがお会計を始めていた。
その客の会計は2,700円。
カウンターの中にいるむっちゃんは、
1,000円札が3枚くることを先に読んでいて、
お金を受け取るなり、硬貨をさっと3枚、お客の手に置いた。
「すごいな、わかってたんや」と客。
ヘヘヘ…と誇らし気なむっちゃん。

実は私は、お金を受け取るときに
むっちゃんの両手が重なり合いながらのびていることが気になっていた。
なんのことはない。
ただ、小学生か中学生かくらいの頃に
実家の店を手伝ってレジ打ちをよくやっていたのだが、
会計で客からのお金を両手で受け取ると、
父に「乞食じゃないきにゃ」と怒られた。
自分は薬とお金を交換している、という意識が高かったのか。
とにかく、妙に納得をして、
それからお金を受け取るときは片手で、を心がける。
でもたまに、両手を出すべきか、と悩むことも。
いや、なんのことはない。

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たとえば数学で、数学といえども感情の同調なしには
成立し得ないということが初めてわかった。
これはだいぶわかったほうで、
そういう花が咲いたのだから、枯れて滅びる。
また新しい種から始めればよいのです。
人はずいぶんいろいろなことを知っているようにみえますが、
いまの人間には、たいていのことは肯定する力も否定する力もないのです。
一番知りたいことを、人は何も知らないのです。
自分は何かという問題が、決してわかっていません。
時間とは何かという問題も、これまた決してわからない。
時間というものを見ますと、
ニュートンが物理でその必要があって、時間というものは、
方向をもった直線の上の点のようなもので、
その一点が現在で、それより右が未来、それより左が過去だと、
そんなふうにきめたら説明しやすいといったのですが、
それでいまでは時間とはそんなものだとみな思っておりますが、
素朴な心に返って、時とはどういうものかと見てみますと、
時には未来というものがある。
その未来には、希望をもつこともできる。
しかし不安も感じざるを得ない。
まことに不思議なものである。
そういう未来が、これも不思議ですが、突如として現在に変る。
現在に変り、さらに記憶に変って過去になる。
その記憶もだんだん遠ざかっていく。
これが時ですね。
時あるがゆえに生きているというだけでなく、
時というものがあるから、
生きるという言葉の内容を説明することができるのですが、
時というものがなかったら、
生きるとはどういうことか、説明できません。
そういう不思議なものが時ですね。
時というものがなぜあるのか、どこからくるのか、
ということは、まことに不思議ですが、
強いて分類すれば、時間は情緒に近いのです。

※『人間の建設』(小林秀雄・岡潔/新調文庫)
「人間と人生の無知」岡潔のコトバから

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しかしながら、今日は事務所と桃谷を往復、
そして海老江に納品。
チャリンコが大活躍したのでした。
あたたかいいい天気、
平日でも、昼間から花見の団体あり、
夜には近所の公園にサラリーマンの群もあった。
いつも季節はいつの間にか変わっている。

2010/01/27

取り返しがつかない。

事務所は締切り続き、
締切りの合間に打ち合わせや撮影が入り、
炎上状態である。
みなヒィヒィと言っている。
寝不足すぎる御仁が開かない眼で、
それでもビール片手に喘いでいる。
寝不足すぎて顔色が茶色になった御仁が、
うおっうおっと言っている。
もうひとりの若者は、目の下にクマを作り、
「寝てないっすよ〜」と言って
2階のソファに突っ伏したまま動かなくなった。
D社やT社のような印刷会社からの仕事が多いが、
「いやー、このビルだけですよ、こんなに炎上してるのは」
と一旦目ェむいてカハハと笑う。
そんなら他の人のところへ…と言いたいところだが、
このご時世において、クライアントからのご指名でくる仕事は貴重で
仕事をもらうこちら側に思いを切々と伝えられるから断れない。
まったく、ありがたいことである。

それでもボスは家に帰る。
遅くなれば、ボスを愛する奥方から電話がかかってくる。
私もヒマを見つければ家に帰る。
若者も「メシ食いに行ってきますー」と言って
次の日の昼まで帰ってこなかったりする。
みんなそれぞれに自分のペースを守ってやる。
約束が守れて、コミュニケーションが取れるなら、
自分のペースを尊重していいんである。
むしろそのペースが不規則なことに
ブツブツと文句を言ってるんである。

