2013/03/24

雨の日が少ない。

高知に比べると、広島は雨が少ない。
高知にいるときは、雨の降らない日はなかった。
それは夏のことだ。
今はどうなのかは知らない。
ただ、ここは、雨の日が少ない。

個体数の調整をする以外に
特に発育の具合で水槽をわけることもせず、
大きさがかなりバラバラのまま育てていたメダカだったけど、
12mmほどになったメダカの中に、
3mmに満たない産まれたての赤ちゃんを混ぜておくのは
さすがにどうかという気がして、今朝、軽く分類をしてみた。
ある程度大きくなると、ヒレができてくる。
卵黄から栄養分の蓄積されていた腹がスリムになり、
尻、尾ビレまで流線型を保ったカタチになっている。
小さかったときはたくさんお尻を振らないと進めなかったのに、
大きくなると少しの力でグンと進める…のか、
動きは少し緩慢になったよう。

--

晴れ男 人の支え忘れぬ

「晴れ男」という言葉があることを知った。
そして、わたしは「晴れ男」だと人が言うのである。
そのような迷信は信じていないのだが、
絵を描きに出ると不思議と晴れた。
連載を締めくくる原風景に奈良県明日香村を選んだ。
東京を出発したときは雨だったが、着くと、やはり晴れていた。

かつてフランスを旅行した際、小林という青年が案内してくれた。
いつも前向きに物を考える人だった。
わたしが雨で困っているときでも、
「この雨は必ず晴れます」と元気づけてくれた。
あれ以来、わたしは雨にくじけないようになった。

フランス人は雨でも洗濯物を取り込まない。
雨にぬれながらでも乾かしている。
なぜかと聞いたら、聞く方がおかしいという顔をして、
「初めからぬれていたんだから」などと言う。
これは絵と関わりなく、人間の考え方として大切なことだと思った。

この連載で房総の港を描きに行ったときは雨だった。
それが数分間だけ晴れた。
雨は紙をぬらすので描くことができなくなるが、霧よりはましだ。
霧は前が見えなくなるのでどうにもならない。
しかし、たとえそうであっても
何かしら手掛かりを見つけて描くに違いない。
思うに絵は見えるものだけを描くというより、
むしろ見えないものを描くものだからだ。

あのとき利根川沿いに海に向かったが、ほとんど嵐だった。
雨の降る絵を描いたのはあれが初めてである。

オランダの美術館で雨の絵を見たことがある。
「東海道五十三次」も、庄野宿の絵は雨である。
イラストを描いている山藤章二さんが、この絵について話していた。
雨は画面にたくさんの線を描くことになるが、
すると絵になりやすいという。
なるほどそうだと思った。
そういえば、オランダで見た雨の絵も画面にたくさんの斜線があった。
(後略)

『原風景の旅(安野光雅著)』
中国新聞2013年3月22日

--

暗黙の知

(前略)
私がはじめて哲学の問題に直面したのは、
スターリンの下でのソヴィエトのイデオロギーでは、
化学の探究の正当性が認められていないということに、
私が疑問を抱いたときのことであった。
私は一九三五年にモスクワでブハーリンと交した会話を憶えている。
当時彼は、三年後に彼を待ち受けていた失脚、
追放への道を歩みかけていたとはいえ、
依然として共産党の指導的な理論家の一人であった。
私がソヴィエト・ロシアにおける純粋科学の探究について彼にたずねたとき、
彼の純粋科学は階級社会の病状の一つである、と語った。
それ自身のために探究される科学、
という概念は社会主義の下では消滅するであろう、
なぜなら科学者の関心は、進行中の五カ年計画の問題に
おのずと向けられるであろうから、と彼は語った。

独立した科学的思考活動の存在そのものにたいするこのような否定が、
こともあろうに、科学の確実さにうったえることによって
巨大な説得力を得ようとしている社会主義理論から生みだされた、
という事実に私は衝撃を受けた。
科学的見地が、科学それ自身にはいかなる場所も
あたえないような機会論的な人間観、歴史観を生みだしたように思われた。
それは思考活動にいかなる固有の力も認めようとはせず、
また、思考のための自由を求める主張に
いかなる根拠も認めようとはしなかった。

