2011/07/20

台風の夏。高知の夏。

台風は、上陸前の月曜からワーキャーと騒いでいて、
もっと近づいたら、こりゃどうなるんだろう、と身を硬くし、
庭では木々や大切な草花に補強がなされるなど、
台風襲来に向けて“上陸歓迎”の準備も万端に整えられました。

明けての昨日。
誰もが「この数年見たことがない」と言う川の水量。
流れの速さもしぶきの勢いも、
遠くから見ているだけで飲み込まれそうに恐ろしい。
母親が見ておかなければと言うので、
共に地域を車でパトロール(?)してみたら、
川の水位は、もう少しで田んぼや畑に達しそうな勢いに。
その様子は、以下の写真をご覧ください。

川上の集落にて。
濁流具合にも驚く。
水位はもう数センチほどと
畑に迫っている。
ナス農家をしている
友だちの実家はこの周辺。
…なすすべなし。


うちの前の川。
流れに対するカーブもキツく、
高低差も大きいために、
岩もゴツゴツと残り、
その割に流れが激しいところ。
(単に“速い”ではない)
「落ちたら死ぬ」でなく
「落ちたら砕ける」だ。


うちの家から川下へ
数メートルほどのとこ。
流れが合流するポイントでは
渦が巻いている。
(写真右下)


さらに川下へ。
いくつかの支流が合流とはいえ、
この川幅は、ない。
普段は、この半分ほどと
思ってもらっていい。


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かつて「台風銀座」と呼ばれ多くの台風が襲来した本県だが、
上陸は史上最多の5個を記録した2004年を最後に
昨年まで6年連続でゼロ。
記録が残る1951年以降では最長の「空白」だ。

先日の「読もっか こども高知新聞」にも出ていたように、
台風の移動コースを決めるのは
基本的に太平洋高気圧の強さと偏西風の吹き方。
ただし、近年の上陸ゼロの原因は詳しく分かっていないという。

そんな本県を久しぶりに襲った台風6号。
きのう正午前には県内全域が暴風域に入り、
強い風や激しい雨に見舞われた。
交通機関は空、陸ともにストップし、
足止めを食った県外からの観光客や
仕事に支障のあった人も少なくないだろう。

夏の台風は「風台風」が多いともいわれるが、
6号で目立つのは雨の量。
馬路村魚梁瀬や津野町船戸といえば県内有数の多雨地点だが、
24時間降水量が観測史上最大を記録したというから
尋常な降り方ではない。

県内各地で河川の増水や山の斜面の崩落などが相次ぎ、
安芸市の海岸沿いでは防潮堤が決壊した。
台風による高波の破壊力は大きいとはいえ、
津波はその比でないだろう。
次の南海地震では巨大な津波の襲来が避けられそうにないから、
防潮堤のもろさが気掛かりではある。

この新聞が読者の手元に届くころには、
鈍足の6号も本県から離れつつあるだろう。
できるだけ被害が少なくて済むようにと、心から念じつつ。

※2011年7月20日高知新聞・小社会より

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実際の被害の状況はどうか。
うちの近所(津野町)で言うなら、
うちより川上の集落(芳生野)では避難勧告も出されたらしい。
船戸では観測史上最大雨量と。
川では水位が測られたんでしょうか。
どのくらいの水位を記録したんでしょう。
安芸市では防潮堤が決壊したおかげで
たくさんのものが壊れたらしいけど…。


夏の高知は、日差しが強い分、日差しに吸い取られた水分が、
まさにバケツをひっくり返したように
激しいスコールとなって降りてくることが多くなります。
つまり、急いで洗濯物を避難させた数分後には、
忘れたようにからりと晴れて、
しばらくすると何もかも全部乾いてしまう。
「どっかのおっさんみたいな天気やね」と母と笑ってしまうくらい、
「ほんまに高知らしい」と称えられるのは
ざざぁーっと降ってからりと晴れる、という気性の人だったりする。

「暑い日差し・入道雲・スコール」の3点セットでなくとも、
台風だって気性を象っていると言って間違いないし、
実際に、高知にあるいくつかの独特の文化は、
台風から身を守るためのものだった、というのもポイントかも。

「高知に台風が来る? めったにないことやにゃ」
という囁きも最近では聞こえ始めていたものの、
これにて汚名返上、やっと来たか台風、という趣も否定できず。
台風の来ない高知は、ネズミのいない『トムとジェリー』、
もしくは、バイキンマンのいない『あんぱんマン』、
義眼おやじのいない[海老蔵]に、おかんのいない[万正]…と、
いたらいたでなかなかにたいへんなものではあるけれど、
なければ一気に魅力も個性も動機も半減してしまうものでも。
どんなに大きな台風が来ても大丈夫やきにゃあーということを
むしろ誇りに思っている(ように見える)県民性だからこそ、
台風のない夏はどこか気の抜けた(間の抜けた?)感じが
残ってしまうのではないでしょうか。
だから、この台風が久しぶりに直撃すると知って
防御策に走る人たちの背中と目と汗がキラキラ輝いて見えたのは
気のせいではないでしょう。

