2009/02/25

このところの傍役志向。

気づけば2月も終わり。
今月もよく働いた。

働けば働くほどに
矛盾するいろんな感情に気がつく。
いつも悩んでんな〜と、谷本氏にも言われた。
優先すべきは、自分の立場かプライドか。
それともクライアントの利益か。
答えも、そもそもの「プライド」の設定位置の間違いも
とっくの昔に分かっているのだが、
冷静に、その判断ができないのだ。
そして、何が一番大事なことなのかを見失う。

「あらゆることを自分を感情に入れずに」と
宮沢賢治は『雨ニモ負ケズ』で叫んでいた。
暗唱できていた中学生の頃は、
「そんなことできるわけがない、ただの理想論だ」と
これに単純に異見したけれど、今になってわかる。
できないのではなく、理想論でもない。
やろうとしないからできず、
また、「やろうとしない」理由をまず先に考えるから
そこの発想に至ることもできない。
至らぬワケをとっとと探して認めるが勝ちだ。

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理由こそわからなかったけど、
誰もが誰かに対して、
あるいはまた世界に対して
何かを懸命に伝えたがっていた。
それは僕に、段ボール箱に
ぎっしりと詰め込まれた猿の群を思わせた。
僕はそういった猿たちを
一匹ずつ箱から取り出しては丁寧に埃を払い、
尻をパンと叩いて草原に放してやった。
彼らのその後の行方はわからない。
きっと何処かでどんぐりでも齧りながら
死滅してしまったのだろう。
結局はそういう運命であったのだ。

※1973年のピンボール(村上春樹)

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ミゾさんからの要請で、
大阪のいくつかの店を巡っている。
昨日は路に行った。
松山の露口にて、様々な人から
「大阪なら路に行く」と散々聞かされた。
露口さんは、カウンターにて
無口に淡々と酒を作る。
たまに言葉少なながらうれしそうに話をする。
往年だからと背筋を正すのではない。
不思議にくつろぐ下町のええ店は、
路でも共通するのであった。
「気泡が上に上がっていくからハイボールって。
先代の母親が言ってたけど、うまいこと言うよね」
と目を細めながら教えてもらった。
長くあるからいい店なのではない。
愛されているから長く存在できるのである。

それは名傍役の渋みとも似ている。
つながりを作りうまい話を醸造させる街の中の“名傍役”、
たぶん私は、そういう店に敬意を払うことが多い。
いきなり自分に振り返って恐縮だが、
私はそういったふうに傍役になりきれているのだろうか。
主張し、我を張っているだけではないか。
そんなことを事あるごとに思う。

2009/02/16

答えはないのだ。

プロジェクト・ランウェイに夢中。
家では観られないので、実家にて録りだめ、
こないだ高知出張のついでに
実家でむさぼるようにして観た。
昨年の優勝者(米では2006-2007シーズン)、
ジェフリーのデザインは超イカしてたし(英訳風)、
今年ももちろん要注目。

しかし、観ている私ら側からの、
ひとつひとつのファッションに対するダメ出しの多さよ。
全米から選ばれた才気溢れるデザイナー数名、
それがほんの半日やそこいらでドレスやスーツを作ってしまう。
モデルにフィッティングしてメイクしてランウェイに出て、
てことだけでも普通に「スゲー」なんだけど、
審査員から言われる小言は縫製の甘さにデザインの仕上がり、
テレビのこちら側にいる私らも、同じく。
着られるわけはないのに、
勝手に自分が着ることを想定して
デザインの善し悪しを勝手に判断している。
あるいは、「これ、こんなときに着たいなー」などの
勝手な妄想を膨らませたりもして。

ともかく、「作っていない他者」になると、
その工程がどうだったかなんて関係がない。
私ら観客に見えているのは、
その服を着たいかどうか、のその一点。
もしかしてそのデザイナーが身内とか知り合いだったら、
別の反応になるはず。
てのは当たり前のことなんだけど、
日常では自分の判断能力を客観的に見るなんてほぼ不可能、
それに気づいて、テレビを観ながら深く感激したのだった。