このような精神の自己犠牲が、
強い道徳的な動機によって生みだされている、ということも私は見てとった。
歴史の機械的な推移によって普遍的正義がもたらされるはずであった。
これは全人類の友好関係を達成しようとするときに、
物質的必然性だけしか信じようとはしない科学的懐疑主義である。
懐疑主義とユートピア主義とがこうして融合し、
一つの新しい懐疑主義的狂信が形成された。

そのとき私には、極端な批判的明晰さと
熱烈な道徳的両親とが不協和音を発し、
それが文明全体をおおっているように思われた。
そして、この二つのものの結合が近代の革命を口数の少ないものにし、
また、革命運動の外部の近代人を
苦悩に満ちた自己疑惑におとしいれているように思われた。
そこで私は、このような状態を生みだした根源をさぐろうと決意したのである。

探究を行った結果として、
私は人間の知識についての一つの新しい観念に到達した。
この観念からは、思考と存在にかんして、
宇宙に根ざした調和のとれた見方が生まれるように思われる。

人間の知識についてあらためて考えなおしてみよう。
人間の知識について再考するときの私の出発点は、
我々は語ることができるより
多くのことを知ることができる、という事実である。
(後略)

『暗黙知の次元』(マイケル・ポラニー著/佐藤敬三訳)

--

春休み後半の4月の第1週目には
タクマをここで預かることになったらしい。
これはなかなか、騒動になります。
タノシミ、タノシミ。

2013/03/23

しーーん。

わたしは話をするのが遅い。
しかも、結論しか言わない。説明が苦手だ。
子どものころからそうだし、今でもそうだけど、
長い台詞をひとりで回すとなると、
途中から頭の中がボンヤリとしてきて
いつになったら自分の台詞が終わるのか、眩暈がしてくる。
話の内容よりも、そっちのほうが気になってくる。
どんなに慣れている相手でも(たとえば母親が相手だったとしても)
一定以上の台詞の長さを超えると、少ししんどい。
つまり、テキトウに、ホントらしいところで
話をやめることにしようと努力してしまう。
または、話のスピードが速い人の言葉を聞き取ることは難しい。
表面的に聞き取ったとしても、相手がどの返事をほしいのかわからない。
「真実の答えを求めているワケではないこともある」
わかったのはつい最近のことだ。
私には、瞬間的に言葉を受け取り、処理をして
アウトプットする能力が欠けている。

高知市内の高校に通うことになったときも、
京都で大学生をすることになったときも、
大阪で働いているときならばなおのこと、
「しゃべるのが遅いね」または
「コミュニケーション能力が低いね」と言われた。
遅いのではない。反射神経が鈍いのだ。
でも、すなわち、「コミュニケーション能力が低い」
ということになるのだろうか? だとしたら、致し方ない。
シェイクスピアならば「ウィットに欠ける」とバカにされる役回りだろう。
指摘されればされるほどにコワバルし、一時期は本当に苦労した。
もう、できるだけ長い台詞は言わないことにしているし、
長い台詞を言わなければならない場面には行かないようにしているし、
わからない、と思う言葉に対しては、聞こえていないふりをすることに決めた。
ほとんど、開き直りの処世術である。

ここまでの私のいっさいを観察して、察してくれ、と願うしかない。

--

沈黙の言語

未知の言語の騒音の広がりは、
異邦人を(その国がその異邦人に敵意をもたぬかぎり)
甘美に保護するものとなる。
異邦人を響きの被膜でおしつつんで、
母国語を話すところから生れる疎外のいっさい、
母国語を話す人間の出身地や所属、
教養と知性と趣味の度合、見てくれと押し出しの人間像、
そういう疎外のいっさいが働きでるのを、ぴたりと耳もとで阻止してくれる。
異邦人にとって、これはなんというやすらぎであろう。
そこでは、わたしは愚行、俗悪、虚栄、社交、
日常茶飯から保護されて、へだてられている。
未知な言語ではあっても、その呼吸、感情をこめた息の出しいれ、
つまりその純粋な表徴作用は把握できるのだが、
この未知の言語は、わたしが移動してゆくにつれ、
わたしをとりまいて軽い眩暈の層をつくり、
未知の言語をつくりなす不自然な人工の空無、
わたしという異邦人にたいしてのみ形成される空無のなかに、
わたしを連れさってゆく。
いっさいの充実した意味を奪われたすきま、
そのなかに、わたしは生きることとなる。
《その国で、言葉の問題はどんなふうにして切りぬけたのですか》。
または、
《どんなふうにして大切な言葉のコミュニケイションはおこなえたのですか》。
これは実用的な質問のようには見えるが、
じつは次のようなイデオロギーに係わった断言にほかならない。
すなわち、《言葉による以外にコミュニケイションはない》。