…なんて言うと、怒られるかもしれません。
…そういえば、前回、台風が接近してきたときに、
中土佐町の黒潮市場のおっさんが
「若いヤツは台風が来る、言うてびびっちょらぁよ」と
ケッと鼻を鳴らしながらボヤいていました。
寂しいのは台風が減ったことではなく、
台風にびびるようになった県民性でしょうか。
実学でなく机上のみで対策を練るようになってしまったら、
もはや高知の魅力は半減どころか。
(そんなことはないと思うけど)

2011/06/19

効率化について。

徒歩5分(3分くらい?)のごくごく近所にある
スポーツセンターで水泳教室をするというので、
通うことにしました。
6〜9月、週2回でなんと1,500円。
もっと利益を取ってもいいのでは…と恐縮の金額。
しかも参加者のほとんどが小中学生の自由形希望だから、
私のようにユル〜く平泳ぎを延々とやりたい人はいないので、
ほぼマンツーマンで教えてくれている。
教えてくれるのはなんと同級生で、
いっしょだったころには
そんなに運動ができたイメージはなかったんだけど、
さすがにしっかりとトレーニングされていて、
泳ぎにもかなり余裕が。
かなり贅沢です。

そこでは、久しぶりにカラダを動かし、
その動き(泳ぎ)についての効率化を指摘されています。
「効率化」なんて言うとものすごく味気のない響きですが、
最近、この「効率化」が美しいことのように思えてきました。
ここで言いたい「効率化」とは、つまり、目標に向かっての道のりを
最低限の努力で、最低限の時間でできるように作っていくことです。
水泳で指摘されるのは、お腹にもっと力を入れること、
正しい姿勢で水を蹴るということを連続してやること、
これらを改善していくにつれ、少ない力・少ない回数で、
長時間、らくに泳ぐことができるようになりました。
ついでに、見た目の泳ぎ方も美しくなっていくようです。

こないだ、たまたま父が観ていたテレビを覗き見すると、
『ためしてガッテン』をやっていて、
その中で「30回噛むといい」という健康法をやっていました。
ルールとしては、30回より少なくても多くてもいけない。
つまり、30回噛めるだけの量しか口に含まないということになります。
もちろん、素材によって、その量は違ってくる。
「30回噛む」と、私なんかは
食事の時間が3倍くらい長くなってしまいました。
一見、これは効率がよくないようですが、
結果として食べる量が適正になり、
(以前は、食べ終わってからも、
みんなと時間を合わせるために大皿料理によく手をつけていた)
噛んでいる間、ゆっくりと家族の顔を観察できるようになり、
あと、これはよく言われることだけど、
味付けされた(コーティングされた)味だけでなく、
素材そのものの味を否応なく味わうことになりました。
ついでに言うと、噛んでいる間に
自分の姿勢が悪いことにも気がついてしまいました。
たとえば、そんなことです。

最近、そんなことばかりを考えています。
今までの生活では想像もできませんでしたが、
意外とおもしろい発見がいくつもありそうです。

2011/06/05

処世術。



牧野植物園の「ユリとアジサイ展」にて。
うまく撮れたので。

牧野植物園が新しい建物になったのは
きっともう10年以上も前のことなのでしょうが、
子どものとき以来で再訪したのは
高知にこもって仕事をした2〜3年も前のことです。
それまで植物に関心を抱いたことがなかったのですが、
再訪したときにそうとう感動してしまって
以来、高知に帰るたびに訪れ、
または高知に移住してからも度々のぞくようになってしまいました。

ポイントは、「いろんなカタチの植物があるんだなぁ」という
ごくごく当たり前のことに気づいたことです。
つまり、カタチや色の違いは、
長い時間をかけて、生きている環境の中で
生きていきやすいようにできたものなのです。
それこそ、当たり前のことなのですが、
海岸の砂地で生きる植物はそのように、
山で生きる植物はそのように、
日向で生きる植物はそのように、
または生殖をさせやすいようになっている。
突然変異は突然変異なりに。
環境の中で接種しやすい物質なりに。
あ〜、すごい。

姉はずっと前からそのことに気づいていて、
建築を目指した理由も、
植物の構造みたいなのに憧れたからだと言っていた。
たしか福岡伸一さんも、今やっている研究の仕事は
そんなことがきっかけだったと書いていた。
気づいてなかったことが恥ずかしい。

で、姉がどうしても行きたいと言うので、
姉のダンナと子どもを置いて、
今日も牧野植物園へ繰り出しました。
雨の植物園もまたいい。
しずくをはじいたり、しみ込ませたり、
処世術をいろいろと拝見するのもおもしろい。
そしてアジサイ。
これまたたくさんの品種があってステキなのでした。

