2013/12/31

小さな気持ちの積み重ね。

振り返って。

ほとんど人と関わっていない日々なので、
身内のことや、自分の心象風景ばかりがヒマつぶしのための考え事のほとんど。
今年こそは受かりますように、だけど、行きたいとこに行けるかはちょっと自信なし。
ともかく、もうタイムリミットなので、来年はどこかの学校には行っている。

合間を縫うように思うのは、おばあちゃんの認知症のこと。
カナシイとか、サビシイとか、カワイソウとか、そういうことではなくて、
私は単なる興味の中で見ているようだ。
春に倒れて認知症の兆候が出始めたころ、
少しずついろんなことを忘れていっているようだったけど、
覚えていなくても、明るくて元気なおばあちゃんだった。

それが、この秋、足を骨折して高知市内の救急病院に入院。
認知症があるために、不意に自分で立ち上がったりするのを避けるため、
ベッドに完全に固定されてしまった。
「中国に連れて行かれる」「助けに来てくれたがやろ?」
というのは、姉がお見舞いに行くたびに懇願されたことだそうで、
姉はそのたびに、おばあちゃんに合わせて、悲劇のヒロインをなだめたという。
どうすればいいのか、わからなかったのだろう。
地元の病院に転院するときに、お医者さんの問診で、
ここはどこだと思いますか?に、「さぁ、先生はどう思われます?」
何歳ですか?の質問に、「私としては、20歳」。
地元の病院でも、拘束帯をつけられることになった。
前回入院したときには“ニコニコとしたかわいらしいおばあちゃん”として
病院のスタッフのみなさんに好かれていたようだけど、
今では一転、みなさん困っている、とのこと。
縛られることは、認知症でなくてもツライ。
でも、骨折を治すには仕方ない。
24時間、目を離さずにいる、なんて、たぶん、誰にもできないし、
なら、不意に立ち上がろうとする動きにも、気づけない。
我慢してね、としか言いようがないらしい。

20歳だと思っているワリには、近代的な建物のことや
クルマで移動していることなんかには違和感を感じていないらしい。
それこそ、心象風景や何らかの想いのようなものだけが抜け出し、
ふわりと浮いてどこかへ行っている。
で、たぶん、私の名前は知らない。
親しそうな顔で話をするけど、名前を呼ばない。
あ、こないだ、微妙なところで「おさとさん」と呼ばれた。
そんな呼ばれ方をしたことはないので、
きっと、近いところで思い出すのを断念したのだろう。
姉とそのダンナと甥、とか、父と母、とか、
セットになっていると「アタリ」を引けるようだ。
おじいちゃんが亡くなっていることは知っているのだろうか。
弟に子どもが産まれたことは知っているのだろうか。
正月には、おばあちゃんも家に帰ってくる。
長らく生活をした家ではないけど、“見知らぬ家”でもないだろう。
やっぱり、お医者さんに答えた「20歳くらい」だとしたら、
戦争が終わって、小さな子どもがワラワラといる頃なのかな。
それとも、縛られている感じ、というか印象が、
単に戦時中の想いと重なるだけだったりして。

こないだ、ラジオで「第9回日本放送文化大賞」をやっていた。
ラジオドキュメンタリーの優れた作品を讃えるもので、
去年は高知のナンチャラ商店のことをやっていた。
今年のグランプリ作品は、「介護とビートルズと」。
介護施設の施設長をしている50代の女の人が、
地元のメンバーといっしょにビートルズをカバーして、それが巡り巡って、
三越のクリスマスのキャンペーンソングになったというシンデレラストーリー。
その中で、彼女の本業、認知症の老人介護についての話になった。
「認知症の行動には、昇華しきれていない想いが現れる」
「遠回りでも、その想いを丁寧に受け止めて、安心してもらいたい」
「こんなに年をとっても、『こんなに長生きして迷惑』だなんて思わずに、
生きてきてよかった、長生きしてよかったと言わせたい」などなど。
幼い子どもを亡くした後悔を抱えている人は、
ふらりと子どもを助けに行かなきゃと出ていったりするし、
でも、辛抱強く向き合えば、認知症でも昇華させられることもある、などなど。

あー、そうか、と思うとちょっと泣けた。
身内でも、その人の人生の細部まで、
ときどきの気持ちの深いところまで、なんてわからない。
希望とか後悔は、どんなものだったんだろう。
豊かだったとか、貧しかったとか、うれしかったとか、悲しかったとか、
頭の中の片隅で想像していることの、それよりもずーっと向こうに、
ほんの些細な事柄の重層がある気がしてくる。
ま、あったとしても、ふつうの、イナカの家のハナシでしかないけれど。

2013/09/21

忘れられない言葉。

最近、どうでもいい会話の断片を思い出す。

「あんたのしゃべりが遅いのは、高知の出身やからやね」
というのは、5年以上も前に大阪で先輩に言われたことだけど、
まず最初に、「田舎でゆっくり過ごしたほうがええんちゃうか」
というステレオタイプなニュアンスが含まれているように思えて、
そのときは、なんとなくがっかりしてしまった。
思えば、かなりオーラを強く放つ先輩との会話に恐縮して、
会話にならないくらい言葉がスムーズに出てきていなかったのだろう。
その返答も「はぁ、そうですかねぇ」という冴えないものだったと記憶する。

残念ながら、高知の人はそもそも早口で語気が強い。
一人で質問して一人で解決する、という性分も
イラレなおっさんに限定されることではない。
返事の前にもうあとゼロコンマスウビョウほしいとアワアワしているうちに
するべき返事は、質問した当人に持っていかれることはよくあり、
たまにうまくできた返答は急ぎすぎて的を得なかったり、
会話の瞬発力、反射神経の乏しい私は少し疲れてしまう。
どうしてそんなに先の一手を読みながら会話ができるのかと感心する。
かなり効率的に時間短縮と情報の凝縮が行われていることに恐れ入る。

それはどこかの地域の風土ということでもないだろう。
みんなが卓球やテニスやらで会話のボールをラリーしているところを、
私の場合、いったん手で持ち、何度か握り直して手にしっくり馴染ませなければ
相手にボールをきちんと返すことができない、と言えば想像できるだろうか。
さらに、会話の相手との距離感があればあるほど、
まっすぐ取りやすいボールを返せるかが気になって仕方がない。
だから余計に、きっちり噛み合いきらずに終わるのだ。
ああ、バスケなら、どんな体勢からでも
きっちりと相手の動きに合わせた球を返せるのに。
もちろん、イナカの周辺の人たちとも
だいたいそんなふうに噛み合いきらない会話が続くので、
うちの家が(私が?)特異的である可能性も否定できない。
というか、そんなに悪びれてもいない。

それでも、先輩にとっては私が高知代表のようなもんか。
高知の気質を正確に伝えきれなかったのではないかと
双方に申し訳なく思えてくる。


「洗濯の洗剤がいっしょやと、いっしょに暮してるみたいな匂いがする」
というのは、大学時代の友だちが、
仲のよい男の子にときどき自分の洗濯機を貸している、
みたいな話の流れでたどり着いた一言だったろうと思われる。
もう10年以上も前に交された会話なのに
洗濯機に洗剤を入れるときに必ず思い出す。

“仲のよい男の子”とは、私と同じ
バスケットボールの同好会に所属していた男の子で、
そこに所属していた女の子の半分以上が彼に恋をしていた。
骨がダイレクトにどこらかしこへゴリゴリとぶつかってそうなくらいに細く、
笑うと口元の皮がよれてシワシワになる顔を見ると、
「ちゃんと食べてんの?大丈夫?生きてる?」と聞きたくなったし、
そこから放たれるぶっきらぼうな方言が、
なおのこと幸の薄さを際立たせているように思えた(実際のところは知らない)。
そういうのがハートをキュンキュンとさせていたのだろうか。
いや、みんなは私の知らない他の面を見ていたのかもしれないけれど。

そんな彼が自宅の洗濯機を使っている、という事実を告白し、
さらに追い打ちのつもりの一言を加えた彼女の想いはそっちのけで、
とにかく、当時の私の頭には、
「『洗濯物の匂いが同じ=いっしょに暮している』なら、
市販されている同じ洗剤を使う知らない人もみんな…?」
などと浮かんだ問題外の妄想が頭の中を支配して、
どんな返答をしたのかは覚えていない。
きっと、また冴えないものを返したのだろう。
私にとってはこの妄想は強烈な印象として頭にこびりつき、
以来、洗剤を見ると彼女のささやかな主張を思い出すのだった。

今ならば、これは、犬のションベンかけと同じ、
マーキングの意味が込められた言葉だとわかる。
でもそんなありがたい話を聞いておいて誠に残念なことに、
私は他人の洗濯物の匂いを分類できるほど
匂いに敏感になったことはいまだかつてない。


ふと思い出してしまう言葉は、私の場合、
特に、いい教訓やいいフレーズという格好のよろしいものではないらしい。
思いがけずいろんな考えが頭を駆け巡り、妄想の旅への引き金となったものが、
未だに浮幽霊のように心の中を漂っている。

2013/09/07

回復。

おばあちゃんが帰ってきました。

4月の頭、おばあちゃんは、
タクマが小学校に入学して早々に、
コケて頭打って、打ちどころが悪くて、
コケた3〜4日後に目が覚めなくなってしまって、
ドクターヘリで運ばれて、日赤病院で手術して、
緊急入院の後に地元の病院に入院していたけど、
いよいよ入院の期間が終わってしまって、
状態も良好やからということで帰ってきました。

