2008/07/25

松山に片思い。

以前、ミーツで温泉の特集をしたとき、
2泊3日で松山への旅をさせてもらったことがあった。
ネタのほとんどは地元の情報誌編集部に教えてもらったのだが、
そのうちいくつかは取材を巡りながら
ヒョイとおじゃまさせてもらった店である。
露口は、そのいわゆる飛び込みで取材させてもらった店だった。
店は今年で50周年になる。
サントリーバーを普及させるために大阪から松山へ派遣された露口さん、
今年で72歳である。
たったの一代で50年も、という店は他の街にもおそらくは存在しない。

おとといからまた、松山へ来ている。
今度は旅雑誌の連載コラムにある店データの裏を取るための取材だ。
もちろん露口もというので、無理矢理に私は仕事をもらったような感じでもある。
いくつも店を回った。
旧い店、新しい店、松山のこの小さな街に店はギュッと詰まっている。
大阪のキタやミナミなんかの都会でならわかる。
しばらくいた高松でもこの密集さはまだ実感できていない。
瀬戸内に面する今治からの小魚、京都にも出荷している鱧、
それに、有名処高知よりも水揚げ量が多いとされるカツオもと、
魚の量は「市場街」と言われている街よりも多そうだ。
さらに夏目漱石や正岡子規の愛した文学的な街に似合う
ハイカラの洋食の店も多い。
そういえば初日に行った旧いバーではタンシチューを出してもらった。
甘く炊いた玉葱、分厚いタンのレアな肉感が官能的だった。
そこでは71歳のママが立つ。
「家族連れで来られる人もおりますよ」とママは笑って言っていた。
タンシチューは、ママが三越の喫茶店に勤めていた頃、
覚えたままの味だそうだ。

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(前略)

さて、松山には、私が特にごひいきにしている瀬戸内の味「たにた」がある。

この店を女手ひとりで築きあげたのは谷田真理子さんである。
真理子さんと私は真実の姉妹のようなつきあいをしていた。

松山に「日本盛酒坊」という店があり、
そこの店長として働いていたのが真理子さんであった。
真理子さんのかたわらにお母さんのマサさんが立って、
お酌をしたり洗いものをしたり、
なにくれとなく真理子さんを助けておられる。
その母娘二代のカウンターに立つ姿が評判となり、店は大繁昌をしていた。

お子さんの龍一さんはまだヨチヨチ歩きの坊やであったのだが、
“好事魔多し”の諺どおり、店主との間がもめて、
真理子さんは「日本盛酒坊」を辞めて独立することになった。
行商をしながら苦難に耐えて、小さいながらも店を持ったのだが、
契約などの条件について無知であった真理子さんは、
すったもんだのあげく、新たな決意で二番町に季節料理の店を造った。
幸いなことに、長男の龍一さんが板前修業を終え、
幼なじみの月乃さんと結婚して店を手伝うようになっていたから鬼に金棒である。

祖母(マサ)ー母(真理子)ー嫁(月乃)と
三人三様の美しさに輝く女性がカウンターに立って、
お客さんをもてなす様は実に素晴らしかった。
(私は伊予松山女三代記という随筆を書いたほどであった)

無理がたたったのか、マサさんが倒れ浄土に迎えられた。
そのあとを追うように五十四歳の若さで真理子さんも逝った。
昭和六十二年七月である。

遺された龍一さんと月乃さんのけなげな働きぶりは涙ぐましいほどであった。
真理子さんの気配りがゆきとどいていた店だけに、
真理子さんの遺した形のない財産であるお客さんは、
日本のあちこちから寄ってくれる。

(後略)

※『おいしいもの見つけた(佐々木久子)』ミリオン書房より

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たにたにも行かせてもらった。
上の引用文は、たにたにていただいた本からだ。

昨日はいよいよ露口の取材。
超老舗のバーにて、カウンターに立つ夫婦の
子・孫の世代の客で店はいっぱいだ。
ご主人・高雄さんの「ボクは静かにちゃんと店をやりたい」のボヤきに反して
横では奥方・朝子さんの「まぁまぁ、もっと寄り添ってやろか?」の笑い声。
こんなに永く街を眺めていた店であるのに、
敷居など皆無、あくまでも街場のバー、というのがサイコーにかっこいい。
5つも先の席に座っていた紳士はなんと東京から、
「なんとなく露口に来たくなったから、出張にしたんだよ」と。
松山の街は何もかもを受け止めてくれる。
でもだからといって、グラグラとはしない。

