2008/10/19

頭の整理的に。

今作っているカタログの中で、
一番客とのコミュニケーションがうまくいっていないのが、
ボディスーツやガードルなどのファンデーションとストッキング。
実際にはコンビニで置かれるほどような消耗品だったり、
競合会社のガードルが今、おもっくそ話題になっていたり、
本当はそこで先手を取るべき立場にいるはずなのに
うまく売れる方法を見つけることができていない。
親分やアドバイザーなんかが
「ここを売らなきゃどこで売るねん」的な感じで
アツくなっている部分だったりするので
当然ながら見る目も厳しくなる。
いや、デザインがどうこうよりも、
これで本当にコミュニケーションがうまく取れるかってとこで。
で、まぁ、そのページの訂正指示が終わって
なんとなくちょっとラクになった。
あとはブラジャーを残すのみだけど、
ブラジャーなんてみんなが気にして見ているページだから
本当はそこまで気合いを入れて見なくてもなんとかなる。
一息、親分とともに和民で打ち上げと次の話。

作るときに、無印やユニクロみたくブランドイメージで、
なんて大それたことは思っていない。
もっと気軽に便利に、付箋紙なんかつけたりして、
それぞれの欲しいと思うものがココにある、
てことがすぐわかることのほうが大事だと思っている。
言ってみれば、一社に一冊のアスクルみたいなもんで
家に一冊、どうですか、てな気分だし、できればそれを線にして、
たとえばストッキングなんかは会社でまとめてお買い得とか、
ガードルなんかだと「あれ、ちょっと痩せた?」「んーへへ、実はね」
なーんて会話があったりするといいな、みたいなカンジ。
そういうことができるように計画を立てて、
おさえる号はおさえて、冒険する号は冒険したいねーてことで意見は合致した。

そのへんの反応をきちんと見なきゃってのは、
雑誌を作っていたときとリンクする。
要するに売り手と買い手のコミュニケーションなんだよね、なーんて。
そういうことを考えると、通販カタログって、
単に誌面を作るというよりは売り場の設計と建設と企画、
さらに売り子の教育、話し口調やアフターフォローも、てことと近い。

最近「クライアントの本当の成り立ちって一体なんなの?」てのが気になって
聞けば、もともとはコミュニティ的なとこから、
「それって商売になるやん」てことでできた会社だと教えてもらった。
なんとなくそれってミクシィ的というか、
誰かのことをうらやましいと思う心理からきてるというか、
だからクチコミなんだなー、みたいな。
このごろそれをクロスメディアなんつってメディア戦略の中のひとつとして
カリスマブロガーを雇ってクチコミを“作ったり”もしてるけど、
なーんかそれってやっぱりマルチ商法的だよな、とか、脱線して思ったりも。
クチコミ作りのために金が絡むなんて。
(最近はタレントブログを広告に使ったりもしてるそうな)

たとえば身重な妊婦さんが、病院で妊婦用のカタログを見つけて
持って帰って家で商品を選んだりマメ知識を得たりしながら
生活の中で便利に使えるモノとして通販でお手軽・カンタンに商品を買えて、
買って良かったと思ってもらえるものがあって、
また使ってもらえて、「じゃあ今度はこれも買ってみようかなー」てとこから
別の商品に手が伸びるような感じだったり。
良かったら知り合いの後輩妊婦に「これ使うと、意外に便利だよ」みたいに
マメ知識といっしょに伝わって、次のお客さんが来てくれるようなカンジ。
それは即効性のあるもんだったりするとどっかうさんくさい。
クライアントが抱えている商品自体もそういう性格のものが多いし、
広告的、戦略的なことを考えてもダメだなーと思ったりする。
カタログってやっぱり広告じゃなくて売り場だし。
だから、売れた方がいいなと本当に思う会社の基本の商品があって、
クライアントの場合、「じつは…」で語られるもののほうがそういう商品なら、
やっぱりストッキングだったりファンデーションだったりするんだけど。

ま、そんなことを考えられるこの仕事は、おもっくそめんどくさくておもしろい。
まー、今作ってる号の目も充てられぬ状況が、次号の企画を止めてしまっているし、
そもそもこんなモノを上げてしまった私らに、次ってあるんか、てのも心苦しい。
考えることは考えても結局作れなきゃイミがないし、
たぶんそうやって考えたことも、
クライアントと時間をかけて付き合わなきゃできない現実もある。
アスクルって安定してモノを売るコミュニケーションができているから
あるときから商品を自分らで企画して作る、みたいなことをできるようになった。
それがまた当たって今の状況を作ることができている。
そういうふうにできたらいいけど、それには自分たちの成長ももっと必要だな、と。



姉が高松に寄ってくれたので、親分と別れてお茶をしながら話をする。

姉はフリーの設計士。
人に誘われて、今、徳島にある農村の、
小さな小学校の建設でコンペに参加している。
その企画の話を一通り聞く。

街ナカで育った人には想像しにくいだろうけど、
私や姉のように過疎地で育った人間には、
街の学校の、コミュニティ的な性質を実感のなかで理解できる。
街ナカであれば、セキュリティやカリキュラムに沿って
学校を設計することはとても大切なことなんだろうけど、
実は過疎地ではそれとはまるで逆の発想があったり。

ひとつ、ITでの事例を出すとすれば、高知県のとある農村では、
「IT化」なんてことが言われる前からネットワークの構築がうまくいっていた。
実は実験的に、別の、高齢化の進む農村で、
24時間ブロードバンドで畑を監視しながら作物の面倒をみられるという
システムを作っていたことが同じ時期(もう10年以上も前だと思う)に
あったんだけど、それは予想を大きく裏切ってうまくいかなかった。
作物は実際に目で見て、手を動かして作るもんだ、いや、年をとってもさ、
みたいな具合に身体的な感覚を信じてるトコあるから。

うまくいった農村の、その使い方は、
廃校をバーチャル学校にしてしまおうというもの。
たとえば過疎地の学校の運動会は、イコールで地域の運動会となって、
子どもがいてもいなくても、それは地域として参加すべきもの、
みたいな暗黙の了解がある。
学校が地域になくなってしまったら
そういうお付き合いは縁遠くなってしまって、
中には村から外へ出ていく人もいたりして、
それを再建しようとして使ったのがネットだった。
そのバーチャル学校には、先生と生徒、とか子どもと大人とかの
あらかじめ前提として作られてしまっている状況はない。
定期的に地域として集まったりして「一日先生」的なものもしたりするけど、
それはたったその日のことでしかないし、誰でも先生や生徒になれる。
基本、どこにいても参加することができたりして、
結果、その農村に直接関係のないヨソの人までがその学校に参加するようになり、
村に遊びに来るようになって、村自体が活性化された。
つまり、学校=地域コミュニティ。アナログなミクシィみたいだけど。
そう考えたら、農村での学校の建て方って
「こう使うからこうしよう」みたいな話じゃなくて
使われ方はその農村次第てとこもあったりする。
「だからしんどいわー」と姉もボヤいていた。

「付加価値」「ブランド戦略」なーんて言ってるけど、
要するに全てはコミュニケーションから始まっている。
広告も、カタログも、雑誌も。
街も店もそういやそうだなーとか思う。

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