日赤病院で緊急手術が施された直後にみたおばあちゃんは、
ICUで24時間体制でみなあかんということで、
お見舞いするにも予約しなきゃいけなかったし、
カラダにいっぱい管がつながっているのは
テレビ番組や人の話で見聞きしているのよりずっとショッキングだったし、
艶やかな銀色の髪の毛も全部剃られてしまっていたし、
行ってもずっと目をつぶってるだけだったし、
小さくて、弱々しくて、自分で生きているというオーラがなくて、
しかも、お母さんも、おばちゃんも、
「この症状から回復した人もおらんことはないんやき」と言っているのを聞くと、
これはもう、期待をしないほうがええんやろな、と思いました。
それでも意識が戻って、ちょっとずつ話もできるようになって、
自分の意思も伝えることができるようになりました。
でも、思い出せるのは一部分だけだったりして、
たとえば、私のことをお母さんと勘違いして、
自分の息子と私とを何度も見比べては、
見た目の年齢の違いを不審に思うらしく
「妙やね」と怪訝な顔をしたりするような感じ。

カラダはどんどん回復して、地元の病院に転院したのは6月だったと思います。
そのころにはほとんど記憶は戻っていたけど、
たとえば、私については、「お医者さんとお付き合いしゆうがやろ。
子どももできたって聞いたし」なんて、
記憶と希望が完全に融合した話をうれしそうにしていたらしい。
もっと記憶が戻って、シャンと話ができるようになっても、
去年亡くなったはずのおじいちゃんの姿が見えるような感じで
看護師さんらに「いつもおじいさんが迷惑かけて…」とか
「早く戻っちゃらな、おじいさんが困る」とか、
どうしても、おじいちゃんはもういない、というところには辿り着けない。
むしろ思い出したいことだけ思い出したらええか、と
たぶん、家族中が思っていたと思われます。
おじいちゃんへの記憶はさておき、
おばあちゃんは、私らが思っていたよりずっとしっかりと回復しました。
というか、たぶん、手術する前の状態とほとんど変わらない。
違っているのは、車いすを操れるようになったことと、
着替えやトイレやお風呂や、自分の世話をしてもらうことを
ありがたいと言って受け入れられるようになったこと。
手術する前よりもずっとサバサバと明るくなったようにも感じられます。
これは、奇跡と言っても、家族でなら受け入れられるでしょう。

この8月は、おじいちゃんの初盆でした。
おばあちゃんも一時退院して、いっしょに初盆をやりました。
おばあちゃんは、みんながお焼香を上げていく間も
車いすに身をあずけたまま、思考を閉じたように
ずっとボンヤリと祭壇を眺めていました。
お母さんやおばちゃんたちが代わりばんこで
おばあちゃんの元にお焼香の盆を持ってきちゃあ
「おばあちゃんもあげちゃって」と促しても「私はええわ」と断ってばかり。
最終的には馴染みのお坊さんが「奥さんもどうか」と言ってくれて、
そこでやっと、仕方なしにお焼香を上げたのでした。
お焼香を終わった後、おばあちゃんは涙が止まらなくなってしまいました。
その情景は、ごく少ないながらも参列してくれていた人たちの涙を誘いました。

おばあちゃんの記憶がまだ全然戻っていなかったころに、
おばちゃんたちから「おばあちゃんの写真を持ってきちゃって」と頼まれて
おばあちゃんの部屋を物色していていると、
今年の正月、亡きおじいちゃんに宛てたメモを見つけました。
そこには「今年も変わらずお守りください」とあって、
ほとんど外出もせずに、おじいちゃんとおばあちゃんが
二人でのんびりと家で、庭で、過ごしていた日々を頭に浮かべました。
もっと外に出て、いろんな人と会話したらええのにと思っていたけど、
そうして過ごした日々のせいで、
良きにつけ悪しきにつけ、二人は互いにベッタリと拠り所やったんやな、
となんだか胸が締め付けられる気分でした。
おじいちゃんがもうおらんてわかって、どんな気分やったんやろな。
でも、ようやく、完全に夢から醒めたんちゃうかな、と思いました。

一時退院中は、トイレを見守ったり、着替えを手伝ったり、
車いすやベッドに移乗するのを手伝ったり、
夜はお母さんがいっしょに寝たりしなければいけなかったり、
回復したと言っても、ひとりで放っておくことはできませんでした。
退院して自宅に戻ってきた今も、お父さんの姉や妹たちが
確執の火花をバチバチと繰り広げながら、
役割分担して(むしろ競って)みんなで目を離さないようにしているそうです。
お父さんの姉と妹との確執も、これはこれで長く深く重たいモンダイだけど、
ま、競って面倒みたいと思うんだから、幸せなことだとしましょう。
とにかく、帰ってきました。

私は、というと。
おばあちゃんの代わりにタクマの監視をするべく
またまた高知に戻ってきたのが4月の半ば。
お父さんの姉妹以外に、ヘルパーさんやらなんやらかんやらと出入りがあるので、
家には居場所がなくなってしまいました。
で、また場所をかえて、今度は高知市内で暮しています。
さすがにそろそろペースを上げて、今年こそは、
行き先を決めなければいけません。
ということで、とうとう、予備校に行き始めました。

2013/09/01

やまださん。

今、ふと思い出したので、忘れないうちにメモ。

大学時代に、私は京都のホテルの和食でアルバイトをしていた。
客の前に出られるようまでに訓練されれば着物(簡易の)を着ることができ、
しかもその着物にもランク付けがあるので、
当然ながら、アルバイトも社員も、
一番いい着物を着られるようになることに憧れるような職場だった。
春や秋などの京都の稼働率数百%の時期にもフロアは優雅。
一食一万数千円の食事に見合った料理とサービスが提供される(ていたと思う)。
でも、もちろん、一歩裏方に入れば、えーらいこっちゃ、の形相で、
洗い物に手が回らずそこらかしこにグラスや皿が散らばり、
みんなの顔は、フロアでのそれと違って、戦闘態勢に入っている。

やまださん、というおばちゃんがそこにはいた。
料理長が料亭で仕事をしていたときからずっと共に働いてきたらしい。
やまださんは、いつも調理場のカウンターの前で、
注文伝票を確認し、返される皿の様子とタイミングを見ながら
次の料理のタイミングを操作する。

たとえば、前菜、椀もの、お造りの3つはタイミングを計らない。
注文を受ければ指示を待たずに作って供される。
やまださんは、その3つが返される様子とタイミングを見て客を想像し、
それと、調理場の様子から頭の中でパパパッと計算して、
その後に予定される焼物以降のタイミングを調理場に指示をする。
通路に、ランダムに洗い物が並んでいても、
やまださんには、どれがどのテーブルのものかがきちんとわかり、
それを見て、また調理場に指示を流すのだった。

やまださんがフロアに出てくるところは見たことがない。
目安はあくまで返ってくる皿、だから、
皿が返ってこなければ心配し(あくまでクールに)、
皿に物が残っていれば不安を顔に表す(でもクールだった)。
空になった皿がスイスイといいテンポで返ってくると
肩をはずませながら忙しくしていた(ように見えた)。
やまださんの仕事がフォーマット的になることはなかった。
過剰に感情移入をすることもなく、ブレたりもしない。
だから、愛があるように見えたし、人間的に思えたし、
皿に何かを載せるわけじゃないけど
料理にきちんと緩急をつけているようで、
なんかちょっとかっこよかった。
こういったデシャップの仕事は、他のレストランや、
ちょっとランクの高い居酒屋ならば普通に見られる。
私の働いたことのある他のレストランなんかでは、
次のタイミングを計るためにフロアに出ることが必要だったけど、
フロアに出てテーブルの様子を見たところで、
大事なことは実はなんにも見えていなかったのかもしれない。
そういえば、フロアのほうがアタフタと
やまださんに客の様子を相談している場面はよくあった。

やまださんはフロアに出ないので着物は着ない。
代わりに、私たちにとっては屈辱的と思えた黒子のような制服を着ている。
他の、洗い物をしたりするパートのおばちゃんたちのように
馴れ合ったりしないし媚びたりもしない。
仕事が終ればタバコを一本だけ吸ってさっさと帰る。
いつでも化粧っけなく、それでもシャンとしてかっこいい。
初め、私も優雅に立ち回るフロアのいい着物に憧れていたけど、
4年間そこで働いていた間に、やまださんに憧れるようになっていた。

あれからもう10年以上になる。
やまださんは、まだそこで働いているのかな。
いや、京都のホテルもいろいろと再編されたりしたし、
さすがにもういないかもしれないな。

2013/04/26

登場人物。

朝ドラを観ていていつも切ない気分にさせられるのは、
主人公を巡る登場人物の入れ替わりだ。
主人公が必死で生きていればいるほどに、
振り返ったときに「もう戻らない」ことにやっと気付いてハッとする。
『あまちゃん』、サイコー。今週は観てなかったけど。
『カーネーション』は、名作だった。
るえかさんは酷評していたけど、あれはすごくドキドキした。

そういえば、必死で立ち回っていて気付いていないことはしばしばだけど、
私の周りの主要な登場人物も流れていく。
他人の人生をドラマで観ながら、その現実にふと目が止まって
いろんなことが急に愛おしくなる。
二度と戻らない今日の日を。
二度と戻らない今のこの会話を。
ココロにピンで留めておかなきゃ。
陳腐なこんな発想が急に浮かんできたのは、
今、甥のためにと家で留守番をしていて、
今日は天気がいいし、布団も干したし、シーツも洗ったし、
庭には気持ちのいい光が入っていて、そして風がちょっと寒いからだ。
こんな日はもったいなくて、いろんなことをしたくなる。
…あ、勉強しなきゃ。

--

ひとつ屋根の下で。

家を出ていった息子、「家を継ぐよ」と残った息子、そして娘。
家がある、その数だけホームドラマもある。
ひとつ屋根の下、力を合わせて、ひとつの仕事をしている、
それだけで幸せな家族を、
日本のさまざまな町で訪ねてみた。

--

おばあちゃんは、産まれてすぐにこの家に養子できた。
おじいちゃんは兄弟が多くて、それこそまだ幼かったころに
この家に養子に入ることが決まっていた。
全てはこの「西村」を引き継ぐため。
私には想像ができない。
あるとき、おばあちゃんに結婚のことを聞いたことがある。
「よくわからない。当然、そうするべきだとしか思わなかった」と言った。
それはどういう心境なのだろう。
こんなイナカの街で、特に政治的に、とかいうことでもないだろう。
でも、何年も、何十年も、いっしょに過ごした。
おじいちゃんとおばあちゃんは
炬燵でのんびりとテレビを観ていることが多かった。
そして結果として私たちが今、ここにいるし、甥も姪もできた。