ところが、この国(日本)にあっては、
表徴作用とおこなうものの帝国がたいへん広大で、
言葉の領域をひどく越えているため、表徴の交換(やりとり)は、
言語が不透明であるにもかかわらず、時としてその不透明そのもののおかげで、
なおまだ人を魅惑する豊饒さと活潑さと精妙さを失わないでいる。
日本では、肉体が、ヒステリーと自己陶酔をともなわずに、
純粋にエロスのみちびくままに(微妙につつましやかに、ではあるが)、
存在し、おのれを示し、行動し、おのれを与えるからである。
コミュニケイトするのは、声がするのではなくて
(この声(ヴォワ)というフランス語は人間の《権利》も意味するが)、
肉体のすべて(眼、微笑、頭髪、身ぶり、衣服)がするのである
(だが、いったい何をコミュニケイトするというのか?
わたしたちの魂を?ーー必ずやそれは美しいことだろう。
わたしたちの誠実さを? わたしたちの魅力を?)。
肉体のすべてが、あなたに話しかけている。
ただし、礼儀作法の完全な支配下にあるために、
肉体の話しかけが本来もっているはずの幼児性とか小児性とかは、
露におもてに出はしない。
会合の約束をきめるのには(手真似や略図や固有名詞などをつかって)、
おそらく一時間かかることだろう。
だが、言葉でいいあらわせるならば一瞬間ですんでしまう要件
(本質的であると同時に表徴作用をおこなわないもの)のために、
一時間にわたって異国語の相手の肉体は知られ味わわれ受けとめられ、
一時間にわたってその肉体は肉体独自の物語、
肉体独自の文章(テキスト)を(本当に終ることはなく)くりひろげるのである。

『表徴の帝国』(ロラン・バルト著/宗左近訳)
ちくま学芸文庫より

--

WOWWOWにて、オールメール、蜷川演出のシェイクスピア。
おもしろい。笑える。
優雅な貴族たちは言葉遊びを楽しんでいた。
ことあるごとに「ウィット」「ウィット」と言っている。
シェイクスピアの喜劇は洗練されている。今も新しい。

言葉でモノを定義し、伝え、転がし…。
多くの人が言うように、世界をおもしろくしたのは言葉だと思う。
ところで、かつて、ギリシアで奴隷制度が奨励されたのは、
学問を極めるための時間を確保するためだったそうだ。
妙に、キモチに「シーン」、とするものもある。
なぜだかわからない。

2013/03/18

おこがましいけれど。

喉元過ぎれば熱さを忘れる。
それはメダカも同じことか、
モケモケに広がったウィローモスに姿を隠しながら、
カラダが絡まってウィローモスの迷路から抜け出せなくなること、多々。
何度も同じことをくり返す。
あの小さな頭では、危険信号は書き加えられないのか。
でも、私(=エサをくれる人)が寄っていくと、
水面に向けてスイーッと近づいてくる。
うちにやってきたばかりの頃は、
「何やらわからない大きな生き物がきたー!」
「わー」「きゃー」といった様子で逃げ惑っていたのに。
ゲンキンなもんやね。

子メダカたちは80匹近くもいる。
過密に過ごすことを避けるために、
バケツ(といっても、小物入れのような)を5つにわけて様子を見ている。
どれも同じように土や水草を入れて、同じ水を使っているにも関わらず、
すると、あるバケツではよく死んでしまい、
あるバケツでは元気いっぱい、みたいな感じで様子が様々。
あまりにもバケツごとで個体数の差が大きくなってしまったので、
また、どのバケツも同じくらいの個体数にするために数を調整してみたら、
今日はまだ3日目だけど、みんな麗しく元気。
一体何が原因だったのだろう。

