2013/04/23

同じ景色、違う景色。

おばあちゃん(私の祖母)がICUに入ってしまうことで
いくつか生じた問題がある。
私たちにとって最も大きい問題は、
甥が学校を終えて帰宅しても一人で留守番しなきゃいけないこと。
みんな働きに外に出ていて、甥はカギっ子になるしかない。
まだ小学校に入りたて、夕方まで預かってくれる教室はあるけど、
家でひとりでお留守番じゃ不安だし寂しいだろうし、ということで、
甥は親戚のお家で、おじいちゃん(私の父)の帰りを待つことになった。
ところが、いくら楽しいといっても、新しい学校生活。
それもいきなり帰る家の様子が変わってしまった。
さらに、お母さん(私の姉)も忙しい部署に配置換えになってしまって
お母さん自体に緊張感がみなぎっている。

甥は、おばあちゃんが入院して以降の1週間のうちに2回吐き、
連日のように高熱を出した。
風邪の原因、体調不良の原因は緊張と不安ではないか、と考えた
おじいちゃんとお母さんは、私に留守番してほしいと要請してきた。
こうして、私は急遽、高知の実家にいる。

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田んぼや畑を埋めたてても数年間は土の記憶は消えないとみえる。
団地の隣は、野球グラウンドになっていたが、
いくら抜いても雑草がぐいぐい伸びるらしく、
バッタやカマキリが地面から湧いて出た。
くるぶしで雑草をかきわけて、大海原を行く小舟気分で歩いて行くと、
トビウオのように、シャチのように、昆虫が次々と弧を描いて飛び出した。
見上げれば、白やブルーの洗濯物が、団地の灰色を涼し気に包んではためいている。
1965年、できたての団地に入り、その中に作られた未来派もどきの遊び場に行くと、
自分自身が火星から降ってきたように唐突に感じられた。
道を挟んで向こう側はもう小学校で、
千人の小学生に毎日ばたばた踏まれている青い廊下が教室と教室を繋いでいる。
上履きのゴムのにおいとランドセルの革のにおいと子どもの髪の甘いにおいに、
昼になるともう一つ独特のにおいが加わり、
一度も中を覗いたことのない隣の給食センターから
魔法のスープが大量に運ばれてくる。
校庭や垣根の向こうは市役所で、南武線の踏切が見え、
線路の向こう側にある神社や農家や梨園や多摩川が外国のように遠く感じられた。

『花椿(2010年12月号)』
自分風土記(文/多和田葉子)

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帰ってきてみると、甥は、聞いていた話と違って元気だった。
「学校、うん、楽しいよ」「ちょろいね」と。
でも、ICUに子どもは入れず、お見舞いを拒否されたことには怒っていた。
私がしばらくこっちにいると言うと、
「やったー。明日は何して遊ぼうか」とうれしそうだった。
とりあえずその日は、スーパーマリオで闘ってから、
散歩がてら山に登ってみることにした。

山と言っても、明治維新の志士・吉村寅太郎の銅像のある高台のこと。
高台に登って、戦没者の慰霊碑の裏を回れば獣道がいくつかある。
そこをズイズイと進んでいった。
人のあまり通らない獣道は、
湿り気を蓄えた落葉がしっかりと培養していてフカフカしている。
急な斜面であっても、ほとんど滑ることもなく、
むしろ歩みを進めるのが気持ちいい。
1年前なら「もうやめよーよ」と自信なさげだった甥が、
今ではむしろ先頭きってズイズイ登っていく。

この山…というか丘はあまり高くはないのだけど、遠くを見渡せて清々しい。
「ねぇねぇ、この“ゴォォォ”っていう音、何?」「川の音よ」
上に登ると、一層激しく耳を振るわす川の音。
川の姿は遠く眼下に映るのみ。

この丘の別の獣道を行けば中学校がある。
でもその獣道は封鎖されていた。
そういえば、台風か何かで崩れてしまったと言っていたかもしれない。
青い空から隠れるようにして、森に覆われた小道を行った。
たとえば、私には青いスクリーンに映る木々や葉の影絵に感じられたし、
甥には、その細かい緑にいろんなカタチがあることがおもしろく映ったらしい。
中学生のころも、この場所は、誰かといっしょにいたとしても、
見えているものはそれぞれに違うと感じられる場所だった。
見ていた景色は、当たり前に“私のもの”だった。
甥がこのままここの中学校まで行けば、同じように“甥の景色”になるのかな。
私と違う人が、そこで同じようなことを思えることは、
思えば思うほどに、想像を超えた異次元なる話へと広がっていくようだ。

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なんとか、みんなが寂しいなんて思わずに日々を過ごせますように。

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