お父さん夫妻がイナカに帰ってくるまでは、
前の家にお父さんの兄弟も住んでいた。
いつの日か、お父さんに家族が増え、
兄弟たちもそれぞれに生活のペースができて離れていった。
私もいつか、そうするんだろう。

--

奥さんが「これでもつまんでください」とお茶うけに
ふっくら大きい梅干しを出してくれた。
「カカアは漬物作りが趣味だから」、
囲炉裏の前でご主人の又三さんがそう話す。
つい先日も大根を500本漬けた。
もちろん店にくるお客さんに食べてもらうものだ。

「学校出て、店で仕事をするようになって45年ほどたつかな。
とはいってもこのあたりで昔から打ってるそばを、
父の時代も、そして今も同じように出しているだけ」

午前10時、開店前の店では誰もが忙しく立ち働いている。
仕事の合間をぬって娘の真弓さんと紅子さんが顔をみせてくれる。
「私、学校の先生をしてたんですが、先生のなりては他にいても、
あらきそばを継ぐのは私しかいないと思ってね。
夫の光さんは幼馴染みでエンジニアだった。
そば打って広げるとき図面をひくように測るんじゃないかっていってたの」
と長女の真弓さんが明るく笑う。

「大将もそば打って20年になるかな、
まあ、オレがきちんと粉碾くといいそば打つようになったよ、なあ、大将」
と又三さんが奥に声をかける。
「じいちゃん、ばあちゃんが上司だから大変ですよ」
といってのぞいた顔がいかにも優しげだ。

父が粉を碾き、娘婿がそばを打つ、母がそれを茹でて、娘二人がお客さんに出す。
「お客さん一人きても家族が一斉に立って動く、いいことだなあって思うよ」。

そのそばを食べた。
つなぎはなしのそばは黒々と太く、なかなかかみ切れないほど、
しかし、かみしめるほどにしみじみと味が広がる、
まるでこの家族のようなそば……。

「今月のホームドラマ ひとつ屋根の下で。」より
『翼の王国(1998年3月号)』

--


2年前、おじいちゃんの米寿のプレゼントで
おじいちゃんのこれまでの写真をまとめたフォトブックを贈った。
作っているときに、恥ずかしながら、今さらながら、
おじいちゃんの、おばあちゃんとの、
または、私の知らない誰かと過ごした人生に想いを馳せた。
私は、おじいちゃんが「おじいちゃん」であるときに生まれた。
おじいちゃんの「おじいちゃん」以外の顔なんて想像したことがなくて、
初めておじいちゃんのこれまでの人生を振り返って想像して、
少し泣きそうになったのだった。

今の家は、お父さんとお母さんの家だ。
二人が、自分たちが余生を過ごすことも考えて建てた家だ。
完成したのは、甥が産まれたのと同じ年のこと。
今、7年目になる。
このわずか7年の間でも、この家を舞台にしたホームドラマでは
登場人物がいろいろ入れ替わりをしている。
3年前なら、私が今、ここでこうしていることを想像しなかったし、
5年前なら、姉が今、ここでこうしていることを想像しなかった。
甥も同じく。
去年の夏の終わりにおじいちゃんが逝って、
おばあちゃんはおとついICUからHCUに移ることができたけど、
この家に戻ってこれるかどうかはわからない。
年齢も年齢だし、それにはたくさんの意味を含んでいる。
いつか、おじいちゃんとおばあちゃんの過ごした部屋で
他の人が過ごす日々もやってくる。
たくさんのことが変わっても、家はみているのか。

2013/04/23

同じ景色、違う景色。

おばあちゃん(私の祖母)がICUに入ってしまうことで
いくつか生じた問題がある。
私たちにとって最も大きい問題は、
甥が学校を終えて帰宅しても一人で留守番しなきゃいけないこと。
みんな働きに外に出ていて、甥はカギっ子になるしかない。
まだ小学校に入りたて、夕方まで預かってくれる教室はあるけど、
家でひとりでお留守番じゃ不安だし寂しいだろうし、ということで、
甥は親戚のお家で、おじいちゃん(私の父)の帰りを待つことになった。
ところが、いくら楽しいといっても、新しい学校生活。
それもいきなり帰る家の様子が変わってしまった。
さらに、お母さん(私の姉)も忙しい部署に配置換えになってしまって
お母さん自体に緊張感がみなぎっている。

甥は、おばあちゃんが入院して以降の1週間のうちに2回吐き、
連日のように高熱を出した。
風邪の原因、体調不良の原因は緊張と不安ではないか、と考えた
おじいちゃんとお母さんは、私に留守番してほしいと要請してきた。
こうして、私は急遽、高知の実家にいる。

--

田んぼや畑を埋めたてても数年間は土の記憶は消えないとみえる。
団地の隣は、野球グラウンドになっていたが、
いくら抜いても雑草がぐいぐい伸びるらしく、
バッタやカマキリが地面から湧いて出た。
くるぶしで雑草をかきわけて、大海原を行く小舟気分で歩いて行くと、
トビウオのように、シャチのように、昆虫が次々と弧を描いて飛び出した。
見上げれば、白やブルーの洗濯物が、団地の灰色を涼し気に包んではためいている。
1965年、できたての団地に入り、その中に作られた未来派もどきの遊び場に行くと、
自分自身が火星から降ってきたように唐突に感じられた。
道を挟んで向こう側はもう小学校で、
千人の小学生に毎日ばたばた踏まれている青い廊下が教室と教室を繋いでいる。
上履きのゴムのにおいとランドセルの革のにおいと子どもの髪の甘いにおいに、
昼になるともう一つ独特のにおいが加わり、
一度も中を覗いたことのない隣の給食センターから
魔法のスープが大量に運ばれてくる。
校庭や垣根の向こうは市役所で、南武線の踏切が見え、
線路の向こう側にある神社や農家や梨園や多摩川が外国のように遠く感じられた。

『花椿(2010年12月号)』
自分風土記(文/多和田葉子)

--


帰ってきてみると、甥は、聞いていた話と違って元気だった。
「学校、うん、楽しいよ」「ちょろいね」と。
でも、ICUに子どもは入れず、お見舞いを拒否されたことには怒っていた。
私がしばらくこっちにいると言うと、
「やったー。明日は何して遊ぼうか」とうれしそうだった。
とりあえずその日は、スーパーマリオで闘ってから、
散歩がてら山に登ってみることにした。

山と言っても、明治維新の志士・吉村寅太郎の銅像のある高台のこと。
高台に登って、戦没者の慰霊碑の裏を回れば獣道がいくつかある。
そこをズイズイと進んでいった。
人のあまり通らない獣道は、
湿り気を蓄えた落葉がしっかりと培養していてフカフカしている。
急な斜面であっても、ほとんど滑ることもなく、
むしろ歩みを進めるのが気持ちいい。
1年前なら「もうやめよーよ」と自信なさげだった甥が、
今ではむしろ先頭きってズイズイ登っていく。

この山…というか丘はあまり高くはないのだけど、遠くを見渡せて清々しい。
「ねぇねぇ、この“ゴォォォ”っていう音、何?」「川の音よ」
上に登ると、一層激しく耳を振るわす川の音。
川の姿は遠く眼下に映るのみ。

この丘の別の獣道を行けば中学校がある。
でもその獣道は封鎖されていた。
そういえば、台風か何かで崩れてしまったと言っていたかもしれない。
青い空から隠れるようにして、森に覆われた小道を行った。
たとえば、私には青いスクリーンに映る木々や葉の影絵に感じられたし、
甥には、その細かい緑にいろんなカタチがあることがおもしろく映ったらしい。
中学生のころも、この場所は、誰かといっしょにいたとしても、
見えているものはそれぞれに違うと感じられる場所だった。
見ていた景色は、当たり前に“私のもの”だった。
甥がこのままここの中学校まで行けば、同じように“甥の景色”になるのかな。
私と違う人が、そこで同じようなことを思えることは、
思えば思うほどに、想像を超えた異次元なる話へと広がっていくようだ。

--

なんとか、みんなが寂しいなんて思わずに日々を過ごせますように。

2013/04/18

家族のこと。

おばあちゃんが倒れた。
数日前に転んで頭を打っており、
それが原因で硬膜下出血となったらしい。
家族には食欲のなさ・吐き気を言っていたようだけど、
かかりつけ医には背中の痛みだけを訴えたそうだ。
叔母BとCがベッド脇にうずくまって失禁し
倒れていたおばあちゃんを早朝に発見、
救急ヘリで高知駅の近くの病院に運ばれ手術を受けた。

母と私が広島から駆けつけたときには手術は終わっていた。
ICUで完全に医師や看護師の監視下に置かれている。
病院の処置なんかが優先されるので面会には予約が必要、
面会は30分以内・1度の入室は3人までというのは、患者の無理を避けるためか。
(10人いたら、3人・3人・2人・2人とかに分かれて順に入室する。
4組合わせて30分なので、1組あたり約7分という計算になる)
面会が許されて病棟に入ったときには
おばあちゃんはクスリで眠っており、たくさんの管でつながれていた。
自慢だったキラキラと銀色に光る髪の毛は剃られ、
代わりに腫れて内出血になった傷口が痛々しい。

それでも翌日には、弱々しくも意識は戻った。
左側はちょっと不自由な様子。
右手を握ると握り返してくれた。
目を開ける気力はないようで、ずっと閉じたままだ。
話しかけるとそれに答えて口を開く。
どこにいるのかわかる?と母が尋ねると
ゆっくりと、かかりつけの病院の名をなぞった。
声は出ない。
待合室に戻って叔父や叔母と交代がてら
おばあちゃんの様子を伝えると、叔母Cはほっとして泣き崩れた。
Cはおばあちゃんの生き写しくらい似ている。
結婚をしていないし、仕事が休みのときは
ほとんどおばあちゃんといっしょにいるので
分身みたいな感じなのではないだろうか。
おばあちゃんの娘たちはアタフタしていた。
それも、病状が落ち着くと伴に落ち着きを取り戻すだろう。
おばあちゃんは、家族に愛されているなぁと思った。
母と私は広島に戻った。