2011/06/02

跡が遺る。

母が、「うちの庭、もっと自慢したい」と言うので、
手近なところでブログをはじめました。
http://uchi-niwa.blogspot.com/

それに関連して、というか。
育てはじめて5年目に突入したうちの庭は、
たしかに今年、緑が青々と生い茂っている。
1階の庭に面したところにデッキがあるけど、
その目の前に植わっているヤマボウシは、
去年と比べて明らかに葉が大きく青い。
見るごとに、樹が大きくなっているような錯覚すら。
そして、いつの間にか花も咲いていた。
なんでこんなに元気がいいのか、父に問いただすと、
「今年は肥料をあげた」と。
うーむ、効果覿面ですね。


↑これが1年目か2年目ころ。
ちょうどタクマの誕生と同じ頃に家と庭ができました。
緑が少なく、撮りどころが難しい感じ。


↑これは去年。
かなり青々としてきています。


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田んぼや畑を埋めたてても数年間は土の記憶は消えないとみえる。
団地の隣は、野球グラウンドになっていたが、
いくら抜いても雑草がぐいぐい伸びるらしく、
大海原を行く小舟気分で歩いて行くと、
トビウオのように、シャチのように、
昆虫が次々と弧を描いて飛び出した。
見上げれば、白やブルーの洗濯物が、
団地の灰色を涼しげに包んではためいている。
1965年、できたての団地に入り、
その中に作られた未来派もどきの遊び場に行くと、
自分自身が火星から降ってきたように唐突に感じられた。
道を挟んで向こう側はもう小学校で、
千人の小学生に毎日ばたばた踏まれている青い廊下が
教室と教室の甘いにおいに、
昼になるともう一つ独特のにおいが加わり、
一度も中を覗いたことのない隣の給食センターから
魔法のスープが大量に運ばれてくる。
校庭の垣根の向こうは市役所で、南武線の踏切が見え、
線路の向こう側にある神社や農家や梨園や多摩川が
外国のように遠く感じられた。

※『よむ花椿』2010年12月号
 「自分風土記 298回 東京都国立市富士見台2丁目46番地」
 (文/多和田葉子)

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最近、歯医者に(ようやく)通い始めました。
とにかく、そこの歯医者は、スタッフも含め、
ニコニコして処置をしながらやんわりと小言を言われる。
主には「なぜこの状態になるまで放っておいたのか」と
「どういうことが原因でこの状態になったのか」の
やんわりとした尋問。
といっても、私は口をあんぐりと開けているので
それを的確に答えることはできない。
心の中にその問答を押しとどめ、
これまで自分が歯にしてきた仕打ちを振り返って
心を痛めるのが関の山か。

飲んだ暮れすぎていた日々から脱却し、
2ヵ月が過ぎると、体質はほぼ変わった。
うちの家での食事が野菜メイン、
そして、お酒は日常的なものじゃない、というのが何より大きい。
あと、生活習慣にリズムがつけられたことも影響しているのか。
単純に、体重が減り、肌ツヤが良くなった。
ガタガタになっていたツメが滑らかになった。
(ツメが体調を表す…とは、事実のよう)
でも、歯は、今までの生活を年輪のように残して消えないので、
それはとてもガッカリというか、反省。
生きてきた過程や環境を表すのは年輪だけじゃないのか。

2011/05/26

鯉のぼり。

そういえば、このゴールデンウィークには
マコちゃん夫婦と、
あと元『西の旅』編集の後藤さんが
私の家に遊びに来ていた。
最初の日は、私の家の周囲を散歩して家の料理を食べ、
次の日は四国山地のメインスポットでもある
天狗高原から大野が原をドライブ、
夜は高知市内へ繰り出し、たらふく魚を食べた。
翌日は朝から植物園を散策して
高知の中央市場の中の寿司を食べた。
山ではアブラメやワラビ、ウド、ゼンマイの山菜を。
海そばでは豪快な高知の魚を。
海を感じることはできなかったけど、
自然を肌に感じることができたんじゃなかろうか。
たくさん詰め込みすぎて時間が足りないように思うほどで、
きっと満足してもらえたと思う。
後藤さんはその後、うちの姉といっしょに
ロギールさんの家で紙すきを体験していた。
そこには私は参加できず残念でした。

とにかく、そんな訪問があって、
クルマでの移動中だったか何か、ふとしたときに
後藤さんが「鯉のぼり、すごいですね」と言っていた。

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黒田家

60年代のグループサウンズの音楽が
カセットテープから流れるなか、
二人の男がスーッスーッとハケをすべらせていた。

「さあ、次は緋鯉にいこうか」
「あいよっ」、
そんな言葉だけでそれぞれの道具を持ち出し、
一人は尻尾から鱗を、
一人は頭から目玉を描きだす。
ひとハケごとに一枚の布は鯉に生まれかわっていく。
ほぼ同時に作業が終わった。