ちなみに、大きいものでは体調約9mm、
新しく生まれてしまった子が混在していて、それらは体調約3mm。
大きさの違うもの同士ではつつき合いをしない。
(というか、小さな子たちは、十分に警戒をして逃げている様子)
大きさが似たくらいのもの同士では追いかけっこに発展する。
元気なバケツでは追いかけっこが頻繁に見られた。
これらは、関係するのか??
それとも、微妙な水質の違いだったり光量だったりするのだろうか??
また少し、様子を観察してみようと思う。

--

広島城のお堀端を歩くと春の匂いがした。
鳥がさえずり、桜のつぼみは膨らんでいる。
そこかしこに生命の息吹が感じられる。
その一隅に、枝もまばらなクスノキが1本、力なく立つ。
きのう朝、樹木医が手当てした。

樹齢100年余り。
幹に残る焼け跡は67年前のもの。
厚い樹皮は1.1キロは慣れた爆心地からの熱風に耐えた。
だが反対側にある陸軍幼年学校などが燃え、
炎で「やけど」したようだ。
衰えは目立つが記憶を長く伝えてほしい。

やけどを負った被爆者の人形が原爆資料館から姿を消すらしい。
幼い頃の記憶がよみがえる。
焼けただれた皮膚を垂らして歩く子はどうなったのかと、
夜も頭から離れなかった。
市は3年後にも現物の遺品類に切り替える方針という。

人形が怖いーー。
旅行代理店アンケートにもそんな意見があった。
一方で被爆者は、現実はこんなものじゃなかったと言い続けてきた。
撤去方針は時代の変化というしかないのか。

あの日を知る人が少なくなってきた。
原爆の恐ろしさをどう伝えたらいいのだろう。
土を替え、肥料を与えられたクスノキ。
新芽を吹けば、夏には葉っぱが増える。
語らぬ木が見た光景をじっくり想像したい。

『中国新聞』2013年3月17日
「天風録」より

--

広島に移り住んで気づいたのは、「平和」への想いの大きさだった。
それは、新聞やテレビでの報道でも見られるし、
街の取り組みの一環としても見ることができる。
そうでなくても、たとえば街で掲げられている何気ない一言や
何気ない置物、花や木や何もかもに、ふと、
怒りや憤りを乗りこえて、自らがつかんできた希望の足跡を感じる瞬間がある。
能天気でも空元気でもない、生きていく、という強い足音を感じるときがある。
軽々しく、カンタンには口にしてはいけないような気がしてしまう。

母が広島出身なので、母の里帰りに合わせて、
幼い頃から原爆資料館に年に一度行った。
その度に不安で夜は眠れなくなるのでイヤだった。
なのに、あそこに掲げられている絵画や人形たちのその後が気になって
高知に戻っても図書室で原爆関連の絵本を怖々開いてしまうのだ。

2013/03/15

“いかん”ところ。

そういえば、中学を出てすぐに家を出て、
以降はずっと実家にほとんど帰っていなかったので、
数十年ぶりに実家で暮してみたら、
家族について知らなかった面が
見えたことはいちばん大きな収穫だったかもしれない。
勝手な思い込みの中で、
みんな、それぞれに完璧な生活をしていると
思っていたけどそうじゃなかった。
つまらない、バカバカしいことに悩んでいるとわかって、
少しほっとしたのだった。
ま、そうでなければ、物語は人々に喜ばれないのだけど。

うちのメダカの子があまりにも大きくならないことを心配して、
インターネットで調べてみると、
「孵化後1週間〜10日したら子メダカ用に環境を整えるべし」とあって、
水草や日光も必要だと。
それに従って、先週から日中は
日光の当たるところへ移動させることにした。

