2009/04/30

いけしゃーしゃー。

いけしゃーしゃーと、仕事ばかりが増えている。
今度はメンズウェアのカタログ、
京橋でおかんな焼肉店をデザイナーズな店に変身させた
街なオッサンと組んで企画を立てるらしい。
…なんつって、これ、ほとんど当て馬的要素満載、
強がりなドングリ(代理店)の小競り合いの中で、
「おいらたち、こんな企画だってできるんだぞー」と
できるだけ高く飛び跳ねることを期待されている空気が漂っている。
親分の好きなオッサンと、
親分の親指ほどの私とのドリームマッチ、てか。アホくさ。
でも、親分だから協力せねば仕方がない。

仕事の続きで言うならば、下着の仕事は今のとこかなり順調。
ま、これもこれから、クライアントのドロドロな政治に
巻き込まれるだろうアホくさい匂いは充満している。
「下着なんかわかりません」なんて
いけしゃーしゃーと言っちゃう“トップ”が(一体何の会社や)
売り上げがどうの、という現場の切実なことよりも
自分の趣味やメンツのためだけに周囲をぐるぐると巻き込んでいく。
よっぽど自覚のない無作法者か、
自覚して巻き込むイヤミなハゲオヤジである。
カタログのキャッチを全部タテ打ちにしなさい、
なんて全社的にいきなりの統一事項も、
ただただ自分が威厳を保つために
何か文句でも言うとこか感が垣間見えて見苦しいことこの上ない。
それともタテ打ちにすれば売り上げが倍増するとでも言うのか。
それにしても「タテ打ちに」なんてスケールが小さい。
小さすぎるぜ、オヤジ。
小さいくせに、訂正費、内々でようけかかるっちゅうねん。

ま、カタログや広告は、自分が“話”を提供するワケじゃないし、
ましてや大きな金の動くカタログにしてみれば
このテの問題はけっこうどこの会社にでも転がっている。
(とは言え、制作費自体は不十分。そのことに彼らは全く無自覚だ)
決断をしても責任だけでメリットがないからか、
話を先延ばしにするための“打ち合わせ”に付き合わされるか、
うやむやにしながら「タタキを作ってもらえるかな」
なんていう“上”からのオーダーを受けることになる。
こちらにしてみれば、
グレーな話の決断を促すようなヘタな発言はしたくないし、
そもそもお悩みをクドクド聞いているうちにどうでもよくなっている。
キャッチコピーはヨコかタテかなんていう小さすぎるグレー問題同様、
できれば、「決まったら教えてね」という立場でいきたい。
で、そういう話が出てこない会社は、単純にいい会社だ。

そしてただいま高知。

高知の仕事はいい。
なんといっても、何をしてもほめてもらえる。
これまで作ってきたカタログがフォーマッティブだっただけに、
商品を見せようと奮闘したらすぐに結果が出る。
喜んでもらえてほめらてもらえてうれしい。
決定権が全員にあるから話していて決断が早くて気持ちいい。
むしろ筋のない話をすればこっぴどくやられる。
でも、しょーもない営業も失敗をくり返しながらかわいがられている。
あー。どこもがこんな会社ばかりだといいのに。

ちなみにここのカタログ、無料じゃないのに40万部(すごすぎる)。
こないださらに、増刷すべきかどうかで悩んでいた。
しかもカタログだけで商品を売っているワケではない。
小さなほったて小屋みたいな事務所で、
いけしゃーしゃーと、やりよります。

2009/04/11

仮り末代。

数ヶ月前、あるひとつの制作物に対して
ナットクのいくモノを作ることができず、
親分といつものようにビールをチビりチビりと飲みながら
原因を探ってなじり合った。
私は、うまく作れなかった原因を、
「踏ん張る」ことのできない体制にあると思った。
「そんなもんオマエが踏ん張れよ」と親分は言う。
それに対しても、できない原因をいくつか連ねてみせたが、
所詮は私が「いい人」で「無関心」であるからという結論に至らされた。
概ね当たっているのでムグッと言葉を飲み込んだ。



親分に関して言うなら、
十年来仕切ってきたカタログを競業他社に獲られ、
また同時期に、評価の高かったカタログが廃刊になってしまった。
「課長」で高松の事業所の管理人である親分は
いよいよ背水の陣といったところでもある。
最近ではクライアント全体にすら「売り場」というよりも
「作品創り」といったフワフワと浮いた感じが漂うのは否めず、
しかも商品の善し悪しの類までこちらが判断するという、
一体どちらが会社の主体か…という空気すら。
そのうえ資金効率化などと知ったふうな顔してのたまっている。
「やってられへんわ」と言いたいのは親分のほうであろう。
こちらからは「お気の毒」としか言いようがない。
クライアントにいた数少ない「主体」が
続々と会社を離れていることもヤバさを物語る。

