2009/11/24

土になる。

幸か不幸か、私は人の死というものを知らない。
葬儀には出たこともないし、
だから身近な人とのお別れというものが
どういうものなのか全く想像できない。
こないだ広島に行き、
じじぃに「もう来年は会えんと思う」と言われたときは
かなり胸がドキドキした。
どうやらネエちゃんの義理の母も
ガンを患って、もう危険らしい。
おかんが見舞いに行ったとき、
「私は好きなように生きさせてもらった。
息子もいいお嫁さんもろうて
もう死んでも悔いはない」と言って笑ったそうで、
また、ドキドキして動作がぎこちなくなったのだった。

子どもの頃、おかんから聞かされる話のほとんどは
そういうことばかりだったように思う。
保険師という仕事に就き、
介護の技術を携えながら老人を訪問し、
「病院行くならここで死ぬる」と言われたり
「もう長くはないんじゃき、苦労して来んでええよ」
とも言われただろう。
そんな人たちにおかんはいつも言葉を失い、
どうしていいのかわからん、と漏らしていた。
たくましくなった今のおかん、
それでも人の死ぬ話をするときはツラそうな顔をする。

ネエちゃんの義理の母の話を聞いたのはこの週末のこと。
新年を迎えられるかというようなレベルでなく、
明日やあさってを迎えられるか、というくらいの
かなり近い未来に予定されているらしい。
昨日ダンナの実家に帰っていたネエちゃん曰く、
意識はしっかりとしていて、
遺影に使うための写真を気にもしているとのこと。
今日も家族全員で集合するらしい。

縁の遠い私にとっては、
「タクマはさっちゃん(私)に一番似てるわ」と
ほがらかに笑っていたあの人が、と思うと
感情の行き場がわからない。
でも、間違っても「長生きしてね」なんて
プレッシャーは与えることがもうできない。

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昼食後、しばらく好きなように過ごしてくださいと言われ、
隣の男性が大の字になって寝転んでいるのを見て、
真似をしてみることにした。
大丈夫かなと、ちょっとビクビクしながら小枝を拾い土を掻いてみた。
枯葉を除けると、そこには思いがけず
黒々とした豊かで柔らかい土が現れた。
寝転んでみるとふんわりと暖かい。
目を閉じ耳を澄ます。
静かなようでありながら何かの息吹を感じる。
目を開いてみた。
ずーっと、ずーっと上まで枝を延ばしている木々の幹、
幾重にも重なる緑の木の葉、
差し込んでくる陽の光を受けてきらめいているもの、
蔭になりやわらかく目を守ってくれるかのように重なりあっているもの、
そしてその先の高い高いところに青空があった。
美しかった。
木の幹が、緑の葉が、
そしてそこからはるか彼方に見える空が、美しかった。
長い間見つめていた。
静かで平和だった。
下から見ると世界はこんな風に見えるのか……、
土はこうやって宇宙を見ているのだ……と始めて気がついた。
人は死んで土にかえると言うけれど、
それも悪くないな、と思えてきた。
地面から見上げる地球はこんなに美しいのだもの。
土になるとは、木々を支え、育み、
葉を茂らせ、実を結ばせる、
そして時が来ると落葉や倒木を受けとめ包みこみ、
自分の一部へと組み込んでいくこと。
寝転がって土に身を預け、森の空気に包まれていると、
土になることが、とても自然で素敵なこと、
少しも怖がることではない、と納得している自分がいた。
とても暖かく安らかな気分だった。

(土になる/文:丸本郁子/森のハナシ)

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手前味噌ながら、森林セラピーに参加された
図書館員の丸本さんの感想文を引用しました。
彼女はもう70歳と少し、
夫婦で参加され、ダンナさんのほうがガン患者でした。
少し神経質に痩せた腕と口調とで
最初、ちょっとニガテだと思ったけれど、
わからないことをわかるまでしつこく質問したり
何よりそこで一番若い私に最も興味を注いでくれた人。
最初の名札作りで、朝食で、温泉で、
私の手元を眺め、何かを学び取り、
こちらが巧くなければ助言する、という関係の人だった。
というか、こんなにも明け透けなく、瑞々しく
自分の興味に素直な人を見たことがない。

彼女が最後の日に漏らした感想は、
静かで、生き物的で、少しナミダが出ました。
生きるということも死ぬということも、
当事者であれば、案外にそんな悲しいことでもないのかもしれません。


土、とは、死んだものの積み重ねでできるもの。
それをキレイだと思えることはステキなことだと思う。

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