先日、飲んでいた席で、
「品があって、色気があって、永く続くほどに味が出るのがいい」
と、女性の評をした人があった。
それをふと思い出して、松山は女性的な街なんだと理解した。
決して崩れることはなく、受け入れ、
噛みしだくほどにもっと深く知りたいと思わせる街なのだ。
生粋の高知県民が、松山に憧れてしまうのも、ご理解いただきたい。

2008/07/14

トラベラー。

帰ってくるのはツーリスト
帰ってこないかもしれないのはトラヴェラー
青春の旅はエコノミーだけどトラヴェラー
(翼の王国2003年8月号/青春のタラップを駆け上れ! より)

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それでもまだ私は青臭い。
そして流れは私をどこに持っていくのか
未だに何もわかっていない。

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三三五五、人が集まってくる。
ブドウの蔓の束を担いでくる人、風呂敷包みを抱えている人、
バッグから飛び出すほどたくさんの材料を持ってくる人。
あっという間に10人を超え、
生活工藝館の一室は、徐々に工房へと変わった。
床に円座を敷いて、好きな場所に座り、思い思いに作業を始める。

雪深い国、福島の三島町に暮らす人々は冬から春まで職人になる。
「こんなん作ってみたよ。この間とここが違う」
「いい草だねえ。色がきれいだねえ」
「ところで、お宅の孫、就職どうなった?」
「畑で大きなカブが採れたのよ」
お国言葉は難しいけれど、きっとこんなことを話しているに違いない。
おしゃべりは途切れない。
編む手も止まらない。
たまにお互い顔を見合わせて笑い合い、また、編む。

10時になって、ひとりふたりと立ち上がった。
編む手を休めて煙草を吸う。
お茶をいれる。
みかんをむいて、梅干しをつまむ。

編目は、全部記憶している。
そうして、誰かが編んだマタタビのかごは、
すました顔でわたしに買われていった。
(翼の王国2005年5月号/あむふうけい/文:鶴家桃子 より)

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高松でカタログを作り始めた。
それと同時に雑誌の取材もいくつかもらって
なんだか急に忙しい。
忙しいと、時間の取捨選択をしなければいけない。
あきらめる時間、いくつか。
やらなければいけない時間も、いくつか。
目をつぶる時間、いくつか。
見開いて物を言う時間もまた、いくつか。
結局は全てが流れのままにしかなっていないような気がする。
どこに行くのかわからないけれど、
それでもいいかと思う。


毎日をどう過ごすか。
じっくり考え事をしたり何も考えなかったり、
食べたい物を食べて、飲みたい物を飲んで、
話したいことを話したい人に話して、
観たいものを観て、聴きたいと思うものを聴いている。
流れのままにしかなっていないように見えて
実は「こうしたい」と思う以外に流れを決める術はない。
そんなことを思いながらもまた、流れていく。
それでいいと、また思ったりする。

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西江流旅の極意
一つ、当たり前の世界に勘をとぎすませること
一つ、夢と現実を区別せずに、夢を語ること
一つ、最良の学習法とは、他人に教えること
一つ、他人は宝
一つ、出発は小さな包みをつかみ、体を持ち上げ、歩きだすこと
一つ、名前だけから推測して食べ物を注文することは、ハズレが多い
一つ、自分は一つの生き物にしかすぎない
一つ、馬鹿同然のことに、馬鹿げた努力でかかわってみること
一つ、獣や鳥や虫のように“今”を生きる
(翼の王国2003年8月号/青春のタラップを駆け上れ! より)

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追記。いや、ウミちゃんへの言い訳。

しかしながらこの暑さ。
そして休みなし(土日は強制的に休みたい)、
睡眠不足(土日は強制的に眠りたい)、
今週からの旅雑誌取材&高松長期出張に備えて
週末の東京行きは断念。
原稿なんてもんを考える気分にもなれず(すまぬ)、
仕事で着るための服を買いに行き、
長期出張のための鞄を買いに行き、
『マジックアワー』を観て、
家に帰って『スジナシ』を観ておりました。
ようやく原稿に取りかかったのは4時前、終了は5時前、
なぜかブログを書いて床に着いたのでした。
起床は7時、案件のおさらいをして出発、9時から打ち合わせ。
睡眠不足は悪循環に続いております。
そして、7月中に東京に行くのはたぶん無理。
今から粉モン取材です。
とにかく食います。
いや、欲望に負けてんのが原因、あわわ…。

2008/07/04

なんじゃこりゃ。

ホルモン伝道師、ポポ氏がすげぇすげぇと言うので。
7月9日発売。

あんたら、こんなん好きなんやろ、と言われてる気分。
キモチいい。