宇和島は漁業の町だ。
明治38年、黒田旗幟店は
ここで大漁旗を作る店としてスタートした。
もちろんいまも大漁旗を作るが、
年が明け5月までは鯉のぼりにかかりきりだ。
その手法は昔からかわらない。
紅で下絵を描き、ノリを置く。
大豆粉を水で絞った「ご汁」で下染め、
カキ渋と油煙をまぜた黒で鱗を刺す。
そして色止め。
この作業の合間にそれぞれ乾燥が入る。

突然、雨が降ってきた。
二人は中庭に干してある9メートルの鯉のぼりをとり入れに走る。
勉さんと健さん、昭和26年生まれの双子だ。
兄の勉さんは高校卒業後、この仕事についた。
弟は大学を出て福岡の会社に勤めたが、
「人手が足らんから帰ってこい」と。

子どもの頃から自宅の横にある作業場が、
二人の遊び場だった。
遊びながら祖父や父のハケを洗ったりした。
大人になったいまもそんな気持ちが残っているのだろうか。
作業場の音楽がベンチャーズにかわる。
二人の共通の趣味は60年代のロックレコード収集。
「兄は社長、資金力が違うからとてもかなわない」、
一瞬、40年前の弟の顔になってそう呟いた。

※『ひとつ屋根の下で。』
 翼の王国(1998年3月号)特集
 (文/こうちえいこ、間庭喬平)

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他の地域だとうどうなのだろう。
今は四国でも数は少なくなったのだが、
未だに川を横断して鯉のぼりを流す家がけっこうある。
山合いのイナカになってくると、
鯉のぼりの数はさらに増える。
どうやら子どもが生まれたときに
贈答品としてもいただくようで、
勝手な予想だけど、子どもの誕生に対する地域の喜びは
イナカであればあるほどに大きくなる。
(基本、じいちゃんとばあちゃんしかいないから)
となると、鯉のぼりの数は、地域の喜んだ数だ。
残念ながら、ゴールデンウィークに
ヨソの地域へ行ったことがないから、
他のとこでどうなのかはわからないけど。


追記
こないだ、偶然にも姉の同僚となった入交さんが中心となって、
東京からの客人を招く飲み会が開かれた。
場所はなんと臨水。
臨水と言えば、先日ミーツの高知取材でも
土佐のお茶屋遊びをご教授いただいた料亭。
全く知らない人たちに囲まれながら、
おいしいお酒に溺れてしまいました。
(案の定、食べ物はほぼつつけず…)
ワチャワチャとした平和な会になってとてもおもしろかった。

さてこの東京からの客人たち。
なんと、「新聞バッグ」を作り、「おきゃく電車」に乗り〜と、
高知のA面をかなり堪能したそうな。
私もこのツアーに参加したい!
(というか、おきゃく電車に乗りたい)

2011/05/25

生活と天気。

天気や季節の話が好きだ。
新聞のコラムでも「初々しかった若葉は」とか
「水面から首を出し、心細げに風に吹かれた〜」
などが出てくると、それだけでおおお、となり、
ワクワクとして読んでしまう。
だからと言って天気に詳しいワケでもなく、
雲を見て明日の天気を予想するなんていう
経験からの天気予想すらあやふやだ。
それでもこの話にときめかされるのは、
自分たちが振り回されているというはかなさからか。
それでも、するりと相手に合わせて立っているということが
柔らかく、しなやかで、強いと感じられるからだろう。
それに、そこには生活の香りが漂っている。

うちは職業農家ではないけど、ずっと昔から畑があって、
畑では毎日のように野菜が穫れる。
そこでは水菜やワケギ、ダイコンやレタスなどなどを作っている。
収穫できたものは、隣近所で交換することがほとんどだが、
当然ながら、気温や土の善し悪しによって
葉や実の形や大きさは変わり、だから、天気や季節の話は大切。
「早く雨が降ってくれにゃぁ、こまるぜょ」となる。
雨が降った翌日はシイタケがよく太っている。
雨が降った翌日は、山の上の樹の葉っぱがぐいぐい伸びていることが、
下界からもわかる。(その伸びている様すら目に見えるようだ)
雑草も生え揃うから、仕事に出る前の早朝に草引きをする。
ま、だいたいにして、私は収穫しかしないから(おいしいとこ取り)
あんまり詳しい作業工程を知らないのですが。