3日目は、弟の家族と姉がお見舞いに行ったらしい。
その晩、叔母Aから母に連絡があった。
ほとんど苦情のような感じの内容だった。

--

子どものころ、姉とおばあちゃんは折り合いが良くなかった。
働きに出る母に、おばあちゃんは
「なんで私が子どもの面倒を見なきゃいけないの」
「なんで私が家事をしなきゃいけないの」と文句を言い、
(言っているように見えたというのが正確か)
仕事をやめるよう、母に求めた。
姉は、母を守ろうと思ったらしく、
朝、登校の前におばあちゃんと激しい口論をするのはいつもだった。
姉が口論以外でおばあちゃんと言葉を交すことはなかった。
ひょっとしたら目を合わせることもなかったかもしれない。
姉の感情は私や弟に波及した。
私はおばあちゃんの作る、大根を煮ただけの夕食も、
学校から帰ったときにくれる煎餅や饅頭も嫌い。
おばあちゃんからお小遣いをもらうのも、
飼いならされているように思えて気分が悪く、突き返したこともある。
そのうち、心配されるのも、会話をするのも、
おばあちゃんのいる空間にいるのもイヤになってくる。
おばあちゃんはいつも、
家でヒマそうにしている(ように見える)のが不快だった。
それなのに母を叱りつけることが理解できなかった。
そういうのが小学校の低学年だったころから高校で家を出るまで続いた。

「おばあちゃん」と仲良くしている家族がいるなんて想像したこともない。
むしろ、「おばあちゃん」とは、新しいものが嫌いで
聞き分けの悪い、好き嫌いの多い、頭の堅い人種だと信じていた。
弟が結婚する前、弟の奥さんとなる人と二人で飲みにいったときに
「どうしておばあちゃんと仲良くしないの」と無邪気に聞かれたときに、
初めて、私はおばあちゃんにやさしくないということに気が付いた。
だから、その筆頭で矢面に立っていた姉にとってはなおのこと、といった感じ。
私はおばあちゃんの人生を想像するよう努力することにした。
それからは多少ぎこちなさは残るけど、やさしくなれたと思う。
姉は、今はいっしょに暮らし、
心配も会話もする間柄にまで快復しているけど、
ふとしたときに嫌悪感を露にせずにいられないようだ。
少し強い口調で「干渉してほしくない」旨を訴える。
自分の息子に触れてほしくないと叫ぶ。
たぶん、それは本当に仕方がない。
本人は自分の振る舞いを自覚できない。

叔母Aから母への「苦情のような感じ」は、
姉が見舞いに来たことへの不快感を表したものだった。
「今さら罪滅ぼしをしようとしている、もう遅い」とAは言ったようだ。

くやしい。何も知らないくせに。

--

「男の友情もここまで深くなれば男色関係などあってもなくても同じことで、
男女や主従を超えたところにある美しい愛のかたちが、
雲間を出ずる月影のように、あまねく下界を照しているように見える」
本書のこの箇所を初めて読んだとき、
素直にこういうふうに思える白洲正子が妬ましいと同時に、
「嘘つき」と思った。
男色関係があったかなかったかは、ものすごく大きな違いだろう。
この人、夫以外の男とあんまりセックスしてないんじゃないか……と、
下界の私は邪推したのである。

白洲正子は夫以外の男とつきあいがなかったわけではない。
それどころか男友達のとても多い人だ。
小林秀雄、青山二郎、河上徹太郎、正宗白鳥、梅原龍三郎、
晩年は、高橋延清、河合隼雄、多田富雄などなど、広い交友があった。

女を感じさせないタイプだったのかというと、
写真を見る限りそうでもなく、
とくに小林秀雄や青山二郎と夜を徹して酒盛りした三十代後半や四十代などは、
しっとりとした色香を漂わせた美人に映っているものも少なくない。

だから当然、彼らと「何かあったのでは」と勘ぐられもした。
白洲正子は別のところで、こうも言っている。
「小林さんとか青山さんとか、何かなかったはずはないって、人は思うんだよね。
そういう考え方ってケチくさいことだ。
男女じゃなくて、人間同士の付合いってもん、あったのよ。
不倫なんてわざわざすることない、骨董だって何だって、みんな不倫だもの。
旦那ほったらかして(笑)」(月刊「太陽」1996年2月号)

白洲正子は、小林秀雄や青山二郎、河上徹太郎といった男たちが
「特別な友情で結ばれていること」を知ると、
「猛烈な嫉妬を覚え」、「どうしてもあの中に割って入りたい、
切り込んででも入ってみせる」(『いまなぜ青山二郎なのか』)と決心した。
そして彼らと、文学や骨董の師弟として、友人として、生涯つきあった。
小林は、白洲の夫の次郎とも親友で、
子供同士が結婚したので親戚にまでなった。
何かあってはそんなつきあいもできまいから何もなかったのだろうが、
いいじゃん何かあったとしても。
ともするとそういう方向に行きがちな私は、
バカにされたようでイヤな気分になった。

それが去年の暮れ、ブ男と美男をテーマにした本を書きつつ、
「美男の歴史は男色と切っても切れない関係があるなあ」などと
痛感していた折も折、本書の解説の仕事がきた。
読み返すと、「両性具有」といいながらすべて男の両性具有の話で、
女の両性具有の例は一つもない。
しかも全編、日本男色史ともいうべき一冊なのである。

これはどういうことなんだろう。

と考えつつ、彼女の対談集やら全集やらにあらためて神経を集中させると、
白洲正子を読み解く鍵が、まさに「両性具有」と「男色」にあると思えてきた。

(後略)

※『両性具有の美』(解説/大塚ひかり)

--

叔母Aにはわからなくても、おばあちゃんは、
姉のそういった行動のワケを理解してくれていると信じたい。
幼いころのイヤな思い出が、互いの内面に同じ嫌悪感を生んだだろう。
でも、その嫌悪感を補おうとする不器用な気持ちが
行為の裏に見えることもあったはずだから。
おばあちゃんは寂しがり屋さんだから、
入院している間、私たちの兄弟で唯一高知在住の姉には
ちょくちょく病院に顔を出してもらいたい。
そうしている間に、気持ちがほんの少しでも和らげば出来過ぎか。

それにしても、母方の祖父、父方の祖父と不幸続き。
やっと落ち着いて、ほっとしたころのおばあちゃんの事故。
母曰く「硬膜下出血から快復することもあるから」と。
最初に連絡をもらったときには最悪の事態も予想したけど、
どうやら快方に向かっているようでよかった。
ICUから早く脱出して、近所の病院に転院できて、
さらに、家に帰って来られたら、もっといいな。

2013/04/09

やっぱりいいや。

どうやら、イラ立ちを伴って何かを見た場合、
それは私にとってとても攻撃的なものとして映るようだ。
人間関係は鏡である、という聞き飽きた話は、
どうやら、人間関係にとどまらず、
テレビだろうが広告だろうが雑誌だろうが、
私の感じるものの印象は跳ね返って戻ってくるようだ。
つまり、フレンドリーライクに見た場合、
それは馴れ馴れしくも私に近寄ってくる。
気づいたのはもうずっと前のことだし、
「なにをそんなこと、今さら」だと思われることですね。
問題は、そんなにフレンドリーにしたいわけじゃないのに、
ニコニコしながら擦り寄るあいつらとどう付き合うか、だ。

考えることを排除して凝視する、見なかったふりをする、
表面的にだけ見てスマイルを返す、そもそも見ない、立ち去る。
答えなど出ないだろうし、
きっと波や風のように気分は変わるだろうけど、
今のところ、というか今日は「むしろ徹底的に考えながら凝視する」
というところに落ち着けたい。
しかし残念ながら、考えようとすると、
考えようという意識はスルリと抜け落ちていっていた。
おかげで知らない(または知る必要がない)のに「知っている」状態が煩わしい。
自分の意識ほど、つかみ取るのは難しいものはない。
コントロールが効くものだと思っているからこそ、だろうか。

--



Morning
It's another pure grey morning
Don't know what the day is holding
When I get uptight
And I walk right into
The path of a lightning bolt

The siren
Of an ambulance comes howling
Right through the centre of town and
No one blinks an eye
And I look up to the sky
in the path of a lightning bolt

Met her
As the angels parted for her
But she only brought me torture
But that's what happens
When it's you that's standing
In the path of a lightning bolt

Everyone I see just wants to walk
With gritted teeth
But I just stand by
And I wait my time
They say you gotta tow the line
They want the water not the wine
But when I see signs
I'll jump on that lightning bolt

And chances
People tell you not to take chances
And they tell you that there
aren't any answers
And I was starting to agree
But I awoke suddenly
In the path of a lightning bolt

And fortune
People talking all about fortune
Do you make it or does it just call you
in the blinking of an eye
Just another passer by
in the path of a lightning bolt

Everyone I see just wants to walk
With gritted teeth
But I just stand by
And I wait my time
They say you gotta tow the line
They want the water not the wine
But when I see signs
I'll jump on that lightning bolt

In silence
I was lying back gazing skyward
When the moment got shattered
i remembered what she said
And then she fled in the
path of a lightning bolt

"Lightning Bolt" by Jake Bugg

--

だから物的存在としての都市というのは、
その中にいる多様人間のそれぞれの生活の反映としてあると考えられる。
だからさしあたってどんな生活の反映として
どんな都市の物的存在があるのかという観察をしようと思う。
当然それは複合的な都市の一部分をとりだしたものだから、
その観察の中からルール(法則)を引きだし、
それによってデザインすればよいほどわれわれの町は単純なものではない。
ともかくわれわれは今都市に住んでいるし、
それは私の世界であり不思議なものだし、
いらだちでもあり静けさでもある
それについて考えはじめようということか。