水草のことはこないだ書いたとおり。
水温の管理は重要とのこと。
1日に寒暖差が少ないほうがいいので、
頃合いをみてはベランダに出してみたり、
頃合いをみては室内に戻したり。
昨日も今日も、室内の直射日光はすこぶる暑く、
水温が28℃近くにもなっていたので
慌ててレースのカーテンを引っ張ったのだった。
水温の高い日は活動量も増えてエサをよく食べる。
昨日の夕方にエサをあげると
エサの影に反応してガラスの仕切りを必死でついばんでいた。
それはエサの影で、本当のエサは水面にあると、
彼はいつ気づいたのだろうか。

親メダカの水槽から移植した水草に卵がついていたようで、
大きな子メダカの間に、生まれたての小さな子メダカが。
新しい命は、たとえメダカであっても
楽しみな気分にさせてくれる。

--
--

好漢の遺書は具体的で短い

考えてみると、瀕死の床でふっと洩らす“最期の言葉”と、
そしてまた“遺書(状)”とは違うのである。

遺書には「書く」という行為が伴っている。
なぜ書くのか。
「書く」という動作のなかに致命的にメッセージの意識がはたらいており、
人によっては、この世への未練、こだわり、
よく思われたい、ええカッコしたい、
自分のあらまほしき姿を自分で書いておきたい、
という業のようなものが如実にあらわれる。

生死一如という言葉があるけれども、
調べさせてもらって生き方を教えられるような人物の遺書は概して、
冒頭に述べたようい簡潔で、具体的で、短い場合が多く、
こちらはその1行の奥に、彼の生と死をさぐるといったかたちになる。

“花は桜木、人は武士”のたとえもあり、
『世紀の遺書』には、桜のように散っていく気持ちを
歌った短歌を書き残した例がまことに多いが、
そのなかにたったひとつの俳句をメモして
絞首台に上がっていった青年将校がいる。

 さくらさくらと言ひて死ににけり

というのがそれ。
連綿と心や感情を歌う短歌にくらべると、
皮肉とユーモアと、余裕とやりきれなさと、
だれのために死すのか、天皇のために死すのか、
というような苦笑いも見えてきて、
私の好きな“遺書”のひとつである。

ある陸軍少将は、何か書き残せ、と米兵に言われて、わずか2行、

 妻へ。箪笥の二番目の抽斗に一枚の書類あり。××氏に返却されたし。

と書いて死んでいった。これもいい。

生と死は表裏一体であり、生のなかに死があり
死のなかに生があるとして“刻一刻”を誠実に生きている人にとっては、
あらためての“遺書”などというのは必要ないとも言えるだろう。

『知識人99人の死に方』(角川ソフィア文庫/荒俣宏監修)
「よい遺書、わるい遺書」(岩川隆著)より

--
--

そうすると、私はきっと立派な遺書など書けそうにない。
何より、ひとつ書き始めると、長々とダラダラとなってしまうし、
要するにカッコつけ、言い訳の多い人なのだ。

昨年の夏の終わりに亡くなったじいちゃんは、
自慢話は多いけど、言い訳のとても少ない人だった。
ゴミ出しすら十分にできない身体になっても、
家の中での仕事をほしがる人だった。
父も母も、じいちゃんの「自宅で死にたい」に付き合った。
いかんところがあるからりっぱなところが際立つ。
当たり前か。

2013/03/13

プライバシーはメダカにも。

けっこう、めんどくさいのであります。














近所のホームセンターでウィローモスを買って
メダカの水槽に浮かべてみたら、
水槽中をグルグルと、所在なさげに泳ぐ姿を見なくなったので、
きっと、居心地がいいのだろうと思う。
今度はミニチュアの土管を買ってきて沈めてみたら、
各々、自分の居場所を定めて留まるようになった。
ある程度の仕切りや隠れるポイントはメダカにも必要ならしい。

2月に孵化した子メダカは、ただバケツにドボンと入れて
日々の水換えをしていただけだったけど(でも、それがたいへん!)
親メダカの環境を見習って土と水草を入れてみた。
今日はちょうど1週間。
バケツ内循環ができるようになったら
水換えの量も少なくて済むし、それに、何より彼らは元気。
やっぱり子メダカにも快適な住環境は必要なようです。

