2013/09/21

忘れられない言葉。

最近、どうでもいい会話の断片を思い出す。

「あんたのしゃべりが遅いのは、高知の出身やからやね」
というのは、5年以上も前に大阪で先輩に言われたことだけど、
まず最初に、「田舎でゆっくり過ごしたほうがええんちゃうか」
というステレオタイプなニュアンスが含まれているように思えて、
そのときは、なんとなくがっかりしてしまった。
思えば、かなりオーラを強く放つ先輩との会話に恐縮して、
会話にならないくらい言葉がスムーズに出てきていなかったのだろう。
その返答も「はぁ、そうですかねぇ」という冴えないものだったと記憶する。

残念ながら、高知の人はそもそも早口で語気が強い。
一人で質問して一人で解決する、という性分も
イラレなおっさんに限定されることではない。
返事の前にもうあとゼロコンマスウビョウほしいとアワアワしているうちに
するべき返事は、質問した当人に持っていかれることはよくあり、
たまにうまくできた返答は急ぎすぎて的を得なかったり、
会話の瞬発力、反射神経の乏しい私は少し疲れてしまう。
どうしてそんなに先の一手を読みながら会話ができるのかと感心する。
かなり効率的に時間短縮と情報の凝縮が行われていることに恐れ入る。

それはどこかの地域の風土ということでもないだろう。
みんなが卓球やテニスやらで会話のボールをラリーしているところを、
私の場合、いったん手で持ち、何度か握り直して手にしっくり馴染ませなければ
相手にボールをきちんと返すことができない、と言えば想像できるだろうか。
さらに、会話の相手との距離感があればあるほど、
まっすぐ取りやすいボールを返せるかが気になって仕方がない。
だから余計に、きっちり噛み合いきらずに終わるのだ。
ああ、バスケなら、どんな体勢からでも
きっちりと相手の動きに合わせた球を返せるのに。
もちろん、イナカの周辺の人たちとも
だいたいそんなふうに噛み合いきらない会話が続くので、
うちの家が(私が?)特異的である可能性も否定できない。
というか、そんなに悪びれてもいない。

それでも、先輩にとっては私が高知代表のようなもんか。
高知の気質を正確に伝えきれなかったのではないかと
双方に申し訳なく思えてくる。


「洗濯の洗剤がいっしょやと、いっしょに暮してるみたいな匂いがする」
というのは、大学時代の友だちが、
仲のよい男の子にときどき自分の洗濯機を貸している、
みたいな話の流れでたどり着いた一言だったろうと思われる。
もう10年以上も前に交された会話なのに
洗濯機に洗剤を入れるときに必ず思い出す。

“仲のよい男の子”とは、私と同じ
バスケットボールの同好会に所属していた男の子で、
そこに所属していた女の子の半分以上が彼に恋をしていた。
骨がダイレクトにどこらかしこへゴリゴリとぶつかってそうなくらいに細く、
笑うと口元の皮がよれてシワシワになる顔を見ると、
「ちゃんと食べてんの?大丈夫?生きてる?」と聞きたくなったし、
そこから放たれるぶっきらぼうな方言が、
なおのこと幸の薄さを際立たせているように思えた(実際のところは知らない)。
そういうのがハートをキュンキュンとさせていたのだろうか。
いや、みんなは私の知らない他の面を見ていたのかもしれないけれど。

そんな彼が自宅の洗濯機を使っている、という事実を告白し、
さらに追い打ちのつもりの一言を加えた彼女の想いはそっちのけで、
とにかく、当時の私の頭には、
「『洗濯物の匂いが同じ=いっしょに暮している』なら、
市販されている同じ洗剤を使う知らない人もみんな…?」
などと浮かんだ問題外の妄想が頭の中を支配して、
どんな返答をしたのかは覚えていない。
きっと、また冴えないものを返したのだろう。
私にとってはこの妄想は強烈な印象として頭にこびりつき、
以来、洗剤を見ると彼女のささやかな主張を思い出すのだった。

今ならば、これは、犬のションベンかけと同じ、
マーキングの意味が込められた言葉だとわかる。
でもそんなありがたい話を聞いておいて誠に残念なことに、
私は他人の洗濯物の匂いを分類できるほど
匂いに敏感になったことはいまだかつてない。


ふと思い出してしまう言葉は、私の場合、
特に、いい教訓やいいフレーズという格好のよろしいものではないらしい。
思いがけずいろんな考えが頭を駆け巡り、妄想の旅への引き金となったものが、
未だに浮幽霊のように心の中を漂っている。