庭の樹は、毎日のように顔を変える。
昨日洗濯物を干したときに、
こんなに青くなかったはずなのに…と思うことがほぼ。
そしてまさに昨日の昼にはヤマボウシに白い花が咲いていた。
(白い花…というよりもガクにしか見えないけど)
この季節、少し雨が降れば、
いつもはフサフサのオキナソウのヒゲもペチャンとなる。
普段はフサフサに見えるようにブローしてるオッサンみたいやなーと思う。
今日は晴れ。
(じいちゃん的には「もっと雨が降ってくれたほうがいい」らしいが)
昨日までのジメジメした雨と今日の日当りで、きっとまた、緑が増える。

そういえば。
職業農家の広島のばあちゃんちで米をもらったら、
ばあちゃんが「今年の米はええがにできてないけぇ」と言っていた。
そういうふうに聞いたならば、たしかに毎年の米と比べると
糠がよく出るような気もするが、むしろ余計に、
「おいしくないかもしれない」と期待をしない分、
いつもよりおいしいような錯覚も起こすから不思議だ。

ここにいると、そういうひとつずつを否応なく突きつけられる。
そして、どのコトもつながっているということもよくわかる。

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ひとくちに二十四節気と言っても、
知名度にはばらつきがある。
立夏、夏至という主役級にはさまれて、
小満と芒種は渋い脇役を思わせる存在だ。
きのうはその小満だった。
「陽気盛んにして万物長じ、
草木が茂り天地に満ち始める頃」と本にある。

今の季節、夏のスピードは速い。
初々しかった若葉はたちまち茂りを濃くし、
緑となって湧き上がる。
田んぼの稲も負けてはいない。
立夏のころ、借りている棚田で田植えをした。
水面から首を出し、心細げに風に吹かれていた苗が、
はや伸び盛りの勢いである。

※天声人語(2011.5.23)より一部抜粋

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広告用語の「エコ(地球にやさしくそして経済的)」は
生活とは乖離しすぎてどうも好きにはなれないけど、
自然を感じて自然に流されて生きるのはいい。
カラダが浄化され、みなぎっていく身体を実感できるから。

高知に戻ると退屈するかな〜と思っていたのに、
意外とそういう感情が沸かないことに、とても驚いている。
そして、そろそろ梅雨がやってきます。


追記
登録していただけのフェイスブック
(登録だけなら2008年ごろからと異様に早い。
ただ、使っていない)、
タダクマ氏からのメッセージによって
やっと使うことになりそうです。
というか、「この人アナタの友だちじゃないの?」と
渡された一覧の中身が、
「どないして知ったの?」という内容でびっくり。
情報社会、恐るべし。

2011/04/05

メダカもバテる春。

家ではメダカを飼っている。
冬の間には、大きな鉢の中に十匹ほどいた。
卵から子どもも孵って、大事に大事に育ててきたのに、
この日曜日におネエのダンナが鉢を洗っていて、
そのときにほとんどの稚魚は流してしまったらしい。
(稚魚を鉢に入れていたこと、気付かなかったようで…)
しかも、「あったかいところのほうがええやろ」と
庭の、一番の日の光の入るところに鉢を移動させたら
メダカの数は激減し、たったの4匹になってしまった。
生きているヤツも日陰を探して泳いでいる。
これはかわいそうやろ、と母と話し合って、
今日の昼間、鉢を、元あった日陰へと移動させることにした。
鉢はかなり大きくて重い。
二人掛かりでもかなり怖い。
何度か休憩をはさんでようやく元の場所へ戻すと、
心無しかメダカが急に元気になったような。
やっぱり暑かったのね。

そんなに興味を持って見たことがなかったけど、
これを機会に鉢の中を覗いてみた。
自分が助けてあげたという感じもカワイさに拍車をかけるようで。
よく見てみると赤いメダカが2匹と黒いメダカが2匹が残っている。
赤いメダカの1匹はずっと岩陰に隠れてなかなか出てこない。
もう1匹の、ちょっと色の薄いほうの赤いメダカを巡って
黒いメダカの争いか、赤いメダカが動く先へ先へと
黒い2匹のメダカがくっついてきていた。

今、母が川へ新しい水を汲みに行ったので、
水温も下がって元気にスイ〜っと泳ぐ姿が見られるはず。
よかった、よかった。

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咲くのは
桜の
勝手でしょ


東京都心の最高気温が23.9度まであがり、
横浜や八王子で観測史上最も早い
桜(ソメイヨシノ)の開花を記録した3月16日。
アジア、ヨーロッパの広い範囲で、
30年に一回程の高温現象を観測した21日、
満開の桜を春の嵐が散らした22日……。
翻弄され続ける春のなか、京都嵯峨野に佐野藤右衛門氏を訪ねた。
「今年の桜は早いですね」。
挨拶代わりのつもりだったが、氏は返した。
「普通や。何に比べて早いんや」

