2009/05/28

たっすいきね。

毎週のように、高松と高知を往復。
平日の半分以上は高松、
重なって半分以上が高知。
で、なんだか家に帰っていない。
出張と称して大阪に「行く」こともある。
こないだ書いていたディレクターのおっさんには
いつもえっちらおっちら大阪に会いに行く。
でも、たいがいは多くても1泊で四国に戻ることになる。
あとは、着替えを入れ替えて洗濯をするために帰るとか。
なんか、ややこしい。
たくさんの人に、四国に住むことをすすめられるけど、
なんとなく引っ越すつもりもないまま、
とりあえずこの数カ月、ホテルでの生活を続けている。

理由はいろいろある。
大阪に家がなくなったら、雑誌の仕事がもらえなくなるから。
仕事の9割以上は親分からの発注だし、
一時的に高松にいる(と本人は言いたいらしい)親分が
大阪に帰ってしまうと困るから。
ホテル代とか交通費は遠くにいるから出してもらえる、
とか、まぁ、それらしい理由はいくらでも。
高松は自分にフィットしているかは疑問だけど、
やっぱり高知の、自分の街を好きな人らは好きだし
夜の街も最強におもしろい(やっぱり高知は酒飲みに寛容だ)。
「カツオとか魚とか酒だけが高知やない」と言いながら、
その口でみんな酒を飲んで肴を食べる。
どこの店にもとりあえずカツオはある。
はりまや橋の交差点にあるビルでは
毎時、よさこい節をもじった妙なオルゴールとともに
妙チクリンなからくり人形が踊っていたりする。
そういう情けないとこはものすごく好きだ。
だけど、たまに帰った大阪で
見ようとして見なくても見えてしまう物事が刺激的で、
「大阪に帰る」を自分に強いてしまっている。
その他に何があるかうまく説明できないけど、
そういうようなことで引っ越せない、
と酔っ払いながら言うと、弟は「あー、なんかわかる」と言っていた。
本当にわかったのかはナゾだ。
ま、それはそれとして。

そういえば、高知でのキリンの広告は「たっすいがはいかん」。
「たっすい」とはアサヒのことかと勘ぐれば、
土佐弁を知らない人も想像できるだろう。
「たっすい」とは、「へたれ」の最上級と言うべきか。
味の薄いビールはたっすい、キレよくても味はあるべし。
(て、これ、高知の日本酒やんかい。
ちなみにアサヒ派のほうが多いけど、高知)
それにしても、そこには愛がある。
悪口を悪気を持って言い切れない情けなさがある。
客の会社にて、うちの担当営業(岸和田出身)は
いつもヘコヘコしている(それは本人の元来の性質なんだが)。
こないだ、印刷でミスをした(紙がへたってしまった)営業担当に、
散々怒りをぶちまけながら、
「オマエはこないだも酔っ払って
泣きながら電話してきちょったきにゃ。
あれは夫婦ゲンカやったんかのぅ」
なんて言って救いの手を伸ばしていたんだが、
営業はさらに恐縮してヘコヘコするばかり。
その様をクライアントの社長は、
「アイツは顔はええけどたっすいにゃぁ」と
ガハハハと笑いながら蹴散らして拾っていた。

だいたいが、完璧な物をイナカもんは嫌う。
欠点を見せられない銀行マンの弟はそれを悔いていたが、
私なんぞは欠点が歩いているようなもんで、
だから高知では何かと甘えさせてもらっている。
最近では原稿の確認と言いながら高知に入り浸り、
勉強不足な介護の知識をいただきながら
酒にも浸らせてもらっている日々(もちろん営業経費)。
距離を詰めればおもしろい、てのを高知ではぜひ。
だから「カツオ」や「珍魚」では、
大阪で言う「たこ焼き」「お好み焼き」のように高知ではバカにされる。
(でもやっぱり誰もがウリにするし食べたくて食べる。
これは売上げ的にも切実な問題である。つーか、もっと複雑である)
未だに「うどん」でしか客を取れないのに
もがこうとしない高松(他にももっと広げようがあろうに)では、
同じようにいかないのが難儀である。

雨。

高松は高松で、高知は高知で忙しない。
大阪はもっと忙しいんだろうか。
今日、四国は雨。
半袖ばかりだった高知の街に、
今日は長袖が増えていた。
来週半ばほどには大阪に帰れると思います。
ていうか、そろそろ帰りたい。

2009/05/17

この数週間。





GWには、弟の彼女の両親とうちの両親とがご対面。
ついでに家族で奈良を巡った。
いいにおいのするお茶屋さんでお茶を買った。
先週は高松で、姉夫婦の散髪に付き合い、
三越の辺りをうろうろ。
散髪でぐずったタクマも風船もらってごきげん。
昨日は取材でエレタカといっしょで、
取材終わりに情報交換しながらちょっと飲んで、
飲んでいる途中で押しつけがましく写真を見せてご教授いただいた。
「子どもの写真は(限定)うまいね」と誉めてもらった。
でへへ。