目の前にいる先輩は、仕事がなくなることが不安で
休めるときに休もうとしない。
帰れるのに帰らない。
だから昨日は、先輩が銭湯に行っている間に
他の仕事の作業のために先輩のマックを占拠し、
その代わりに私がいつも寝床にしている、
極上の眠りを約束するソファを
「2時間たったら声かけるから」とウソを言って明け渡し、
朝までぐっすりと眠らせた。
年末にぶっ倒れられて迷惑を被ったことを
私は本気で根に持っている。
なのに目の前で茶色い顔してショボショボの目をこすりながら
陰気くさく仕事されるからたまらない。
ワーカーホリック、とはこのことを言う。
なんだったら、タクシー呼ぶからそれに乗って帰ってくれと思う。

--

ドイツの作家、ギュンター・グラスは、
『ブリキの太鼓』などで知られるが、
詩人としてもすごい。
大好きな詩の中に、こんな作品がある。

「三週間後」
旅行から帰って、
玄関の鍵をあけると、
部屋のテーブルの上に、
吸殻がいっぱいの
灰皿がのってた、ーー
こんなことは取りかえしがつかない。
(小沢書店刊/飯吉光夫訳)

僕は、初めてこの詩を読んだとき、
「確かに、こんなこと取り返しがつかないなあ」と可笑しむと同時に、
そもそもこういう独特な状況でしか生まれない“ある独特な思い”を、
こんな短い文章で読者に共有させる仕業に
深い驚嘆の念を抱いた。
満杯の吸殻を放置したまま、
それを意識なく過ごした3週間という時間ーー。
大切なモノを壊したり、決定的な事をし損じたり、
世の中に取り返しようのないことはあまたあれど、
こんな「取り返しのつかないこと」もあるのである。

先日、高校の同窓会から名簿が送られてきた。
過去にも何回か出ていたらしいが、
同窓会には20年程前に一度顔を出しただけで、
その後住所の変更も連絡していなかったので、
それ以来初めてである。
一昨年、母校の文化祭で講演を頼まれ、
その時同期の仲間も幾人か集まってくれて、
そこから交信が復活したのである。

同期は370名程で、名簿は10ページくらいのものであったが、
懐かしい名前が目に飛び込んで来て、
食い入るように見てしまった。
名前の横には、現住所や勤め先、女性は旧姓などが記されている。
「緒方は、中学の先生になったんだ」
「林はやっぱ家を継いで、いやいや医者やってんのかな」
「あの人気ナンバーワンだった三島さんは、
北大に行った後、結婚して今も札幌かあ」と、一行一行飽きない。
徹夜明けであったが、寝る事も忘れて1ページ、1ページめくった。
なにしろ、30年分がその薄い名簿に封じ込められているのである。

名前を辿る濃密な時間が流れ、最後の1ページになった。
あいうえお順の最後の「わ」の項が終わった先に、
こんな欄があった。
「死亡者」ーー僕は思わず、息をのんだ。
そうだ、卒業してから30年も経ったんだ、
370人もいれば、事故や病気で亡くなった者もいるだろう。
僕はすぐに大学1年で進路に悩み、
夏休み前に自殺したMのことを思い出した。
しかし、その死亡者の項にある名前は、
Mだけではなく、他に数人載っていた。
そして、その中に仲の良かったSがいた。
愕然とした。
亡くなった年を見ると、もう長い年月が経っていた。
僕は、その時心の中でこう叫んでいた。
ーーああ、このことは、取り返しようがない。

Sの死が取り返しがつかないことは、
どうしようにも逆らえないことである。
しかし、僕が取り返しようがないと感じたのは、
そのことではない。
それは、Sが当然どこかで生きていることを前提として、
僕自身が生きてきたことである。
別の言い方をすれば、
僕はそのSの存在があるものとした“バランス”で生きていたのだ。
知らずに過ごしてきてしまった長い時間こそ、
僕にとって、もうひとつの取り返しのつかないことであったのだ。

この自分勝手とも言える独特な思いは、
Sへの追悼とかとは異なるものである。
Sは、大きな身体をして小さい声で話す、やさしい奴だった。
その友人の死を知った瞬間、
僕は、長い間寄りかかっていたものが無かったのにも拘わらず、
バランスを崩さずここまで来ていたことに対して、
嘆いてしまったのである。