天保3年御室・仁和寺の造園工事を手がけた造園家、佐野藤右衛門。
その16代目にあたる氏が、
祖父、父に冠せられた「桜守」の名を継いだのは、
15代目とともに命を終えた枝垂桜の姿を見た53歳の時だった。
日本中を度して名木といわれる桜の種や枝を持ち帰り、
その子孫を守らんと努めた祖父と父の想いを、
それから20数年、自然と継いでいる。

あるものは散りはじめ、あるものは満開で、
またあるものは寒い盛りに花を咲かせる。
ヤマザクラ、ヒガンザクラ、オオシマザクラの3つを原点に
自然交配で増えてきたそれぞれの子孫たち。
その間を、時に手に触れ、時に花びらを口にふくみながら、
慣れたリズムで歩いていく。

「花の時期を過ぎたら、みな忘れてしまうけどね。
桜の花は、それまでの1年を生きてきた結果として咲くんや。
せやから今こうして咲いている花を見れば、
去年の夏はどうだった、秋はどうだった、冬はどうだったとわかるし、
毎日守りをしていれば、次の開花も想像はできるわな。
そら、桜だけが突然ポンと咲いたらおかしいわ。
けど、すべてが普通や。桜と同じように虫も鳥も動いとる。
人間が遅れとるんや。たぶん、そうやと思うわ」

一番の桜などない、すべての桜がそれぞれに好きだという桜守。
人工的に作られたソメイヨシノは桜の仲間にいれていないと言うものの、
それが私が日常に見られる桜だと話すと、
「生き物として見てやれや。毎日毎日気にかけてやれや」と微笑んだ。
この秋冬、見慣れた街路樹の紅葉や落葉に、
私ははじめて気づくことができた。

※『翼の王国』2003年1月号
特集「サイタ サイタ サクラガ サイタ」
文/芦澤牧、南部洋一


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そういえば、2〜3年前に四国にある会社の仕事をしていたころ、
営業者で高松から高知へとよく移動をしながら、
四国山地を超え、大豊へ着くくらいには上着をひとつ脱ぎ、
南国市ではもうひとつ上着を脱ぎたくなるくらいに
同じ四国でも「気候が全然ちゃうな〜」と感じたこともしばしば。
気候…というよりは日差しの強さの違いというべきでしょうか。
私の家は四国でも最も気温の低い地域ですので、
「高知」だからと侮るべからず。
昼間はメダカもノびるほどキツい日差しですが、
日差しを浴びない室内はまだまだ寒く感じるほどなので…。
(朝の気温は零下!)

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畑では、水菜が花を付けていました。
この花の部分(咲き始める前)が柔らかくておいしい!
ナマのままサラダにしても、お浸しにしても。

2011/03/26

オーサカもあと1週間をきりました。

いつものように、野田の駅前のときどき行っていた店のドアを開けると、
突然ながら店の中身が変わっていてびっくりした。
その店は、「なんでもない」という言葉がぴったりと当てはまるというか、
ただ少し、他の店と違うところを言えば、
料理のバリエーションが多く、頼めばなんでも作ってくれるような店だった。
私はそこの、キャベツの千切りにフレンチドレッシングをかけただけの
なんでもないサラダが好きで、
たまにそこへと足が向いたときにはいつも頼んでいた。
古びて茶色くなった壁紙に、
フォークソングやドリカムがループでかかっているような店だ。
それがなくなったことを知ったときに、急にかなしくなってしまった。
通うというほどのことでもなく、
ただ、景色のようにそこにあって、「行った」と言っても、
野田に通った2年ほどの間で10回も行ったかな、という程度のことなのに。

「離れる」ということが自分に置き換えられて、なんだか少し、
連絡しても億劫がられるだけかもと思っていた相手にも、
「高知に帰りますよ」と言わないといけないような気がしたのだった。


大阪に住んでいるのもあと1週間になってしまった。
京都に住んでいた時期も含め、約15年。
高校までを過ごした高知では、
バスケットボールに明け暮れる毎日すぎて世間のことなど知らなさすぎた。
「ものごころ」がついたのがこの大阪という場所だった。

連絡しておかなきゃ、と思って、
多少なりとも自分と関わってくれた人を思った。
そしたら、ランダムに、いろんな人の顔が浮かんでくる。
すれ違っただけの人、とても怒らせてしまって二度と会えなくなった人、
お酒を飲んで楽しかった人、
…そういえば、アルバイト先の常連さんで
近所のうどん屋に連れてってくれた夫婦は元気なんだろうか、
とても仲良くなれそうだと思ったのに
また会うことを期待しながら会えなかった人もいた。
逆に、全然仲良くなれそうじゃないと思った人のほうが
むしろたくさん会っていたような気もするな。
仕事で恐縮した人や、恐縮させてしまった人、
何かを伝えきれずにただ離れてしまった人、
家族のようにとても仲良くなった人、
心配してくれた人、心配をした人、
…ずいぶんとたくさんの人に出会ったもんだなと。
人に会うごと、たくさんのことを考えたように思える。
会った人の分、私は何かをやってきた。
そして、みんな出会ったときからカタチを変えた。
結婚をしたり、子どもを産んだり、その度に、また考えた。
合う・合わない、あるいは、会う・会わないを別として、
それぞれに個性があって、それぞれが立体的に見えたのだった。
きっと、私がこの街からいなくなるということさえ、
また「何かがカタチを変える」というこに他ならない。
いつか「大人になると気づかないまま(@いるか)」、
私たちは変わりゆく景色にふにゃらふにゃらと合わせながら
同じように変化をしていく。