コンペイトウ「見切品アメ横」
(『都市住宅』鹿島出版会、1969年11月より)

※『路上と観察をめぐる表現史ー考現学の「現在」』
 (監修/広島市現代美術館、フィルムアート社より

--

遺留品論

おねがい
とり違えないでください。
遺留品としての採集は、単にデザイン・ソースのための採集とは、
その向うむかいかた、構えかたが本質的に違いがあります。
ところでデザイン・サーヴェイなるものの方法論が、
実は現象する事物と観察者である主体とを、安直に癒着させ、
そこに現前する(物と自己との)距離意識を短絡し、
その結果デザイン・ソースとしてのストック作業から
一歩も越えきれてこないことに、
ぼくらはひどく疑問と失望とを感じています。
デザイン・サーヴェイにとって、フィールドに現象する事物を観察し、
構造付け、最終的に描き出してくれるもの、
あるいはコピーしてくるもの(結果)そのものを、
ぼくらの依って立つ都市現実である日常性の接点から改めて
そこでぼくらは問わねばならないでしょう。
実に、そうした時その地点へ向けての言及、考察を
ことごとくあいまいに保留し続けてくる
いわゆるデザイン・サーヴェイには、ぼくらは興味がないのです。

遺留品研究所「URBAN COMMITMENT」
(『都市住宅』貸間出版会、1971年7月より)


※『路上と観察をめぐる表現史ー考現学の「現在」』
 (監修/広島市現代美術館、フィルムアート社)より

--

陳腐さがしばしばウリとなる深夜のテレビ番組にでさえ、
洗練された(ような)アーティスティックな(ような)学術的な(ような)
ビジュアルでもって、実験的な(といえばかっこいいのだろうか)ものが
増殖していたりすることに、ペラペラで空しい気分を助長されてしまう。
それは、かっこいい、のか??
「ダメ出しをやめよう」なんて言いながら、
ラジオでインテリジェントな(ような)顔をして、
ふつーの人からのダメ出しを現場の声として引き出そうとする。
これは、クール、なのか??
制服違反することを「個性」と呼びながら
結局みんな同じ違反(アレンジ)をしていたことが懐かしい。
見た目にかっこよくしているつもりで、中身が何も変わっていない。
葛藤の最中の、チグハグな現れでしか、ない。
改めて「かっこいいは、むずかしいか」。
というか、かっこよくなければいけないのか??
やっぱり「かっこいいは、むずかしい」のだ。

考えていたら、ひとつのことだったものが放射状に散らばって
どんどん、どんどん、収集がつかなくなってくる。
「徹底的に考える」の風呂敷はもうたたんで、
これは自然な社会現象だと心に納めよう。
で、やっぱり、ま、いっか、なのだった。

2013/04/08

成長と退化。

うちでは、子メダカの水槽(というかバケツ)は
孵化直後〜7mmほどの産まれたての子たちを入れているヤツと
8mm〜15mmほどの大きくなった子たちを入れているヤツとで分けている。
大きくなった子たちに大人用のエサ(少し大きい)を与えてみると
すぐに食べてしまった。
大きくなった子たちの水槽に卵のついた水草を入れていたら、
いくつか孵化したチビメダカが隅っこで遠慮深く泳ぐ姿も見られたのに、
あるとき、そのチビたちがいつの間にかいなくなってしまったことがあった。
どうやら大きくなった子たちが食べてしまったらしい。
かわいそうなので、卵は他の水槽に入れることにした。
それにしても、成魚になったら、だれかもらってくれるんだろうか。
今も続々と産卵と孵化を続けるメダカに、やや青くなっている。
いつか、私の部屋はメダカの水槽で埋もれるのではないだろうか。
新しい卵が見えても、見なかったふりをしようか、
ああ、でも、見てしまったしと、しばし葛藤。
大きくなるのはいいけれど、そのことが今イチバンの心配事なのです。

そうそう、メダカの色はいつわかるのだろうと
インターネットでチコチコ調べてみたら、
生後半年ほど、とのこと(白メダカはすぐにわかるらしいが)。
うちのメダカはまだまだですね。
それにしても、遺伝子との関連や、色素が動的であることなど、
興味深い話がてんこ盛り。
よく観察してみようと心に決めて、母に「おもしろいでしょ」と報告すると、
「うちのゼミでもメダカ育ててみようかしら。
生体理解への一歩として、いいと思わない?」と言っていた。
何にせよ、引き取り手ができるのはありがたい。

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先週1週間、甥が春休みを過ごしに広島に来ていた。
会うのは半年ぶり。
たったの半年ぶりなのに、彼の中ではいろんなことが進んでいて、
たとえば、ひらがなだってスラスラ書けるし、
カタカナを書くのはまだ十分ではないけど、スラスラ読める。
最近はちょっとずつ漢字を読めるようになっていることがうれしいらしい。
「ねぇねぇ、『大きい』は読めるよ」
「『川』もわかるよ。あ、そういえば、『山』も!」
などなど、読めるものを見つけるたびに報告してくれた。
「『一』と『十』だから『千』は『いちまん』て読むんでしょ」
とほざいていたのは、かわいかったので訂正するのはまた今度にしよう。

ちっちゃかったころ競って食べていたシイタケやピーマンのことは
彼のお父さんや友だちの影響か、嫌いになってしまっていて残念だけど、
こないだまで「上手にできないから」とイヤがっていた
ボール遊びも、ジャングルジムも大好きになっていた。
「できること」が多くなって、本人は誇らしげだ。
そうそう、計算もできるようになっていてびっくりした。
もう、身支度だって、ほったらかしにしても自分でちゃんとできる。
今日、入学式。立派な小学一年生になったのです。
すべり台を逆走して、得意気なのです。
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甥は2月生まれ。
同じ学年で彼より後に生まれたのは1人とのこと。
発達目覚ましい幼児にとっては、1か月の差はけっこう大きい。
だから、4月生まれの子がもうできるようになったことが、
3月生まれの子にはちょっと難しい、ということは当然。
甥にとってもこれが難関だった。
公園で遊んでも、他の子が悠々とジャングルジムをのぼっていくのに、
まだ握力が充分でなかったりしてのぼれない。
そんなことが年少のころからなので、
カラダを動かすことに自信がなかったようだ。
やっと追いつけるようになった今は、
鬱憤を晴らすかのようにのぼりまくる。

私が小さいころ、姉と姉の同級生と河原に行ってよく遊んだ。
夏場なら泳ぐけど、泳げない時期は石投げが定番。
誰が遠くに投げられるか、飛び石は誰がキレイにできるか競争していた。
姉の同級生に対して私は小さすぎて、
うまくできないことなんか気にならなかったけど、
姉は「私は投げ方がかっこ悪い」と言ってイヤがった。
姉の誕生日は、3月30日だ。

--

「何歳まで」自治体間に幅

公衆浴場で何歳まで混浴できるのかーー。
調べてみると、都道府県ごとに年齢は異なり、
実にバラバラであることが分かりました。

公衆浴場法は、具体的な年齢を明示していません。
国は「おおむね10歳以上の男女を混浴させないこと」と
通知していますが、あくまでも目安。
都道府県がそれぞれルールを設けています。

中国地方では鳥取県は「7歳まで」、
岡山県は「9歳まで」と条例で定めています。
残る広島、山口、島根の3県は条例には明記していませんでした。

全国で、混浴できる年齢の上限が最も幼いのは「6歳まで」の京都府。
一方、香川県や北海道は「11歳まで」。
こんなにも幅があるのかと驚きました。

独自の基準を設ける銭湯もあります。
音戸温泉(広島市中区)は10年前、
混浴を制限する2通りのルールを掲げました。
一つは10歳になった。
もう一つは身長が135センチを超したらー。

吉村昌峰社長(58)は「発育には差があるから、
年齢だけでなく、身長にも目安を作った」と言います。
女性客からの要望がきっかけだったそうです。

年齢の上限を変更する自治体も出てきました。
滋賀県は1995年、子どもの発育や性への目覚めが早くなったとし
「9歳まで」から「7歳まで」に。
一方「5歳まで」だった兵庫県は2008年、
「小さい子を1人で入れるのは不安」「まだ体を洗えない」
との声を反映し「9歳まで」に引き上げました。

多様な意見を吸い上げようと、自治体も苦慮しているようです。
体の発育や心の成長には個人差があり、
子どもとの混浴に対する捉え方も人それぞれ。
線引きは難しいけれど、他の利用者を思いやる気持ちだけは
共通ルールにしたいものです。

「よろず相談室(中国新聞2013年4月7日)」(文/余村泰樹)

--

「あれ、この話、どっかで聞いたぞ」と思っていたら、
数ヶ月前、同じ話題について、ラジオでおぎやはぎが喋っていた。
子どもがいっしょだと、関係ないと決めていたいろんなことに気がつく。
たとえば、この新聞の記事にあるようなルールだったり。
他にも、甥といっしょだと歩いたことのない道を歩いたりして、
今住んでいるとこの近くには4つも公園があることを知ったし、
その先にオシャレげなカフェがちんまりとあるのを発見したし、
うん、今度、気分転換に行ってこよう。
(いや、これは、単に探究心がないだけかもしれない)

今の生活をしていると、私は出不精なんだなと確認することひしひし。
万事が面倒で、スーパーなんかの、生活に必要な買い物以外で
外と関わりを持つことに無精になっていても、
全く気にかからないし、ストレスにもならないどころか、むしろ心地よい。
甥といっしょに、広島の親戚とも遊んだのだけど、
慣れない人と会話をするのは、例え親戚でも、
私にとってはいささか疲れることだった。
よその空気を吸うことをやめると、
その回路は退化して閉じてしまうのかもしれない。
これではいけないと、気分に乗じて久しぶりに店に入ってみたり、
美術館などに行ってみたりして、外出気分を楽しんでいる。
疲れるけど、聞こえる音や見えるものや吸い込む空気が新しい。
会話が多ければ、新しい空気と古い空気を交換できた気にもなる。

