2011/01/16

大往生。

13日の13時8分、広島のじいちゃんが死んだ。
母は仕事をせっせと片付け、
それでも広島へと走り出したのは夜中。
私は母の眠気防止のためにお供することになった。

到着したのは夜中の4時。
去年の3月、脳梗塞で倒れて以来、入退院を繰り返し、
最後の1年は病院で過ごさなければいけなかったじいちゃん、
死んでやっと家に戻ったとのことで、私たちが家に入ると、
ばあちゃんは、じいちゃんの横に寄り添い、
母の姿を見て「やっと帰って来れたからねぇ」と呟いた。
最期は危篤の状態が幾度もやってきた。
母もその度に仕事を休んでいたけれど、
母がじいちゃんの元に戻ればまた血圧も戻る、という繰り返しで
そのうつろな状態も苦しいだろうからと、
最後はもう「亡くなったら行くわ」と苦しい決断をしたようだ。
ばあちゃんは、「また起きるんじゃないかと思ってねぇ」と言い、
母はじいちゃんの顔をペタペタと触って、
「お父ちゃん、冷たいねぇ」と答えた。
私は何も言えずに母から一歩下がった形で座るしかなかった。
少し眠るようにとばあちゃんを説得してその夜は終わったけど、
朝起きると、ばあちゃんは名残惜しくじいちゃんの横に座っていた。

通夜の日は、じいちゃんの兄弟、近所の人が集まった。
葬祭場の人が来るのを待っているときに、
住職さんが「予定にはないんじゃけど」とやってきて、
南無阿弥陀仏、と念仏を唱えた。
じいちゃんはマメな人で、信心深いというよりは
「そういう役割」として真面目にお宮や神社、寺に通っては
お勤めをしていたらしい。
「いつも来ていた人が、ということが私にもとても寂しく思えて。
無常と説きながら、それが身近で起こるとは、
私もまだ思えていなかったようです」と
突然の訪問のワケを説明して帰っていった。
この住職さんは、通夜でも葬儀でも念仏を唱えてくれた。

通夜、葬儀と済み、じいちゃんは火葬場で灰になった。
農業を生業としてきたじいちゃんの骨は太かった。
ひとつずつをみんなで壺に納めていき、
2〜3年前、じいちゃんが足を傷めたときに
右の膝に埋めていたボルトだけが残った。
あのとき、じいちゃんは足取りがすっかり悪くなって
小さなスクーターで移動するしかできなかった。
元気も自信もなくし、久しぶりに帰ってきた母に
「もう来年は会えないかもしれない」と言っていた。

その後、母はまた広島に行って元気なじいちゃんと会っている。
次に私がじいちゃんと会ったときは
言葉を放つことも、誰かにスプーンで運んでもらわなければ
ひとりで食事をすることもできなくなっていた。
じいちゃんが介護を必要とし始めたときから、
じいちゃんの世話は広島にいる娘と息子に任せて
ばあちゃんはじいちゃんに恥じぬよう、
必死で畑の面倒を見るようにしたらしい。
それでもじいちゃんは不自由な口調で
ばあちゃんを心配していたという。
おじちゃんがそう言っていたことを思い出していた。

お骨を家に持ち帰り、
じいちゃんにとっての最後のお勤めをし、
みんなで鍋を囲んで、それぞれが床に就き、
片付けをしていた私と、眠れないばあちゃんとが台所に残った。
何の話からだったか、ばあちゃんがポツリとじいちゃんの話をし始める。
自分たちの子どものこと、孫のこと、ひ孫のこと、
じいちゃんが家に戻りたがったこと、じいちゃんが元気だったころのこと。
「最期は苦しむこともなかったけど、
すぅっと色が褪めて、冷たくなっちゃった。
そんなのを見るのは初めてでね…」
毅然とした顔を保ちながらばあちゃんは話した。
涌き出るように、ばあちゃんから次々に出てくる言葉を、黙って聞いた。
話が終わると、ばあちゃんはまた、じいちゃんのそばに座りに行った。
葬儀の翌日も、また人が来てじいちゃんのことで涙を流して帰っていった。

広島のじいちゃんのこと、
高知へ嫁いだ母なので、私たちはそんなに身近じゃなかった。
父から「じいちゃんはお母さんをかわいがっていたから、
お母さんと結婚するとき、本当はじいちゃんは嫌がっていた」と聞いて、
もっと広島に来ればよかったと思った。
じいちゃんやばあちゃんのこと、
「お父ちゃん」「お母ちゃん」と呼ぶ母を見たのも初めてだった。
帰り際、ばあちゃんは寂しがって泣いた。
「みっともないとこ見せて」と言うのを振り切って帰った。

じいちゃん、本当に、おつかれさま。
大往生でも、じいちゃんのことを思って寂しがる人が大勢いる。
その風景を見ているだけで、じいちゃんの人生を垣間みた気がした。
平凡でなんでもない、平和な農家の主人、88歳の人生だった。
思うようにいくことも、思うようにいかないこともあったろう。
でも、幸せだったと思う。