2009/01/30

みそっかす。

高松から高知へ、高知から大阪へと、
このところ、高知に住む弟の車を足にして移動することが多い。
弟の彼女が大阪に住んでいるので、という理由だ。
これまで寡黙な弟からは空気を感じ取るのみ、
言葉を交わすことはほとんどなかったのだが、
そんなワケで、よく弟と話をするようになった。

つい先日。
10日に長らくの休みを終えて大阪へ戻った。
ちょうど弟が彼女に会いに大阪へ、というので
ありがたいことに車に便乗させてもらった。
その日、弟は饒舌だった。
結婚に対する悩み、仕事に対する悩みは尽きない。
弟がそんなにも自分のことを話すことはないので
そのことだけで興味深く聞きながら、
いつの間にか弟も大人になったんだなという想いと、
意外と弟は幼かったんだなという矛盾した感想が
恥ずかしながら、親の如く頭を廻ったのだった。

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子供が大勢、鬼ごっこをしている。
妹や弟を連れている子もいる。
妹どもはなかまにはいりたがってだだを捏ねる。
そこで姉たちは
「じゃあ、みそっかすで入れてやろう」といって、なかまにする。
みそっかすはつかまえられても、鬼になることから免除されている。
だから誰もみそっかすなんかつかまえようと狙いはしない。
けれども、みそっかすの姉が鬼になったときに、
みそっかすは協力して人をつかまえにかかる。
鬼につかまらなくても油断してみそっかすにつかまれば、
その児は鬼にならなくてはいけない。
これが遊戯におけるみそっかすの位置なのである。
じゃんけんにしても、認めてなかまに入れた以上は、
みそっかすだけを勝負から脱かすわけには行かず、
勝ったところでなんにもならず、
負ければ一人前な責を負わされる。
厄介ななかまなのである。
もちろん一般に、「あの児はみそっかすでね」とつかわれる時は、
一人前でない、役たたずの、きたならしい、
しょうのない残りっかすという意味である。
であるから、また一方には諦められ、
大目に見て赦される恩典にもあずかるが、
大概のみそっかす根性といわれるものは、
折角のその恩恵を白眼で睨む性質をもっているから、
結局は憎まれるのがおちであるらしい。

※みそっかす(幸田文/岩波書店)

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弟の話を聞きながら、
私はそれまでの弟と自分との関係を振り返り、
転じて、姉との関係を思った。

幼い頃、姉が中学生になる頃までだったと思うが、
私は姉しか見ずに育った。
私は姉と同じ時期に、同じ物に興味を持ち、
同じように人生を選択していくことに疑う余地はない。
現に、小学1年生のときの担任は同じだった。
変な話、たとえば姉が小学4年生で先生に怒られたとしたら、
私も同じような事項で怒られるもんだと留意した。
姉は私にとって予兆である。
世界は姉を中心に回り、私はその後をピタリと付いて回っていた。
同級生が遊びに来ても、
姉が自分の友だちと遊んでいたらその誘いを断り、
学校でもことあるごとに姉に絡んでいく。
姉が肉を嫌いなら、私も肉が嫌いだと言い聞かせるなど、
その崇拝具合は、今思えば宗教じみたもんだったかもしれない。

母の実家、広島でのこと。
車で山道を走っていたら、突然に姉が言った。
「さっきのカーブの脇に変なキノコがあった」
父は急いで車を停め、姉はひとり車を飛び出しキノコを採りに行った。
その他の、珍しいという植物もいっしょに採ってきた。
車に戻った姉は目を輝かせながら
採ってきた植物について説明をしている。
車の中の家族は、誰ひとり、その説明を理解できる人はいないのに。
さすがにそれはできないし気づけないし理解できないな
と強烈に思ったことを覚えている。
いくら姉のそばで、姉のやる通りに、としていても、
本当に好きなものへの時間の遣い方が細かく違っていたのだろう。
姉と私とは違うのだと気づいた、初めての出来事だったと思う。

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