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わからなければ訊けばいい

まだ終戦後といった言葉がふさわしいような、
ずいぶん昔のことになるが、
川端康成先生がこんな話をしてくれた。

外国旅行をしていると、六歳か七歳の少女が飛行機に乗っていた。
父も母も同乗していない。
知りあいもいないらしいことがわかってきた。
彼女は一人旅なのである。
父親の任地へ行くところらしい。
母親も一足先にそこへ行っていたのだろう。

川端先生は、その少女の態度が実に毅然として美しかったと言われた。
少女の一人旅に感動するというのが、いかにも川端先生らしいが、
ここにも、ひとつの礼儀作法の問題が提起されていると思う。

彼女は、おそらく、対人関係についてのエチケットなどは何も知らないだろう。
ただし、両親に、飛行機に乗っていた何か困ったことがあれば
スチュワーデスに相談すればいい、何か要求するべきことがあれば、
そのときもスチュワーデスを呼べばいいと教えられていたと思う。
エチケットというものは、実は、それだけで充分なのである。
だから、彼女は、毅然たる態度でいられたのだと思う。
その意味において、彼女は立派な社会人であった。

訊けばいいのなら、そんな簡単なことはないと誰でもが思うだろう。
その通りである。
しかし、その簡単なことが、なかなかやれないというのが実情である。

東北地方の、仙台なら仙台の青年がいて、
その土地の高校と大学を卒業して、東京で就職して、
はじめてのボーナスを貰ったとする。
『東京たべあるき地図』なんかを見て、勇躍して、
銀座の小料理店や寿司屋へ行ったとする。
行ったというだけで勇気のある行動であるが、
そこで悠々として注文するということが、むずかしい。

最初に言葉のことがある。モジモジする。オドオドする。
品書きに「いわし」と書いてあるが、
こんな店で「いわし」を注文していいものかどうか、それがわからない。
牛肉のロースのバター焼きとあるが、これは高いんじゃないだろうか。
そんなこんなで、口も体も硬直してしまう。
毅然たる態度とはほど遠いことになり、不愉快な思いをして、
つまらない散財をすることになる。

どうして、訊くことができないのだろうか。
中年の、ものわかりのよさそうな仲居を呼んで、
こういう店で食事をするのは初めてなので教えてくださいでもいいし、
あならにマカセルでもいいのではないか。

これが、寿司屋であると、もっと恐ろしい思いをする。
職人に睨みつけられているように思うし、
絶えず急かされているような気がするものである。

小料理屋へ行ったら、酒を一本頼んで、
それを飲みながら、ゆっくり考えればいい。
吸いもので一品、刺身で一品、
焼物で一品、野菜で一品というように選べばいい。
なにかを省略してもいいし、鍋物を食べたければ刺身だけにしてもいい。
それは簡単なことだと思われる。
私は、川端先生の見た六歳か七歳の少女には
それができるような気がして仕方がない。
われわれ日本人は、そういうことに不馴れであり、下手であるようだ。

いつか、ある酒場の女給を小料理屋で連れていったら、
品書きを見て、ジュースと蛤の吸物と
土瓶蒸しと赤出しとノリ茶漬けを注文した。
こっちが恥をかく。
これは全部ミズモノである。
理に適っていないし、腹が張って、
とても全部を食べられる(飲める)ものではない。
また、ある女は、コースを食べ終わったあとでテンプラを追加した。
小料理屋で、何を食べようが、何を頼もうが客の勝手である。
しかし、女なら、テンプラには、
めんどうな下拵えがいるくらいのことは知っているはずではないか。
それができるまでに時間がかかる。
他の人は食事が終っている。
間がもてない。
それに、職人には手順があって、注文を聞いてから、
どの順序で出せば客が喜ぶかということを常に考えているのである。
食事が終わる頃に、突如として、テンプラとは何事であろうか。
相手の気持ちのわからない女は、田舎者と呼ぶよりほかにない。

『礼儀作法入門(新潮文庫)』(著/山口瞳)

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あ、えらく長くなってしまった。

2013/03/24

雨の日が少ない。

高知に比べると、広島は雨が少ない。
高知にいるときは、雨の降らない日はなかった。
それは夏のことだ。
今はどうなのかは知らない。
ただ、ここは、雨の日が少ない。

個体数の調整をする以外に
特に発育の具合で水槽をわけることもせず、
大きさがかなりバラバラのまま育てていたメダカだったけど、
12mmほどになったメダカの中に、
3mmに満たない産まれたての赤ちゃんを混ぜておくのは
さすがにどうかという気がして、今朝、軽く分類をしてみた。
ある程度大きくなると、ヒレができてくる。
卵黄から栄養分の蓄積されていた腹がスリムになり、
尻、尾ビレまで流線型を保ったカタチになっている。
小さかったときはたくさんお尻を振らないと進めなかったのに、
大きくなると少しの力でグンと進める…のか、
動きは少し緩慢になったよう。

--

晴れ男 人の支え忘れぬ

「晴れ男」という言葉があることを知った。
そして、わたしは「晴れ男」だと人が言うのである。
そのような迷信は信じていないのだが、
絵を描きに出ると不思議と晴れた。
連載を締めくくる原風景に奈良県明日香村を選んだ。
東京を出発したときは雨だったが、着くと、やはり晴れていた。

かつてフランスを旅行した際、小林という青年が案内してくれた。
いつも前向きに物を考える人だった。
わたしが雨で困っているときでも、
「この雨は必ず晴れます」と元気づけてくれた。
あれ以来、わたしは雨にくじけないようになった。

フランス人は雨でも洗濯物を取り込まない。
雨にぬれながらでも乾かしている。
なぜかと聞いたら、聞く方がおかしいという顔をして、
「初めからぬれていたんだから」などと言う。
これは絵と関わりなく、人間の考え方として大切なことだと思った。

この連載で房総の港を描きに行ったときは雨だった。
それが数分間だけ晴れた。
雨は紙をぬらすので描くことができなくなるが、霧よりはましだ。
霧は前が見えなくなるのでどうにもならない。
しかし、たとえそうであっても
何かしら手掛かりを見つけて描くに違いない。
思うに絵は見えるものだけを描くというより、
むしろ見えないものを描くものだからだ。

あのとき利根川沿いに海に向かったが、ほとんど嵐だった。
雨の降る絵を描いたのはあれが初めてである。

オランダの美術館で雨の絵を見たことがある。
「東海道五十三次」も、庄野宿の絵は雨である。
イラストを描いている山藤章二さんが、この絵について話していた。
雨は画面にたくさんの線を描くことになるが、
すると絵になりやすいという。
なるほどそうだと思った。
そういえば、オランダで見た雨の絵も画面にたくさんの斜線があった。
(後略)

『原風景の旅(安野光雅著)』
中国新聞2013年3月22日

--

暗黙の知

(前略)
私がはじめて哲学の問題に直面したのは、
スターリンの下でのソヴィエトのイデオロギーでは、
化学の探究の正当性が認められていないということに、
私が疑問を抱いたときのことであった。
私は一九三五年にモスクワでブハーリンと交した会話を憶えている。
当時彼は、三年後に彼を待ち受けていた失脚、
追放への道を歩みかけていたとはいえ、
依然として共産党の指導的な理論家の一人であった。
私がソヴィエト・ロシアにおける純粋科学の探究について彼にたずねたとき、
彼の純粋科学は階級社会の病状の一つである、と語った。
それ自身のために探究される科学、
という概念は社会主義の下では消滅するであろう、
なぜなら科学者の関心は、進行中の五カ年計画の問題に
おのずと向けられるであろうから、と彼は語った。

独立した科学的思考活動の存在そのものにたいするこのような否定が、
こともあろうに、科学の確実さにうったえることによって
巨大な説得力を得ようとしている社会主義理論から生みだされた、
という事実に私は衝撃を受けた。
科学的見地が、科学それ自身にはいかなる場所も
あたえないような機会論的な人間観、歴史観を生みだしたように思われた。
それは思考活動にいかなる固有の力も認めようとはせず、
また、思考のための自由を求める主張に
いかなる根拠も認めようとはしなかった。

このような精神の自己犠牲が、
強い道徳的な動機によって生みだされている、ということも私は見てとった。
歴史の機械的な推移によって普遍的正義がもたらされるはずであった。
これは全人類の友好関係を達成しようとするときに、
物質的必然性だけしか信じようとはしない科学的懐疑主義である。
懐疑主義とユートピア主義とがこうして融合し、
一つの新しい懐疑主義的狂信が形成された。

そのとき私には、極端な批判的明晰さと
熱烈な道徳的両親とが不協和音を発し、
それが文明全体をおおっているように思われた。
そして、この二つのものの結合が近代の革命を口数の少ないものにし、
また、革命運動の外部の近代人を
苦悩に満ちた自己疑惑におとしいれているように思われた。
そこで私は、このような状態を生みだした根源をさぐろうと決意したのである。

探究を行った結果として、
私は人間の知識についての一つの新しい観念に到達した。
この観念からは、思考と存在にかんして、
宇宙に根ざした調和のとれた見方が生まれるように思われる。

人間の知識についてあらためて考えなおしてみよう。
人間の知識について再考するときの私の出発点は、
我々は語ることができるより
多くのことを知ることができる、という事実である。
(後略)

『暗黙知の次元』(マイケル・ポラニー著/佐藤敬三訳)