ちなみに、YouTubeでも視聴可能。

ちなみに通常の番組はこう。


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「いったい日本人は無用の知識が多過ぎる、
『中央私論』だとか『改作』だとか、
その他のいわゆる高級総合雑誌をみたまえ、
月々それらの誌上には哲学、社会学、人類学、
科化学、史学、国際情勢、経済学などという有ゆる思想、
批判、論駁、証明の類がぎっしり詰まっている、
そしてかかる雑誌が多く売れ、読者の数が逓増すれば、
それで日本の文化水準が高まったと信じて誇る、
愚や愚や汝を如何せんだ」
署長はここで憐憫に耐えぬという風に片手を振りました。
「いいか聞きたまえ、これらの論文を読むことは
たしかに見識を広くするだろう、
然し見識を広くするだけでおしまいだ、
僕の知っている質屋……ぼろが出たね……の主人公に、
哲学、社会学、自然科学、考古学などに
極めて深く通暁する人がいた、
実際びっくりするほど熟く知っているんで
感にうたれたくらいだ、
恐らくこういう例は到る処にあるだろう、
銀行の出納係、駅の改札、魚問屋の番頭、
商事会社の社員、呉服屋の手代、町役場の吏員、
どこにでもいるに違いない、然し、
それはどこまでも唯それだけのこった、
質屋の主人や町役場の吏員が
ギリシア哲学に就いて論ずるということは、
タルタラン的性格として諧謔の種にこそなれ、
それ以外には笑う価値もありやしない、
実行力の伴わない知識、社会的に個人の能力を高めざる知識、
これらのただ知ることで終る知識は
恒に必ず人間をスポイルするだけだ、
彼等はなんでも知っている、
だからいつも物事に見透しをつける、
すべてがばかげてみえ、利己的で勤労を厭う、
同朋を軽侮し、自分の職業を嫌う、
……社会的不正、国家的悪などという、
国民全体の最も重大な出来事に当面しても、
高級なる知識人であればあるほど、
三猿主義になるものと相場は定っているんだ、
……こんなこってなにができる、
泣っ面をして『長いものには巻かれろ』などと
鼻声を出しているようでは、社会全体に対する、
或いは文化に対する個人の責任を果すことなど
夢にもできやしない、
そしてその責任の自覚なくして
文明なる国家というものは存立しないんだ、
失敬だけれども」

そのとき自動車は或る邸の前で停りました。
「こういう風習が小栗青年や露店街ぜんたいの
人たちを無力にしている原因だ、
自分の能力を試してもみずに、
暗算でものごとの見透しをつける小利巧さ、
こいつを叩き潰さなくてはいけない、
有ゆる学問思想に通じながら、
なに事も為し得ない腑抜け根性、
こいつも叩き潰さなくちゃあいけないんだ」
「署長、車が停っていますよ」
「わかってるよ、車は停った、下りればいいんだろう、
己はもってお云いたいことがあるんだが、
……まあいい、あとにしよう」

※寝ぼけ署長(山本周五郎・著/新潮社)

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先週、親分の元に行くとたくさんの仕事が待っていた。
メインは通販カタログの修正のために
オペレーション事務所に籠ること、
(籠ってアガリチェック、即訂正、
そうしてくれるだけありがたい事務所である。
しかし、暖房機能が弱く、コートを着たまま作業。寒すぎる)
ひとつは介護用品カタログのプレゼン資料制作など準備、
もうひとつは官公庁のパンフのコンペ資料制作。

ひとくちに「制作」とは言っても役割は様々。
方やカンプまで制作したモノのケツ拭き部隊として、
方や現行カタログの難点を探す監察官、
方やパンフに夢を与える編集者。
いやしかし、それでもどれも視点は同じ、
見る「お客さん」が、本当にそれを見てわかるかどうか、だ。
(このへんが雑誌と違う。
欲しいと思ってもらうのは媒体でなく商品なのだ)
むにゃむにゃと作業をしたり考え込んだり、
別のカタログをめくってみたり、
資料を探しに本屋に出かけたりと、忙しないことこの上ない。
考える道中では資料を見ながらカタログをひらいて
「こんなんじゃ車いす選ばれへんやんかー」と唸っては
おもむろにコピー機の紙を掴んで表組をカリカリと作ったり
パンフをひらいて
「緩速ろ過法って何よ、ネットで検索してもなんのこっちゃやんかー」
と叫びながらイスでクルクル回ってみたりと、
(そしてあえなくその言葉は削除)まさしく奇行である。
その合間、ラジオのように、
ひっきりなしに各ディレクターの会話が入ってくる。
最初は気にしていなかったものの、
あるとき親分が「うちのディレクターたちは…」とボヤいていたので
周波数を合わせて聞いてみることにした。
気分は「サントリーウェイティングバー」である。