--

第3の目を持つサイボーグ
「僕は頭蓋骨で色を“聴く”」

「サイボーグ財団」の本部は、
スペイン北部マタロー市郊外のビルの中にある。
財団の目的は、身体になんらかの電子装置を取り付けたいと
考えている人を支援することだ。
“インキュベーター(培養器)”と呼ばれるそのビルの一室にいま、
サイボーグのニール・ハービソンはいる。
ハービソンは、額の前にぶらさがる“第3の目”で私のことを見ている。
それは一種の電子装置で、うなじのあたりにあるチップに
オーディオケーブルでつながっており、
チップは頭蓋骨に圧力をかける仕組みになっている。
“第3の目”は、実際には「色」が放つ光の周波数を読み取るセンサーで、
その情報はチップで「音」に変換され、頭蓋骨を伝って脳に到達する。
この装置のおかげでハービソンは
他の人にはない“色を聴く”という新たな感覚を持つに至った。

どういうことか順序立てて説明しよう。
ハービソンの目に映る世界はモノクロだ。
つまり彼は、色覚異常を患っているのだ。

(中略)

私たちは腹ごなしに、マタロー市内をしばらく散歩しながら、
街の色に耳を傾けた。その後、ハービソンの自宅に向かった。
そこは真新しいワンルームの空間で、ベッドを置くロフトが付いている。
いまのところ、赤い床以外はすべて、白と黒のペンキで塗られている。
だがハービソンは今後、いい音がする色を加えていくつもりだという。
床を赤にしたのは、赤のファの音は、周波数が最も低く、
前述したように最も安らぐ音だからだ。

「完成したら“音とりどり”の部屋になる予定です。
きれいに見えるようにではなく、
きれいに聴こえるように仕上げるつもりです。
ロフトは寝室なので何も聴こえないよう、音がしないモノクロに。
それと、天井が鳴らないようにするのも重要なポイントです」
ーー扉はどうするのですか?
「緑に塗ります。出かける前には緑を聴くといいんですよ。
緑は現実を捉える感性を研ぎ澄ませてくれます。
音楽家がコンサートの前に、ラの音でチューニングするのに似ています。
緑は、赤から紫までのスケールで真ん中に位置する色なんです。
それから台所には、要所要所に紫を使います。
紫は警告色で、食べ物にはあまりない色ですから。
洗面所は多色使いにして、メロディが鳴るようにしようと思っています」

長時間ハービソンと一緒にいると、
暗示にかかりやすい人だと幻聴が聴こえてくるかもしれない。
いずれにしても、いろいろなモノがどう聴こえるのか、
訊かずにはいられなくなる。
というわけで、日が暮れると私は、
「カルフール」に連れて行ってほしいとハービソンに頼んだ。
そしてやってきた巨大スーパーの
掃除・選択用品コーナーに着いたその瞬間、ハービソンの目が輝いた。
目の前の棚には洗濯洗剤、柔軟剤、漂白剤、
ワックス、ガラスクリーナーなど、
ありとあらゆる種類の洗剤と掃除用品が並んでいた。
「見てください、見てください」
ハービソンは、洗剤の容器を手に取ってはこう叫んだ。

「ファ、ソ、ラ、それからファのシャープ……。
この液体洗剤はずいぶん低音だ。赤紫に近いバラ色ですね。
このコーナーにはすべての音が揃っているから、作曲だってできますよ。
僕がこの売り場の担当者なら、
商品を並べ替えてメロディが鳴るようにします。
スーパーは素晴らしい場所ですね。
森なんかよりずっと楽しい。森はとても退屈ですから」

乳製品とワイン売り場はほとんど音がしないので
さっさと通り過ぎ、青果売り場で立ち止まった。
不足している音がいくつかあるため、
洗剤売り場ほどではないにしろ、そこも賑やかな音がした。
「なかなかいい音色がします。
でも、青とターコイズブルーがない。僕が好きなのはナスの色です」
そう言ってハービソンはナスを一つ手に取り、
まるで近視であるかのようにじっと見つめた。
「ナスは一見、黒っぽく見えるかもしれません。
でも実際にはとても濃い紫で、ミに近いレのシャープの音がします」