とてもたくさんの人が私のために何度も送別会をしてくれる。
「1〜2年後、気づいたらまたここにいそうやな〜」
「むしろ、『あれ、帰る』って言ってなかった?て、来週とか言ってそう」
「気づいたらまた事務所のソファで寝てるんやろね」
なんて、温かすぎる冗談を交わしていると、
本当にこの場所から去ってしまうことが想像のできない夢物語に思えてくる。
でも、私は去ってしまう。
私の予想では、もう二度とこの街のこの場所に同じカタチで住むことはない。
住んだとしても、それはまたカタチを変えた「何か」でしかないだろう。

もう二度と過ごすことのない時間の中で
私はとてつもなく大きな覚悟をしたようだ。
この覚悟がどう転んだとしても、後悔はしないだろう。
でもきっと、ここで知った喜怒哀楽の心の動きを忘れることはできない。
そんな全てに、泣けてしょうがない。

2011/03/04

ガンダム。

家具の撮影で静岡ロケ。
東静岡の駅前でガンダム(原寸大)展示しておりました。
全然興味なかったけど、さすがにテンション上がった。
コーフンしたフォトディレクターさんが写真を必死で撮っていました。





ようけ撮りましたなー。

2011/02/26

高知に帰ります。

帰るべきか、帰らないべきか。
未だにずっと思っている。
自分はまだ、ここでやり残したことがあるんじゃないか、
もっとやりたいと思っていることがあるんじゃないか。

迷うべきか、突っ走るべきか。
今、まだレールの引けていない、
もしかしたら1冊作ったところで
何も見えてこないかもしれない瀬戸際で、まだ少し悩む。
そんなちっぽけなことで、私はウロウロと足元を探す。

話をしたい、聞いてほしい。
とても寂しがっていること、誰もに知ってもらいたい。
でも、かっこよく進みたいし、颯爽と生きたい。
それは、ずっと変わらない。
もしかしたら、たくさんの言い訳や理由は、
それを作るためにあるのかもしれない。

悲しくて悲しくて。
なんだかとても悲しくて。
今、そうか、もしかしたら
もう二度と同じ場所には戻れないのかもしれないということを
強く強く思って泣けてくる。
出会った人や聞いた話や、本当にどうしようもない些細な出来事、
すれ違ったたくさんのことが愛おしくて仕方がない。
それらが全部沁み入っている。
その自分のカラダが、とても悲しくて愛おしい。

流れる。
行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、
かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。
世の中にある人とすみかと、またかくの如し。鴨長明。

流れる。
「水は流れたがって、とっとと走り下りていた。
そのくせとまりたがりもして、
たゆたい、しぶり、淀み、でもまた流れていた。
川には橋がかかっていた。
人は橋が川の流れの上にかけられていることなど頓着なく、
並記で渡って行った。
私もそうした。
橋はなんでもない。
なんでもないけれど橋へかかると、
なぜか心はいつも一瞬ためらって、
川上川下、この岸あの岸と眺めるのだ」
幸田文。

私はここに根はなく、
ふっと離してしまえば果てしなく遠くへと行ってしまいそうで、
自分のことながら、不安で不安で、
もうどこにも居場所がなくなるんじゃないかと悲しくなる。
本当にたくさんのことをここで感じて、
生きていけるように生きてきた。
仕事が少し忙しくて、高知に帰るんだと決めながらも、
ためらうこともなく、そうするんだと他人のように思っていた。
まさに今、「もしかしたら」の話がふとよぎって
一気に感情が押し寄せてきた感じがする。
こういうときに雪が降っていたら、
「なごり雪〜へへへ」なんつって茶化すこともできるのに。

