2013/03/23

しーーん。

わたしは話をするのが遅い。
しかも、結論しか言わない。説明が苦手だ。
子どものころからそうだし、今でもそうだけど、
長い台詞をひとりで回すとなると、
途中から頭の中がボンヤリとしてきて
いつになったら自分の台詞が終わるのか、眩暈がしてくる。
話の内容よりも、そっちのほうが気になってくる。
どんなに慣れている相手でも(たとえば母親が相手だったとしても)
一定以上の台詞の長さを超えると、少ししんどい。
つまり、テキトウに、ホントらしいところで
話をやめることにしようと努力してしまう。
または、話のスピードが速い人の言葉を聞き取ることは難しい。
表面的に聞き取ったとしても、相手がどの返事をほしいのかわからない。
「真実の答えを求めているワケではないこともある」
わかったのはつい最近のことだ。
私には、瞬間的に言葉を受け取り、処理をして
アウトプットする能力が欠けている。

高知市内の高校に通うことになったときも、
京都で大学生をすることになったときも、
大阪で働いているときならばなおのこと、
「しゃべるのが遅いね」または
「コミュニケーション能力が低いね」と言われた。
遅いのではない。反射神経が鈍いのだ。
でも、すなわち、「コミュニケーション能力が低い」
ということになるのだろうか? だとしたら、致し方ない。
シェイクスピアならば「ウィットに欠ける」とバカにされる役回りだろう。
指摘されればされるほどにコワバルし、一時期は本当に苦労した。
もう、できるだけ長い台詞は言わないことにしているし、
長い台詞を言わなければならない場面には行かないようにしているし、
わからない、と思う言葉に対しては、聞こえていないふりをすることに決めた。
ほとんど、開き直りの処世術である。

ここまでの私のいっさいを観察して、察してくれ、と願うしかない。

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沈黙の言語

未知の言語の騒音の広がりは、
異邦人を(その国がその異邦人に敵意をもたぬかぎり)
甘美に保護するものとなる。
異邦人を響きの被膜でおしつつんで、
母国語を話すところから生れる疎外のいっさい、
母国語を話す人間の出身地や所属、
教養と知性と趣味の度合、見てくれと押し出しの人間像、
そういう疎外のいっさいが働きでるのを、ぴたりと耳もとで阻止してくれる。
異邦人にとって、これはなんというやすらぎであろう。
そこでは、わたしは愚行、俗悪、虚栄、社交、
日常茶飯から保護されて、へだてられている。
未知な言語ではあっても、その呼吸、感情をこめた息の出しいれ、
つまりその純粋な表徴作用は把握できるのだが、
この未知の言語は、わたしが移動してゆくにつれ、
わたしをとりまいて軽い眩暈の層をつくり、
未知の言語をつくりなす不自然な人工の空無、
わたしという異邦人にたいしてのみ形成される空無のなかに、
わたしを連れさってゆく。
いっさいの充実した意味を奪われたすきま、
そのなかに、わたしは生きることとなる。
《その国で、言葉の問題はどんなふうにして切りぬけたのですか》。
または、
《どんなふうにして大切な言葉のコミュニケイションはおこなえたのですか》。
これは実用的な質問のようには見えるが、
じつは次のようなイデオロギーに係わった断言にほかならない。
すなわち、《言葉による以外にコミュニケイションはない》。

ところが、この国(日本)にあっては、
表徴作用とおこなうものの帝国がたいへん広大で、
言葉の領域をひどく越えているため、表徴の交換(やりとり)は、
言語が不透明であるにもかかわらず、時としてその不透明そのもののおかげで、
なおまだ人を魅惑する豊饒さと活潑さと精妙さを失わないでいる。
日本では、肉体が、ヒステリーと自己陶酔をともなわずに、
純粋にエロスのみちびくままに(微妙につつましやかに、ではあるが)、
存在し、おのれを示し、行動し、おのれを与えるからである。
コミュニケイトするのは、声がするのではなくて
(この声(ヴォワ)というフランス語は人間の《権利》も意味するが)、
肉体のすべて(眼、微笑、頭髪、身ぶり、衣服)がするのである
(だが、いったい何をコミュニケイトするというのか?
わたしたちの魂を?ーー必ずやそれは美しいことだろう。
わたしたちの誠実さを? わたしたちの魅力を?)。
肉体のすべてが、あなたに話しかけている。
ただし、礼儀作法の完全な支配下にあるために、
肉体の話しかけが本来もっているはずの幼児性とか小児性とかは、
露におもてに出はしない。
会合の約束をきめるのには(手真似や略図や固有名詞などをつかって)、
おそらく一時間かかることだろう。
だが、言葉でいいあらわせるならば一瞬間ですんでしまう要件
(本質的であると同時に表徴作用をおこなわないもの)のために、
一時間にわたって異国語の相手の肉体は知られ味わわれ受けとめられ、
一時間にわたってその肉体は肉体独自の物語、
肉体独自の文章(テキスト)を(本当に終ることはなく)くりひろげるのである。

『表徴の帝国』(ロラン・バルト著/宗左近訳)
ちくま学芸文庫より

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WOWWOWにて、オールメール、蜷川演出のシェイクスピア。
おもしろい。笑える。
優雅な貴族たちは言葉遊びを楽しんでいた。
ことあるごとに「ウィット」「ウィット」と言っている。
シェイクスピアの喜劇は洗練されている。今も新しい。

言葉でモノを定義し、伝え、転がし…。
多くの人が言うように、世界をおもしろくしたのは言葉だと思う。
ところで、かつて、ギリシアで奴隷制度が奨励されたのは、
学問を極めるための時間を確保するためだったそうだ。
妙に、キモチに「シーン」、とするものもある。
なぜだかわからない。

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