ちなみに、冒頭のカタログ、出して1週間ほどで、
スタートダッシュで前年比5倍の売上げを記録したらしい。
必死で作ったのは確かだし、
そういう評価はうれしくないわけじゃないが、
写真もコピーもデザインも中途半端、
いかにも「ブリっ子」なシロウトカタログである。
一体何がよかったのか頭を抱えて悩んでいる。
というか不本意で不可解である。
比べた前年の売上げがどのくらいのもんなのかもナゾだ。
(1人にしか売れてないとして、5人が買っても大差ない。
しかし、それも「5倍」である)
そろそろ出て1ヶ月ほどになるが、結果はどうなのだろう。
正直言って、怖い。

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「トタンはそっくりかえっちゃっているし、
屋根はバラバラになっているし…」
居酒屋のおかみさんが言った。
「うちも、そうなんだ。茶の間も、子供の部屋も、
便所も雨漏りがする。……しかし、おたくなんか、
そのうちにビルを建てるんじゃないか。駅前あたりに」
「とんでもない。屋根だってなおせないんだから」
「そうかねえ。とてもそんなふうには見えないけれど」
私は、自然に天井を見て、それから、あたりを見廻すようにした。
「もう、一生、このままですよ」
「ここへ来て、何年になります?」
「十五年ですよ」
それは、板のむこうで、タコとコハダで小鉢を造っている主人が言った。
私には、柱も壁も、きれいで、しっかりしているように見えた。

はじめ、私は、体をこわしているので、今日は飲めないのだと言った。
すると、おかみさんは、飲まないほうがいい、
と言って、湯呑茶碗を用意した。
そこへお茶が注がれるまえに、私は、
すばやく、しかし一本ぐらいならいいだろうと言った。
飲まないほうがいいかな、
それとも飲んだほうがいいかな、と、つけ加えた。
そのへんが、私の本心だった。
なぜかというと、飲まないほうがいいにきまっているのであるが、
そこは、なにしろ、居酒屋であり、酒にしたほうが、
いきなり御飯にするよりは、
うまいものが出てくることがわかっているからであった。
もうちょっと説明すると、その店では、私は、
いっさい注文をhしないことにしていた。
そのほうが、主人も機嫌がいいし、
また、確実に、うまいものが出てくるのだった。

薄縁を敷いてあるところでは、
商店に勤めているらしい三人の青年が鉄火丼を食べていた。
それとは別に、小皿に持った沢庵の色が、まことに良い。
彼等は、さかんに、全学連について悪口を言っていた。

主人は、私のほうを向いて、飲んだほうがいいよと言った。
それから、そっぽをむいて、くすっと笑った。
私をからかっているつもりなのだ。
同時に、おかみさんをもからかっているつもりなのである。

私は、一本だけ、飲むことにした。
おかみさんに、それ以上、飲ませないようにしてくれと頼んだ。
いつものようなコップでなく、猪口にしてもらった。
おかみさんは渋そうな顔つきをした。

はたして、アナゴのキモと、ミルガイのコが出てきた。
主人が、飲んだほうがいいと言ったのは、
半分はこのためであることがわかった。
「十五年。へえ、十五年ねえ」
「このうちは、四十年経っているんですよ。
だから、台風とか地震のときはこわくてねえ」
「おどろいたね」もう一度、見まわした。
「でるからね、はじめて来たときには、子供がいやがってね。
家へはいらないんですよ。
家を見ただけで、沼津へ帰るって言うんですよ。
あたしたち、それまで沼津にいましたからね」
「そうなんですよ」
おかみさんの言葉が終らないうちに主人が言った。
「畳は赤くなっているし、部屋は汚れているし、柱はへなへなだし…」
それにおっかぶせるようにして、おかみさんが言った。
「あたしたち、ずっとここに住もうなんて思っていなかったんですよ。
それに、こんな商売を続けていこうとも思っていなかったんですよ」
「あたしは、ほんとは会社員だったんですよ。鉄工所のね」
「仮り末代なんですよ」
そこまで、主人とおかみさんが、二人で競走するように、
早口で、せきこむような調子で言った。
「えっ?」
「仮り末代って言うでしょう」
「知らない」
「よう言うじゃないですか。仮に住んだつもりが、
そのままになってしまうことをね」
それを主人がひきとった。
「そう。あたしたちは仮り末代」
「もう、家を建てることも出来ないし、この家をなおすこともできない。
屋根だってなおせないんですから。このまま、一生…」
「そんなこともないだろう」
私は、残りすくなくなった一合の酒を、慎重に、大事に飲んでいた。

どういうわけか、私は、医者のことを思いうかべていた。
医者になってしまった友人のことを考えていた。
それも、一人や二人ではない。

私たちが、旧制の高等学校や大学の予科を受験するころ、
徴兵のがれのために、こころならずも、医科を受ける人たちがいた。
その数が一人や二人ではなかった。
なかには、学力に自信がなくて獣医学科を受ける男もいた。
卒業して兵隊にとられても、獣医ならば、楽であり、
危険がすくないという計算もあったのだろう。