我々は、自分ではどうにもできない
一方通行の時間の流れに乗っている。
過去に手が届くことはない。
それ故、世の中は途方もなく、
取り返しのつかないことで溢れることになるのだが、
こんな取り返しようもないこともあるのである。
僕は、旅行者が部屋のテーブルの上に見つけた吸殻の山を見て、
その3週間を別の意味を持ってあらためて受けとめたように、
薄い名簿を手にしたまま、
Sのいないこの15年をゆっくりとなぞりはじめた。

※「取り返しがつかない」2002年8月21日
『毎月新聞』(佐藤雅彦著)


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前にも引用したことがあったけど、
先輩(家庭あり)の働き方を見るたびに
この文章を思い出す。

2010/01/21

関係としての仕事。

仕事をする相手にもいろいろある。
私も、相手にとっては「いろいろ」のうちの
一人なんやろといつも思っている。
できれば、そうでない相手を早いこと見つけて、
仕事をさせてもらえることを望む。
でも、そういう関係は、
なかなか作れないこともわかりきっていることで。

自分がガッカリすることは多い。
思ったよりもお金が少ないとか、
思ったよりも考えなきゃいけない領域が多いとか少ないとか、
思ったよりもズルズルと付き合わされるとか、
ガッカリとしないことのほうが少ないだろう。
でも、自分がそう思っているということは、
おそらく相手も同じように思っているはずだ。
…てなことは、毎度のことに思うことだけど、
たとえば自分がそうでなかったかと言えばよくわからない。
それはイチバン不安になるところで。

正直言うと、私はもう、
「自分が何を言いたいか」とかそういうことはどうでもいい。
相手が何を考えているか、に合わせて反応できることが最も心地よい。
だから反応できる相手を望む。
今間借りしている事務所では余計に、反応することがイノチだと感じる。
反応できないことは無理をして仕事を受けたりしない。
みんなのやっているのは健全な判断だと思う。
たしかに、編集者時代には、「その話」に反応できる相手を探し、
そこに無理を言っても仕事をお願いした。
それだけの能力を使う力量があったのか、
今ではとても疑問に思うけれども。

そんなことを若き編集者に話したけれども、
どんなふうに彼に伝わったのだろう。

反応できる、とは、つまり、
たとえば、米を作ることに対して思うのと同じだったりして。
ま、「米を作る」とは、
春夏秋冬の季節の変化に敏感だったりとかもそうだけど、
私の思うのは、田舎で周囲と助け合って作っていくことで、
うまくは言えないけれども、気付いたことをすっと言えたり
相談し合ったりできたりすることで。
互いの違いは分かりながら、いい間合いで関わっていけることだ。
小さい集落だったからそう思うだけだろうか。
ま、でもそれは、自分が何をするか、ではない。
少なくとも私はそうだと思う。

人の役に立ちたい。
無駄な仕事だと互いに思うような助け合いはしたくない。
役に立って初めて、その対価はもらっていいものだとも。
最近は改めて、そんなことを思って。

ありがたいことに、仕事はおそろしくたくさんあり、
おそらくは私が便利に何でもやること(つまり、スペシャリストではない)
そして若いことが仕事をたくさんもらえることの理由で。
だけど、だからこそ、「この人の役に立てるのか」ということは
仕事を受ける前にとてもとても考える。
考えすぎると面倒になるけれども。

高知取材。

ミーツ福島取材の原稿を残して(あれっ)
ミーツ抜き刷りの高知取材。
サイキョーにおもしろく、サイキョーに人情あり、
我が街ながら、やっぱりイチバン好きな街やなと思った次第。
それをみんなが「高知はすごい」「高知は規格外」と
言うてくれることに満足しきりで
取材期間中、酔い潰れてしまいました。


2日目、取材先にて。
東部、西部を回っている曽束さんと藤田さんも合流。
距離感近すぎの、隣のおばちゃんもおもろかった。
ここは先付けのほか、造りも、何もかもがうまかった。
というか、高知で「うまいわー」と唸れない店を探すほうが難しい。
高校時代には知らんかったけど、
食のレベルは確実にどこよりも高いと思う。


最終日の夜。
男どもは龍馬に扮して高知の酒マナーを教授。
これは龍馬に扮したオトコマエどもに興奮した女将が
毎年ここを使ってくれている「着物の会」なるものに
龍馬らを参入させた図。
セレブな着物女子たちから引っぱりダコでございました。
私もお龍になりたかったっす。