おもしろくないので会話の詳細は省略。
ともかく、「私の趣味じゃないんですぅ」とか
「制作で考えてもらったものの、
何を言っているのか理解ができません」とかの
軟弱なお悩み相談が多いことにびっくりする。
ことさらにたまげたのは
「もう、クライアントの趣味がわかりませんー!」
なんていうお悩み。
あ・いーん(志村けん/C)。
あなたの仕事は、
クライアントにある問題を理解して解決につなげることで、
相手は趣味で仕事なんてしてませんよ、と言いたい。

下着に車いすにベッドマット、ポータブルトイレや、
それにろ過の言語やら意味と格闘しつつ、
なんだかため息がこぼれるのでした。
彼らには、真っ向から商品の海に飛び込んでいく私が
アホらしく見えるんだろうな……。
しかし、こんなこと偉そうに言っている私も
クライアントの先の客が本当に見えてるのか。
不安になってきた。

2009/02/03

見た目のよさは罪作り?

またも高松。
カンプ帰校と、次号の企画会議のための滞在である。
初日分の訂正紙を受け取って、
再度デザイン調整をお願いするページと
そうでなくてもいいページとに仕分けをして、
指示を終えて事務所を出る。
親分とご飯を食べに行く。
ほとんどが仕事の話なのだが、
どっからそういうふうになったのか、進化の話になる。

何で読んだのか忘れてしまって残念なんだが、
たとえば、昆虫というのは、
地上にいる時間よりも土の中で眠っている時間のほうが長い。
なのに、記憶されている姿というのは
生殖のために地上に出てきた姿である。
それまで「進化っていうのは何かからジャンプできた者ができる」
と展開していた話の腰を折られた親分は、
「それは、ボクが言っている話とは違って文学的やね」
と言っていたけど、私は勝手に、
やっぱりこの話は生物学的だという思いを強くしていた。
つまり、生殖するというのは多種との区別をつけて
同種の生を遺していくことであって、
要するに、「記憶に残る」姿になるようになっているんではないか。

思いつきのまま、全然別の話。

随分昔、中学校の制服を廃止しようみたいな話で
うちの中学校も盛り上がったことがあった。
そのときの生徒たちの言い分では
「制服だと個性が出せない」とかいうものが主。
ボンヤリと「私服だってみんな同じようなもんしか着んくせに」と
思っていたけど、その欲望自体、生物的に正しんではないか。
あるいは、産まれたての赤ん坊はおそろしく本能的で、
姉曰く「育児書って取扱説明書か予言書みたい」てくらい個性がない。
そういうもんであっていいのだ。

これは何かモノを作っていくときのプロセスにも
似ているような気がして、酒のせいもあるけど、
どんどん自分の頭の中での展開に酔っていくのであった。

ところで、久しぶりに140Bのブログを見ると、
先輩が「作れてしまうこわさ」について書いてあって、かなりおもしろかった。
カタログでも全く同じことが言える。
実際の商品と、カタログの出来とが比例せず、
掲載商品が良く見えてしまう場合というのが必ずある。
そういうカタログというのは
はじめは成果を上げるけれどもその後客が定着しない。
「あのカタログは嘘をついている」となるからだ。
カタログとは、どういうものをどういう値段で売っているのか、
誰に売っているのか、ということを予め想像して作るのが常で、
あるいは通信販売ならば、どんなパッケージに入り、
どういう状態で届くのか、誰に対してその商品を買うのか、
そのカタログは、いつ、どういうときに見るのか、
なんてことも考慮に入れていい。
前号、喘ぎながら粗末なカタログができてしまったのだが、
その出来に反して、実は売り上げは伸びてしまった。
この場合、「作れなかった」ことが功を奏した。
結果オーライである。
結果を「生殖」とするなら、その行為が成功しなければ
そのカタチというのは全く意味を成さないということだろう。
例えるなら、いきなりオトコマエが現れても
腰が引けて挨拶すらままならん状態と似ている。
カタログの、反応のナマナマしさというのはおもしろい。
制作者やカタログの企画者は
一度作ってしまった「見た目のいい」カタログから
離れることがなかなかできず、赤字の一途を辿り、
ついには媒体の存在すら危ういという状況に陥ることもある。
中身が伴ってないことに気づいていないというのは怖い話だ。

そういう意味で、見た目のいいモノというのは、罪作りなのかも。
自分の関わっているカタログは上っ面でスベらないように、
と思ったりするけど、そのへんのことが伝わりきらず、やっぱり難しい。
制作者はできるだけ「見た目のいいモノ」を作ろうとするし、
そのことで努力をして、寝袋片手に臭い息を吐いている。
そこであんまり色気を出さないでほしい、
と冷や水をかけるのはまた、酷な話になるんだろうか。
お粗末。