2011/02/17

車いすダンサー。

車いすの情報誌の取材。
車いすダンサー。
かっこいい。

あ、でも、「ヒップホップ」って聞いていたけど
「ヒップホップ」ではなかったけどね。
奥の女の子が取材相手で、手前の男の人は先生。
車いすダンス界の権威らしい。


2011/01/16

大往生。

13日の13時8分、広島のじいちゃんが死んだ。
母は仕事をせっせと片付け、
それでも広島へと走り出したのは夜中。
私は母の眠気防止のためにお供することになった。

到着したのは夜中の4時。
去年の3月、脳梗塞で倒れて以来、入退院を繰り返し、
最後の1年は病院で過ごさなければいけなかったじいちゃん、
死んでやっと家に戻ったとのことで、私たちが家に入ると、
ばあちゃんは、じいちゃんの横に寄り添い、
母の姿を見て「やっと帰って来れたからねぇ」と呟いた。
最期は危篤の状態が幾度もやってきた。
母もその度に仕事を休んでいたけれど、
母がじいちゃんの元に戻ればまた血圧も戻る、という繰り返しで
そのうつろな状態も苦しいだろうからと、
最後はもう「亡くなったら行くわ」と苦しい決断をしたようだ。
ばあちゃんは、「また起きるんじゃないかと思ってねぇ」と言い、
母はじいちゃんの顔をペタペタと触って、
「お父ちゃん、冷たいねぇ」と答えた。
私は何も言えずに母から一歩下がった形で座るしかなかった。
少し眠るようにとばあちゃんを説得してその夜は終わったけど、
朝起きると、ばあちゃんは名残惜しくじいちゃんの横に座っていた。

通夜の日は、じいちゃんの兄弟、近所の人が集まった。
葬祭場の人が来るのを待っているときに、
住職さんが「予定にはないんじゃけど」とやってきて、
南無阿弥陀仏、と念仏を唱えた。
じいちゃんはマメな人で、信心深いというよりは
「そういう役割」として真面目にお宮や神社、寺に通っては
お勤めをしていたらしい。
「いつも来ていた人が、ということが私にもとても寂しく思えて。
無常と説きながら、それが身近で起こるとは、
私もまだ思えていなかったようです」と
突然の訪問のワケを説明して帰っていった。
この住職さんは、通夜でも葬儀でも念仏を唱えてくれた。

通夜、葬儀と済み、じいちゃんは火葬場で灰になった。
農業を生業としてきたじいちゃんの骨は太かった。
ひとつずつをみんなで壺に納めていき、
2〜3年前、じいちゃんが足を傷めたときに
右の膝に埋めていたボルトだけが残った。
あのとき、じいちゃんは足取りがすっかり悪くなって
小さなスクーターで移動するしかできなかった。
元気も自信もなくし、久しぶりに帰ってきた母に
「もう来年は会えないかもしれない」と言っていた。

その後、母はまた広島に行って元気なじいちゃんと会っている。
次に私がじいちゃんと会ったときは
言葉を放つことも、誰かにスプーンで運んでもらわなければ
ひとりで食事をすることもできなくなっていた。
じいちゃんが介護を必要とし始めたときから、
じいちゃんの世話は広島にいる娘と息子に任せて
ばあちゃんはじいちゃんに恥じぬよう、
必死で畑の面倒を見るようにしたらしい。
それでもじいちゃんは不自由な口調で
ばあちゃんを心配していたという。
おじちゃんがそう言っていたことを思い出していた。

お骨を家に持ち帰り、
じいちゃんにとっての最後のお勤めをし、
みんなで鍋を囲んで、それぞれが床に就き、
片付けをしていた私と、眠れないばあちゃんとが台所に残った。
何の話からだったか、ばあちゃんがポツリとじいちゃんの話をし始める。
自分たちの子どものこと、孫のこと、ひ孫のこと、
じいちゃんが家に戻りたがったこと、じいちゃんが元気だったころのこと。
「最期は苦しむこともなかったけど、
すぅっと色が褪めて、冷たくなっちゃった。
そんなのを見るのは初めてでね…」
毅然とした顔を保ちながらばあちゃんは話した。
涌き出るように、ばあちゃんから次々に出てくる言葉を、黙って聞いた。
話が終わると、ばあちゃんはまた、じいちゃんのそばに座りに行った。
葬儀の翌日も、また人が来てじいちゃんのことで涙を流して帰っていった。

広島のじいちゃんのこと、
高知へ嫁いだ母なので、私たちはそんなに身近じゃなかった。
父から「じいちゃんはお母さんをかわいがっていたから、
お母さんと結婚するとき、本当はじいちゃんは嫌がっていた」と聞いて、
もっと広島に来ればよかったと思った。
じいちゃんやばあちゃんのこと、
「お父ちゃん」「お母ちゃん」と呼ぶ母を見たのも初めてだった。
帰り際、ばあちゃんは寂しがって泣いた。
「みっともないとこ見せて」と言うのを振り切って帰った。

じいちゃん、本当に、おつかれさま。
大往生でも、じいちゃんのことを思って寂しがる人が大勢いる。
その風景を見ているだけで、じいちゃんの人生を垣間みた気がした。
平凡でなんでもない、平和な農家の主人、88歳の人生だった。
思うようにいくことも、思うようにいかないこともあったろう。
でも、幸せだったと思う。