--

春休み後半の4月の第1週目には
タクマをここで預かることになったらしい。
これはなかなか、騒動になります。
タノシミ、タノシミ。

2013/03/23

しーーん。

わたしは話をするのが遅い。
しかも、結論しか言わない。説明が苦手だ。
子どものころからそうだし、今でもそうだけど、
長い台詞をひとりで回すとなると、
途中から頭の中がボンヤリとしてきて
いつになったら自分の台詞が終わるのか、眩暈がしてくる。
話の内容よりも、そっちのほうが気になってくる。
どんなに慣れている相手でも(たとえば母親が相手だったとしても)
一定以上の台詞の長さを超えると、少ししんどい。
つまり、テキトウに、ホントらしいところで
話をやめることにしようと努力してしまう。
または、話のスピードが速い人の言葉を聞き取ることは難しい。
表面的に聞き取ったとしても、相手がどの返事をほしいのかわからない。
「真実の答えを求めているワケではないこともある」
わかったのはつい最近のことだ。
私には、瞬間的に言葉を受け取り、処理をして
アウトプットする能力が欠けている。

高知市内の高校に通うことになったときも、
京都で大学生をすることになったときも、
大阪で働いているときならばなおのこと、
「しゃべるのが遅いね」または
「コミュニケーション能力が低いね」と言われた。
遅いのではない。反射神経が鈍いのだ。
でも、すなわち、「コミュニケーション能力が低い」
ということになるのだろうか? だとしたら、致し方ない。
シェイクスピアならば「ウィットに欠ける」とバカにされる役回りだろう。
指摘されればされるほどにコワバルし、一時期は本当に苦労した。
もう、できるだけ長い台詞は言わないことにしているし、
長い台詞を言わなければならない場面には行かないようにしているし、
わからない、と思う言葉に対しては、聞こえていないふりをすることに決めた。
ほとんど、開き直りの処世術である。

ここまでの私のいっさいを観察して、察してくれ、と願うしかない。

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沈黙の言語

未知の言語の騒音の広がりは、
異邦人を(その国がその異邦人に敵意をもたぬかぎり)
甘美に保護するものとなる。
異邦人を響きの被膜でおしつつんで、
母国語を話すところから生れる疎外のいっさい、
母国語を話す人間の出身地や所属、
教養と知性と趣味の度合、見てくれと押し出しの人間像、
そういう疎外のいっさいが働きでるのを、ぴたりと耳もとで阻止してくれる。
異邦人にとって、これはなんというやすらぎであろう。
そこでは、わたしは愚行、俗悪、虚栄、社交、
日常茶飯から保護されて、へだてられている。
未知な言語ではあっても、その呼吸、感情をこめた息の出しいれ、
つまりその純粋な表徴作用は把握できるのだが、
この未知の言語は、わたしが移動してゆくにつれ、
わたしをとりまいて軽い眩暈の層をつくり、
未知の言語をつくりなす不自然な人工の空無、
わたしという異邦人にたいしてのみ形成される空無のなかに、
わたしを連れさってゆく。
いっさいの充実した意味を奪われたすきま、
そのなかに、わたしは生きることとなる。
《その国で、言葉の問題はどんなふうにして切りぬけたのですか》。
または、
《どんなふうにして大切な言葉のコミュニケイションはおこなえたのですか》。
これは実用的な質問のようには見えるが、
じつは次のようなイデオロギーに係わった断言にほかならない。
すなわち、《言葉による以外にコミュニケイションはない》。

ところが、この国(日本)にあっては、
表徴作用とおこなうものの帝国がたいへん広大で、
言葉の領域をひどく越えているため、表徴の交換(やりとり)は、
言語が不透明であるにもかかわらず、時としてその不透明そのもののおかげで、
なおまだ人を魅惑する豊饒さと活潑さと精妙さを失わないでいる。
日本では、肉体が、ヒステリーと自己陶酔をともなわずに、
純粋にエロスのみちびくままに(微妙につつましやかに、ではあるが)、
存在し、おのれを示し、行動し、おのれを与えるからである。
コミュニケイトするのは、声がするのではなくて
(この声(ヴォワ)というフランス語は人間の《権利》も意味するが)、
肉体のすべて(眼、微笑、頭髪、身ぶり、衣服)がするのである
(だが、いったい何をコミュニケイトするというのか?
わたしたちの魂を?ーー必ずやそれは美しいことだろう。
わたしたちの誠実さを? わたしたちの魅力を?)。
肉体のすべてが、あなたに話しかけている。
ただし、礼儀作法の完全な支配下にあるために、
肉体の話しかけが本来もっているはずの幼児性とか小児性とかは、
露におもてに出はしない。
会合の約束をきめるのには(手真似や略図や固有名詞などをつかって)、
おそらく一時間かかることだろう。
だが、言葉でいいあらわせるならば一瞬間ですんでしまう要件
(本質的であると同時に表徴作用をおこなわないもの)のために、
一時間にわたって異国語の相手の肉体は知られ味わわれ受けとめられ、
一時間にわたってその肉体は肉体独自の物語、
肉体独自の文章(テキスト)を(本当に終ることはなく)くりひろげるのである。

『表徴の帝国』(ロラン・バルト著/宗左近訳)
ちくま学芸文庫より

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WOWWOWにて、オールメール、蜷川演出のシェイクスピア。
おもしろい。笑える。
優雅な貴族たちは言葉遊びを楽しんでいた。
ことあるごとに「ウィット」「ウィット」と言っている。
シェイクスピアの喜劇は洗練されている。今も新しい。

言葉でモノを定義し、伝え、転がし…。
多くの人が言うように、世界をおもしろくしたのは言葉だと思う。
ところで、かつて、ギリシアで奴隷制度が奨励されたのは、
学問を極めるための時間を確保するためだったそうだ。
妙に、キモチに「シーン」、とするものもある。
なぜだかわからない。

2013/03/18

おこがましいけれど。

喉元過ぎれば熱さを忘れる。
それはメダカも同じことか、
モケモケに広がったウィローモスに姿を隠しながら、
カラダが絡まってウィローモスの迷路から抜け出せなくなること、多々。
何度も同じことをくり返す。
あの小さな頭では、危険信号は書き加えられないのか。
でも、私(=エサをくれる人)が寄っていくと、
水面に向けてスイーッと近づいてくる。
うちにやってきたばかりの頃は、
「何やらわからない大きな生き物がきたー!」
「わー」「きゃー」といった様子で逃げ惑っていたのに。
ゲンキンなもんやね。

子メダカたちは80匹近くもいる。
過密に過ごすことを避けるために、
バケツ(といっても、小物入れのような)を5つにわけて様子を見ている。
どれも同じように土や水草を入れて、同じ水を使っているにも関わらず、
すると、あるバケツではよく死んでしまい、
あるバケツでは元気いっぱい、みたいな感じで様子が様々。
あまりにもバケツごとで個体数の差が大きくなってしまったので、
また、どのバケツも同じくらいの個体数にするために数を調整してみたら、
今日はまだ3日目だけど、みんな麗しく元気。
一体何が原因だったのだろう。

ちなみに、大きいものでは体調約9mm、
新しく生まれてしまった子が混在していて、それらは体調約3mm。
大きさの違うもの同士ではつつき合いをしない。
(というか、小さな子たちは、十分に警戒をして逃げている様子)
大きさが似たくらいのもの同士では追いかけっこに発展する。
元気なバケツでは追いかけっこが頻繁に見られた。
これらは、関係するのか??
それとも、微妙な水質の違いだったり光量だったりするのだろうか??
また少し、様子を観察してみようと思う。

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広島城のお堀端を歩くと春の匂いがした。
鳥がさえずり、桜のつぼみは膨らんでいる。
そこかしこに生命の息吹が感じられる。
その一隅に、枝もまばらなクスノキが1本、力なく立つ。
きのう朝、樹木医が手当てした。

樹齢100年余り。
幹に残る焼け跡は67年前のもの。
厚い樹皮は1.1キロは慣れた爆心地からの熱風に耐えた。
だが反対側にある陸軍幼年学校などが燃え、
炎で「やけど」したようだ。
衰えは目立つが記憶を長く伝えてほしい。

やけどを負った被爆者の人形が原爆資料館から姿を消すらしい。
幼い頃の記憶がよみがえる。
焼けただれた皮膚を垂らして歩く子はどうなったのかと、
夜も頭から離れなかった。
市は3年後にも現物の遺品類に切り替える方針という。

人形が怖いーー。
旅行代理店アンケートにもそんな意見があった。
一方で被爆者は、現実はこんなものじゃなかったと言い続けてきた。
撤去方針は時代の変化というしかないのか。

あの日を知る人が少なくなってきた。
原爆の恐ろしさをどう伝えたらいいのだろう。
土を替え、肥料を与えられたクスノキ。
新芽を吹けば、夏には葉っぱが増える。
語らぬ木が見た光景をじっくり想像したい。

『中国新聞』2013年3月17日
「天風録」より

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広島に移り住んで気づいたのは、「平和」への想いの大きさだった。
それは、新聞やテレビでの報道でも見られるし、
街の取り組みの一環としても見ることができる。
そうでなくても、たとえば街で掲げられている何気ない一言や
何気ない置物、花や木や何もかもに、ふと、
怒りや憤りを乗りこえて、自らがつかんできた希望の足跡を感じる瞬間がある。
能天気でも空元気でもない、生きていく、という強い足音を感じるときがある。
軽々しく、カンタンには口にしてはいけないような気がしてしまう。

母が広島出身なので、母の里帰りに合わせて、
幼い頃から原爆資料館に年に一度行った。
その度に不安で夜は眠れなくなるのでイヤだった。
なのに、あそこに掲げられている絵画や人形たちのその後が気になって
高知に戻っても図書室で原爆関連の絵本を怖々開いてしまうのだ。

2013/03/15

“いかん”ところ。

そういえば、中学を出てすぐに家を出て、
以降はずっと実家にほとんど帰っていなかったので、
数十年ぶりに実家で暮してみたら、
家族について知らなかった面が
見えたことはいちばん大きな収穫だったかもしれない。
勝手な思い込みの中で、
みんな、それぞれに完璧な生活をしていると
思っていたけどそうじゃなかった。
つまらない、バカバカしいことに悩んでいるとわかって、
少しほっとしたのだった。
ま、そうでなければ、物語は人々に喜ばれないのだけど。