2013/09/07

回復。

おばあちゃんが帰ってきました。

4月の頭、おばあちゃんは、
タクマが小学校に入学して早々に、
コケて頭打って、打ちどころが悪くて、
コケた3〜4日後に目が覚めなくなってしまって、
ドクターヘリで運ばれて、日赤病院で手術して、
緊急入院の後に地元の病院に入院していたけど、
いよいよ入院の期間が終わってしまって、
状態も良好やからということで帰ってきました。

日赤病院で緊急手術が施された直後にみたおばあちゃんは、
ICUで24時間体制でみなあかんということで、
お見舞いするにも予約しなきゃいけなかったし、
カラダにいっぱい管がつながっているのは
テレビ番組や人の話で見聞きしているのよりずっとショッキングだったし、
艶やかな銀色の髪の毛も全部剃られてしまっていたし、
行ってもずっと目をつぶってるだけだったし、
小さくて、弱々しくて、自分で生きているというオーラがなくて、
しかも、お母さんも、おばちゃんも、
「この症状から回復した人もおらんことはないんやき」と言っているのを聞くと、
これはもう、期待をしないほうがええんやろな、と思いました。
それでも意識が戻って、ちょっとずつ話もできるようになって、
自分の意思も伝えることができるようになりました。
でも、思い出せるのは一部分だけだったりして、
たとえば、私のことをお母さんと勘違いして、
自分の息子と私とを何度も見比べては、
見た目の年齢の違いを不審に思うらしく
「妙やね」と怪訝な顔をしたりするような感じ。

カラダはどんどん回復して、地元の病院に転院したのは6月だったと思います。
そのころにはほとんど記憶は戻っていたけど、
たとえば、私については、「お医者さんとお付き合いしゆうがやろ。
子どももできたって聞いたし」なんて、
記憶と希望が完全に融合した話をうれしそうにしていたらしい。
もっと記憶が戻って、シャンと話ができるようになっても、
去年亡くなったはずのおじいちゃんの姿が見えるような感じで
看護師さんらに「いつもおじいさんが迷惑かけて…」とか
「早く戻っちゃらな、おじいさんが困る」とか、
どうしても、おじいちゃんはもういない、というところには辿り着けない。
むしろ思い出したいことだけ思い出したらええか、と
たぶん、家族中が思っていたと思われます。
おじいちゃんへの記憶はさておき、
おばあちゃんは、私らが思っていたよりずっとしっかりと回復しました。
というか、たぶん、手術する前の状態とほとんど変わらない。
違っているのは、車いすを操れるようになったことと、
着替えやトイレやお風呂や、自分の世話をしてもらうことを
ありがたいと言って受け入れられるようになったこと。
手術する前よりもずっとサバサバと明るくなったようにも感じられます。
これは、奇跡と言っても、家族でなら受け入れられるでしょう。

この8月は、おじいちゃんの初盆でした。
おばあちゃんも一時退院して、いっしょに初盆をやりました。
おばあちゃんは、みんながお焼香を上げていく間も
車いすに身をあずけたまま、思考を閉じたように
ずっとボンヤリと祭壇を眺めていました。
お母さんやおばちゃんたちが代わりばんこで
おばあちゃんの元にお焼香の盆を持ってきちゃあ
「おばあちゃんもあげちゃって」と促しても「私はええわ」と断ってばかり。
最終的には馴染みのお坊さんが「奥さんもどうか」と言ってくれて、
そこでやっと、仕方なしにお焼香を上げたのでした。
お焼香を終わった後、おばあちゃんは涙が止まらなくなってしまいました。
その情景は、ごく少ないながらも参列してくれていた人たちの涙を誘いました。

おばあちゃんの記憶がまだ全然戻っていなかったころに、
おばちゃんたちから「おばあちゃんの写真を持ってきちゃって」と頼まれて
おばあちゃんの部屋を物色していていると、
今年の正月、亡きおじいちゃんに宛てたメモを見つけました。
そこには「今年も変わらずお守りください」とあって、
ほとんど外出もせずに、おじいちゃんとおばあちゃんが
二人でのんびりと家で、庭で、過ごしていた日々を頭に浮かべました。
もっと外に出て、いろんな人と会話したらええのにと思っていたけど、
そうして過ごした日々のせいで、
良きにつけ悪しきにつけ、二人は互いにベッタリと拠り所やったんやな、
となんだか胸が締め付けられる気分でした。
おじいちゃんがもうおらんてわかって、どんな気分やったんやろな。
でも、ようやく、完全に夢から醒めたんちゃうかな、と思いました。