スーパーを出て、私が宿泊するホテルに向かう途中、
ハービソンはこんな話をしていた。
色が見える人は、黒、白、灰色を、
実際はその色ではないのに、よくそう呼んでいる、と。
「たとえば人の肌には、白も黒もありません。
黒人の肌は、実際には暗いオレンジだし、白人の肌は薄いオレンジなんです」

『COURRiER Japon(2012 JUNE)』
「君は『スーパーヒューマン』を見たか」(Text by Juan José Millás)

--


うちのメダカは現在11匹。
ガラスのラージボールに8匹と、
小さい金魚鉢に3匹、いずれも室内。
ホームセンターで買ったヒメダカが3匹と、
メダカ専門の店(@東広島市)で買ったのが8匹。
年末ごろから産卵が始まって、
そのうちの7割ほどが孵化して80匹近くになっていたのに、
でも、センター試験が終わったころには10匹ほどに。
また産卵したので2月から育てているけど、今また80匹くらいか。

そんなに殖えてもねぇ、という気もするけど、
なんというか、育たずに死んでいくのを日々片付けるのは
やっぱりちょっと胸が締め付けられるものがある。
目指すは、極力、私が手をかけなくてもいいくらいに
水槽やバケツ内で循環する環境をつくること。
窒素やら酸素やら、なんやらかんやら、
生物の教科書はけっこう役に立っているのでした。
さて、今度はどうでしょう。

2013/03/11

3年目の正直。

高知に帰って、そろそろ3年目になる。
のらり・くらり、は、
想像していたようにあっという間だった。
逆に、ほとばしる緊張感で暮らす日々は体感時間が長いようで、
たとえば、トッパンやミーツにいた時間と
こんなに退屈な今とが同じくらいの期間だと思うと、
「え、そんなに?」と、当時の自分に時間を分けてあげたくなる。

以下、ポイ・ポイと忘備録がてら。

--
--

私は人生について深く考へる事は余り好きでない。
我々の生きている事について、
何故とか、何のためとか考へた事はない。
そのような事はなるべくそつとしておくことにしている。
深く考へることに自分の性格が堪えられるかどうかが
恐ろしいのである。

すべて私の生活はかくの如くごまかしであるので、
辻によつて責められる事が多い。

私も気の弱い事では辻と同じであつた。
二人で旅行したりする時なども列にわり込む事も
切符をごまかす事も出来なかった。
たゞ私はその気の弱い事を表面的にごまかそうと努め、
辻はそれを内面的に解決しようとしていたのだろうと思う。

(中略)

我々若い時代の者は
将来一流の人物になれる様な気がばくぜんとしている。
併しよくよく考へてみると我々は何の実に於て
万人に優れた才能を持つているのだろう。
確然だる論拠なに一つなくして
而も将来に対して途方もない希望を持つている
人生の一時期を青年時代と称するのであろうが、
この意味から云つて辻には青年時代があつたろうか。
余り頭が良すぎて自己の才能を分析しすぎたのではないか。
我々は社会の波にもまれ、自己の才能の限界を知らされ、
従つて野心のスケールのどんどん小さくなるにつれて
幻滅を感ずるのであるが、
辻はすでに限界を自分で定めて思ひ込んでしまつたのだろう。

※『星新一 一〇〇一話をつくった人』著/最相葉月
(星新一から友人への追悼文の引用)

--
--


勉強に飽きてネットをウロウロしていたら、
思わぬところで、
実家から30分〜45分ほどにある森林を思い出すことになった。




相変わらず大学受験に向けての勉強は続く。
今年もダメだったので(後期試験は受けず)、
ココロの中で設定していた「3年まで」にいよいよ突入。
今は、広島の大学にて教鞭を握ることになった母に寄生して
広島は呉にて住んでいます。
工場の煙で空気が臭い。

これからのこと、想像すると気が遠くなる。
受験のこともそうだけど、希望のところにうまく入れたとしても、
入れなかったとしても、人生はまだまだ長い。
ちゃんと空気を吸って吐いてしながら(臭いけど)、
日々機嫌よく、気長に過ごしたい。


今後は少しずつ日記をアップしてみよう。
とりあえず、今飼っているメダカのことは、
記録しておいたら何かの役に立つかも…?
(取り急ぎ、生物の実験の足しくらいには…)