この金曜には、大阪に戻っても
なかなか連絡をしない私に業を煮やして、
トロンボーン奏者アングリーアイが高松にやってきた。
相変わらずの仕事中心な精神で
ほとんどほったらかしにしてしまったけど、
ギリギリ本人は満足の様子で、
「これならいつでも来れるな」と納得して帰っていった。
ただ今は大阪にいる。
今からまた高松に戻る。
明日は高知だ。
高知に行けば、クライアントの社長が、
「どんだけ飲めるか確認しとかないかんから」と
飲みに連れて行ってくれる。
雇い主の営業部長(a.k.a.赤鼻のおんちゃん)からは
「おいおい、さすがにクライアントやから遠慮して飲めよ〜」と
嬉し気な忠告をされた。
ま、楽しみ。

クライアントのひとつでは、
今、買収がどーたらこーたら、社長交代がどーのこーのと
せっかくの企画提案も「いや、どーなるんでしょ」という状況。
でも最近、仕事がおもしろい。
雇い主とうまくコミュニケーションが取れてるからだろうし、
何より、クライアントにとっていい結果を今のところ出せているからだ。
諦めるとこはうまく整理して諦める、
妥協しないとこは踏ん張る、のバランスもようやく取れ出した。
どの仕事も、誠実にしたいと思う。
…とか思っていると、やっぱり私には、
枠を先に作ってくれるクライアントあっての仕事がやりやすいらしい。
枠とはつまり、クライアントに潜在的にある悩みであって、
設定されている枠は単なる基準で、破っても超えてもいいことがほぼ、
そういうやり取りができることは幸せだ。
で、今度、その枠を完全に取り払うために広告を出す。
初の新聞全面広告のコンペ、
勝って、もっと悩みに付き合って、利益をもたらしたい。


こないだ高松のおふくろ酒場にて、
親分から、おもむろに鞄から取り出した本の、
難解なコトバを指で示しながら読んで聞かされた。
妙に納得してしまったので抜粋。

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ピカソのキュービズムの発明は、
確かに、20世紀絵画開幕の合図であろう。
だが、彼は言う、
「我々がキュービスムを発明した時、
キュービスムを発明しようという様な意向は全くなかった。
自分等の裡にあるものが明かしただけだ」
そして、自分のうちにあるものとは、
目前に坐ったカーンワイラー氏についての意識に他ならず、
心理を探ってキュービスムを得ようという様な意向は全くなかったとも、
ピカソは言い得たであろう。
彼が、エジプトやニグロの芸術に赴いたのも、
単純に、彼等の作った現実の物へであって、
古代人や原始人の心理へではあるまい。
彼を駆り立てたものは、
趣味とか好みとかいうものでもなかったろう。
趣味も解釈も批評も、美醜でさえただやくざな言葉と化したと知った人間が、
たまたまピラミッドやニグロの仮面に出会ったと言ったほうがいい。
「内部にあるものが明かしたかったのだ」と言いながら、
ピカソが実際に行ったところは、
寧ろ内部からの決定的な脱走だったと行ったほうがいい。
ロマンティスムが育成して来た「内部にあるもの」は、
次第に肥大して、意識と無意識との対立となった。
ピカソは、そういう問題に関心を持ったが、
彼には天成の画家として関心の持ち様がなかった。
彼には見えるものしか描けやしない。
内部にあるものは考えられるだけだ。
意識と無意識とが問答する様な暇はない。
彼は絶えず見える物に向って、
外部にある物に向って行動を起すのである。
従って、そうして得られた驚くべき形象の多様は、
混乱した心理風景でもなし、任意な独白でもない。
彼が言う様に、自然は常に目前にあり、
自然を前にした仕事しか、彼は信じてはいない。
客観主義も自然主義も、自然の解釈に過ぎない。
画家が対象を見て描くとは、対象に衝突する事である。
平和も調和も去った。
恐らくはそれは自然を吾がものとなし得たという
錯覚に過ぎなかったであろう。
ピカソは、可能な限りの身振りで、
対象に激突し、彼は壊れて破片となる。
それより他に彼には自分の意識を解放する道も、
他人の意識を覚醒させる道もなかったのである。
恐らく彼は正しい。
だが、誰にも正しいと言うには、あまりに危険な道である。
模倣者は呪われるであろう。

※近代絵画(小林秀雄/新潮文庫)

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自分に自然に。
難しいことをごちゃごちゃと考えないで
反応する感情に、素直に。
人に合わせられるなら合わせて、
合わせられないところはうまくやり過ごして、
先に自分が思えたところはきちんと押したりして。
それは、「何かを作る」という実作業でもそうだけど、
そうじゃない部分でも言えると思う。