医科には徴兵延期があった。
それは、おそらく最後まで続くだろうと考えられていた。
安全な道だった。

中学の同窓生や同期会に出席すると、たいていは、その男たちが、
そのまま医者になってしまっていることに気がつく。
父とか兄とかが医者である場合は、そろそろ独立して、開業医として、
それ相応にやっていける年齢に達している。
そうではなくて、会社員とか官吏とか
教員とかいう家庭に育った男たちは、
いまでも病院勤めであったり、大学にずっと残っていたりする。
その数が、つまり、一人や二人ではない。
三年ほど前に、月給が三万円とか四万円であることを知って驚いた。
なぜならば、こころならずも、予定を変更して、
医科を受けて合格してしまうという同級生は、
優等生であり、秀才連中であったからだ。
なんだか申しわけないような気がした。

同様にして、本来は、文科系tか文学部を希望していたのに、
やはり徴兵のがれのために理科を受けて、
現在もそのまま、工業会社に勤めていたり、
科学方面の仕事をしている男の数は非常に多いのである。

また、徴兵延期があるということで、
当時は、いくらか軍隊にちかい印象をうけていた
商船学校を受験した男がいる。
兵隊にとられるよりはマシだと思ったのだろう。

その男は、結局、そこを卒業して、船員になってしまった。
戦後になって、何度も船員をやめようと思った。
しかし、いまでも彼は船員であって、
一年のうちの十ヶ月ぐらいを海の上で暮している。
ことによると、私たちは「仮り末代」の世代であるのかもしれない。

居酒屋での、私の酒は5本になり、
おかみさんはいよいよ渋い顔になり、主人はますます上機嫌になった。

私にしたって、居酒屋へ寄るつもりで散歩に出たのではない。
暗くなったので、ひょいと、はいったのである。
飲むつもりはなかった。
かりに一本だけ飲んだのである。
いつのまにか、そのままずっと飲みつづけてしまった。

酔ってくると、私には、すべての人が、世の中全般が、
たとえば男女のことにしたって、仮り末代に思われてくるのである。
そんなときでも、誰にとっても、
こころならずもというのが、実は、本心なのではあるまいか。

※「男性自身」傑作選 中年篇(山口瞳著)

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高松に来て思わぬ苦行を強いられている親分、
このところよく「大阪に帰ったら…」と言う。
高知に向かうクルマの中でも、追手筋のひろめ市場の中でも、
高松に戻ってきて居酒屋に向かう途中でも、
「戻ったら○○会社にこうこうこういう提案するから、
それまでに制作部隊組んどいてや」など、具体的に描いているらしい。
しかし「具体的に」とは言え、いつ大阪に戻れるかわからないから
結局のところ、実際は妄想なのである。
こないだ高知での打ち合わせを終えて
しばらく帯屋町の商店街の周辺を案内しているときには
「おサトは高知の人なんやな。
オレは大阪出身や、って四国におったら実感する」とも言っていた。
余程、大阪に戻りたいと見える。

でも希望に反して、まだしばらく親分は高松にいるんではないか。
高松のスタッフ、営業も制作も含めてだが、
親分に対する信頼は相当に厚い。
「親分が高松にいる間はここを離れたくない」と
毎晩のようにコンパを仕切っているチャラけた男風情も
そこだけはしっかりとした口調で言い切る。
「親分が来てここの雰囲気は本当に変わった。
みんな仕事に集中しようとするようになった」とはベテラン女史の弁。
全てを鵜呑みにしないでいようともがきながらも、
親分のペースになっていて、それが意外と楽しいのだとも言っている。
ひとつずつの言葉に含まれるズシリとした重みに
ウンザリすること多々であるが、
「相手の売上げに付き合えない企画には何もない」
などと言いながらクライアントと向き合おうとする
サラリーマンには意外と出会えない。
周囲は、そういう真っ当な考え方に振り回されながら
仕事ができることを楽しんでもいるように見え、
親分が大阪に戻っていくことを損益だと思っている。
つまり、私の予想は、高松でのほとんどの収益を預ける
そのクライアントのモンダイを本当に解決できるまで、
親分は「四国」に付き合わなくてはいけないだろうということである。



冒頭の話に戻る。
比べて曰く、私にはこだわりのようなもんが全くないという。
どこで何をしようと、私自身には
別段の変化はないようにも見えるらしい。
他人のやることや意見に無関心、
合わせることができるというよりも
合わせることしかしていないとも言った。
呼吸を合わせることで自己防衛もしながら
相手の様子を見ているということなんだろう、
「だからオマエは人付き合いに時間がかかる」と
オニの首でも獲ったかのようにうれしそうに親分は指摘する。
その指摘は半分合っているかもしれないが、
半分は私への、親分の希望である。
当人はそれを悪いふうに思っているわけでもないようで、
むしろ酒に乗じて珍しくホメてみた感じのところもあり、
結局のところ戯言に結論は出なかった。
「別にもう、なんでもええっすよ」と返事をした次第。