一時退院中は、トイレを見守ったり、着替えを手伝ったり、
車いすやベッドに移乗するのを手伝ったり、
夜はお母さんがいっしょに寝たりしなければいけなかったり、
回復したと言っても、ひとりで放っておくことはできませんでした。
退院して自宅に戻ってきた今も、お父さんの姉や妹たちが
確執の火花をバチバチと繰り広げながら、
役割分担して(むしろ競って)みんなで目を離さないようにしているそうです。
お父さんの姉と妹との確執も、これはこれで長く深く重たいモンダイだけど、
ま、競って面倒みたいと思うんだから、幸せなことだとしましょう。
とにかく、帰ってきました。

私は、というと。
おばあちゃんの代わりにタクマの監視をするべく
またまた高知に戻ってきたのが4月の半ば。
お父さんの姉妹以外に、ヘルパーさんやらなんやらかんやらと出入りがあるので、
家には居場所がなくなってしまいました。
で、また場所をかえて、今度は高知市内で暮しています。
さすがにそろそろペースを上げて、今年こそは、
行き先を決めなければいけません。
ということで、とうとう、予備校に行き始めました。

2013/09/01

やまださん。

今、ふと思い出したので、忘れないうちにメモ。

大学時代に、私は京都のホテルの和食でアルバイトをしていた。
客の前に出られるようまでに訓練されれば着物(簡易の)を着ることができ、
しかもその着物にもランク付けがあるので、
当然ながら、アルバイトも社員も、
一番いい着物を着られるようになることに憧れるような職場だった。
春や秋などの京都の稼働率数百%の時期にもフロアは優雅。
一食一万数千円の食事に見合った料理とサービスが提供される(ていたと思う)。
でも、もちろん、一歩裏方に入れば、えーらいこっちゃ、の形相で、
洗い物に手が回らずそこらかしこにグラスや皿が散らばり、
みんなの顔は、フロアでのそれと違って、戦闘態勢に入っている。

やまださん、というおばちゃんがそこにはいた。
料理長が料亭で仕事をしていたときからずっと共に働いてきたらしい。
やまださんは、いつも調理場のカウンターの前で、
注文伝票を確認し、返される皿の様子とタイミングを見ながら
次の料理のタイミングを操作する。

たとえば、前菜、椀もの、お造りの3つはタイミングを計らない。
注文を受ければ指示を待たずに作って供される。
やまださんは、その3つが返される様子とタイミングを見て客を想像し、
それと、調理場の様子から頭の中でパパパッと計算して、
その後に予定される焼物以降のタイミングを調理場に指示をする。
通路に、ランダムに洗い物が並んでいても、
やまださんには、どれがどのテーブルのものかがきちんとわかり、
それを見て、また調理場に指示を流すのだった。

やまださんがフロアに出てくるところは見たことがない。
目安はあくまで返ってくる皿、だから、
皿が返ってこなければ心配し(あくまでクールに)、
皿に物が残っていれば不安を顔に表す(でもクールだった)。
空になった皿がスイスイといいテンポで返ってくると
肩をはずませながら忙しくしていた(ように見えた)。
やまださんの仕事がフォーマット的になることはなかった。
過剰に感情移入をすることもなく、ブレたりもしない。
だから、愛があるように見えたし、人間的に思えたし、
皿に何かを載せるわけじゃないけど
料理にきちんと緩急をつけているようで、
なんかちょっとかっこよかった。
こういったデシャップの仕事は、他のレストランや、
ちょっとランクの高い居酒屋ならば普通に見られる。
私の働いたことのある他のレストランなんかでは、
次のタイミングを計るためにフロアに出ることが必要だったけど、
フロアに出てテーブルの様子を見たところで、
大事なことは実はなんにも見えていなかったのかもしれない。
そういえば、フロアのほうがアタフタと
やまださんに客の様子を相談している場面はよくあった。

やまださんはフロアに出ないので着物は着ない。
代わりに、私たちにとっては屈辱的と思えた黒子のような制服を着ている。
他の、洗い物をしたりするパートのおばちゃんたちのように
馴れ合ったりしないし媚びたりもしない。
仕事が終ればタバコを一本だけ吸ってさっさと帰る。
いつでも化粧っけなく、それでもシャンとしてかっこいい。
初め、私も優雅に立ち回るフロアのいい着物に憧れていたけど、
4年間そこで働いていた間に、やまださんに憧れるようになっていた。

あれからもう10年以上になる。
やまださんは、まだそこで働いているのかな。
いや、京都のホテルもいろいろと再編されたりしたし、
さすがにもういないかもしれないな。