うちのメダカの子があまりにも大きくならないことを心配して、
インターネットで調べてみると、
「孵化後1週間〜10日したら子メダカ用に環境を整えるべし」とあって、
水草や日光も必要だと。
それに従って、先週から日中は
日光の当たるところへ移動させることにした。

水草のことはこないだ書いたとおり。
水温の管理は重要とのこと。
1日に寒暖差が少ないほうがいいので、
頃合いをみてはベランダに出してみたり、
頃合いをみては室内に戻したり。
昨日も今日も、室内の直射日光はすこぶる暑く、
水温が28℃近くにもなっていたので
慌ててレースのカーテンを引っ張ったのだった。
水温の高い日は活動量も増えてエサをよく食べる。
昨日の夕方にエサをあげると
エサの影に反応してガラスの仕切りを必死でついばんでいた。
それはエサの影で、本当のエサは水面にあると、
彼はいつ気づいたのだろうか。

親メダカの水槽から移植した水草に卵がついていたようで、
大きな子メダカの間に、生まれたての小さな子メダカが。
新しい命は、たとえメダカであっても
楽しみな気分にさせてくれる。

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好漢の遺書は具体的で短い

考えてみると、瀕死の床でふっと洩らす“最期の言葉”と、
そしてまた“遺書(状)”とは違うのである。

遺書には「書く」という行為が伴っている。
なぜ書くのか。
「書く」という動作のなかに致命的にメッセージの意識がはたらいており、
人によっては、この世への未練、こだわり、
よく思われたい、ええカッコしたい、
自分のあらまほしき姿を自分で書いておきたい、
という業のようなものが如実にあらわれる。

生死一如という言葉があるけれども、
調べさせてもらって生き方を教えられるような人物の遺書は概して、
冒頭に述べたようい簡潔で、具体的で、短い場合が多く、
こちらはその1行の奥に、彼の生と死をさぐるといったかたちになる。

“花は桜木、人は武士”のたとえもあり、
『世紀の遺書』には、桜のように散っていく気持ちを
歌った短歌を書き残した例がまことに多いが、
そのなかにたったひとつの俳句をメモして
絞首台に上がっていった青年将校がいる。

 さくらさくらと言ひて死ににけり

というのがそれ。
連綿と心や感情を歌う短歌にくらべると、
皮肉とユーモアと、余裕とやりきれなさと、
だれのために死すのか、天皇のために死すのか、
というような苦笑いも見えてきて、
私の好きな“遺書”のひとつである。

ある陸軍少将は、何か書き残せ、と米兵に言われて、わずか2行、

 妻へ。箪笥の二番目の抽斗に一枚の書類あり。××氏に返却されたし。

と書いて死んでいった。これもいい。

生と死は表裏一体であり、生のなかに死があり
死のなかに生があるとして“刻一刻”を誠実に生きている人にとっては、
あらためての“遺書”などというのは必要ないとも言えるだろう。

『知識人99人の死に方』(角川ソフィア文庫/荒俣宏監修)
「よい遺書、わるい遺書」(岩川隆著)より

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そうすると、私はきっと立派な遺書など書けそうにない。
何より、ひとつ書き始めると、長々とダラダラとなってしまうし、
要するにカッコつけ、言い訳の多い人なのだ。

昨年の夏の終わりに亡くなったじいちゃんは、
自慢話は多いけど、言い訳のとても少ない人だった。
ゴミ出しすら十分にできない身体になっても、
家の中での仕事をほしがる人だった。
父も母も、じいちゃんの「自宅で死にたい」に付き合った。
いかんところがあるからりっぱなところが際立つ。
当たり前か。

2013/03/13

プライバシーはメダカにも。

けっこう、めんどくさいのであります。














近所のホームセンターでウィローモスを買って
メダカの水槽に浮かべてみたら、
水槽中をグルグルと、所在なさげに泳ぐ姿を見なくなったので、
きっと、居心地がいいのだろうと思う。
今度はミニチュアの土管を買ってきて沈めてみたら、
各々、自分の居場所を定めて留まるようになった。
ある程度の仕切りや隠れるポイントはメダカにも必要ならしい。

2月に孵化した子メダカは、ただバケツにドボンと入れて
日々の水換えをしていただけだったけど(でも、それがたいへん!)
親メダカの環境を見習って土と水草を入れてみた。
今日はちょうど1週間。
バケツ内循環ができるようになったら
水換えの量も少なくて済むし、それに、何より彼らは元気。
やっぱり子メダカにも快適な住環境は必要なようです。

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第3の目を持つサイボーグ
「僕は頭蓋骨で色を“聴く”」

「サイボーグ財団」の本部は、
スペイン北部マタロー市郊外のビルの中にある。
財団の目的は、身体になんらかの電子装置を取り付けたいと
考えている人を支援することだ。
“インキュベーター(培養器)”と呼ばれるそのビルの一室にいま、
サイボーグのニール・ハービソンはいる。
ハービソンは、額の前にぶらさがる“第3の目”で私のことを見ている。
それは一種の電子装置で、うなじのあたりにあるチップに
オーディオケーブルでつながっており、
チップは頭蓋骨に圧力をかける仕組みになっている。
“第3の目”は、実際には「色」が放つ光の周波数を読み取るセンサーで、
その情報はチップで「音」に変換され、頭蓋骨を伝って脳に到達する。
この装置のおかげでハービソンは
他の人にはない“色を聴く”という新たな感覚を持つに至った。

どういうことか順序立てて説明しよう。
ハービソンの目に映る世界はモノクロだ。
つまり彼は、色覚異常を患っているのだ。

(中略)

私たちは腹ごなしに、マタロー市内をしばらく散歩しながら、
街の色に耳を傾けた。その後、ハービソンの自宅に向かった。
そこは真新しいワンルームの空間で、ベッドを置くロフトが付いている。
いまのところ、赤い床以外はすべて、白と黒のペンキで塗られている。
だがハービソンは今後、いい音がする色を加えていくつもりだという。
床を赤にしたのは、赤のファの音は、周波数が最も低く、
前述したように最も安らぐ音だからだ。

「完成したら“音とりどり”の部屋になる予定です。
きれいに見えるようにではなく、
きれいに聴こえるように仕上げるつもりです。
ロフトは寝室なので何も聴こえないよう、音がしないモノクロに。
それと、天井が鳴らないようにするのも重要なポイントです」
ーー扉はどうするのですか?
「緑に塗ります。出かける前には緑を聴くといいんですよ。
緑は現実を捉える感性を研ぎ澄ませてくれます。
音楽家がコンサートの前に、ラの音でチューニングするのに似ています。
緑は、赤から紫までのスケールで真ん中に位置する色なんです。
それから台所には、要所要所に紫を使います。
紫は警告色で、食べ物にはあまりない色ですから。
洗面所は多色使いにして、メロディが鳴るようにしようと思っています」

長時間ハービソンと一緒にいると、
暗示にかかりやすい人だと幻聴が聴こえてくるかもしれない。
いずれにしても、いろいろなモノがどう聴こえるのか、
訊かずにはいられなくなる。
というわけで、日が暮れると私は、
「カルフール」に連れて行ってほしいとハービソンに頼んだ。
そしてやってきた巨大スーパーの
掃除・選択用品コーナーに着いたその瞬間、ハービソンの目が輝いた。
目の前の棚には洗濯洗剤、柔軟剤、漂白剤、
ワックス、ガラスクリーナーなど、
ありとあらゆる種類の洗剤と掃除用品が並んでいた。
「見てください、見てください」
ハービソンは、洗剤の容器を手に取ってはこう叫んだ。

「ファ、ソ、ラ、それからファのシャープ……。
この液体洗剤はずいぶん低音だ。赤紫に近いバラ色ですね。
このコーナーにはすべての音が揃っているから、作曲だってできますよ。
僕がこの売り場の担当者なら、
商品を並べ替えてメロディが鳴るようにします。
スーパーは素晴らしい場所ですね。
森なんかよりずっと楽しい。森はとても退屈ですから」

乳製品とワイン売り場はほとんど音がしないので
さっさと通り過ぎ、青果売り場で立ち止まった。
不足している音がいくつかあるため、
洗剤売り場ほどではないにしろ、そこも賑やかな音がした。
「なかなかいい音色がします。
でも、青とターコイズブルーがない。僕が好きなのはナスの色です」
そう言ってハービソンはナスを一つ手に取り、
まるで近視であるかのようにじっと見つめた。
「ナスは一見、黒っぽく見えるかもしれません。
でも実際にはとても濃い紫で、ミに近いレのシャープの音がします」

スーパーを出て、私が宿泊するホテルに向かう途中、
ハービソンはこんな話をしていた。
色が見える人は、黒、白、灰色を、
実際はその色ではないのに、よくそう呼んでいる、と。
「たとえば人の肌には、白も黒もありません。
黒人の肌は、実際には暗いオレンジだし、白人の肌は薄いオレンジなんです」

『COURRiER Japon(2012 JUNE)』
「君は『スーパーヒューマン』を見たか」(Text by Juan José Millás)

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うちのメダカは現在11匹。
ガラスのラージボールに8匹と、
小さい金魚鉢に3匹、いずれも室内。
ホームセンターで買ったヒメダカが3匹と、
メダカ専門の店(@東広島市)で買ったのが8匹。
年末ごろから産卵が始まって、
そのうちの7割ほどが孵化して80匹近くになっていたのに、
でも、センター試験が終わったころには10匹ほどに。
また産卵したので2月から育てているけど、今また80匹くらいか。

そんなに殖えてもねぇ、という気もするけど、
なんというか、育たずに死んでいくのを日々片付けるのは
やっぱりちょっと胸が締め付けられるものがある。
目指すは、極力、私が手をかけなくてもいいくらいに
水槽やバケツ内で循環する環境をつくること。
窒素やら酸素やら、なんやらかんやら、
生物の教科書はけっこう役に立っているのでした。
さて、今度はどうでしょう。