2013/04/08

成長と退化。

うちでは、子メダカの水槽(というかバケツ)は
孵化直後〜7mmほどの産まれたての子たちを入れているヤツと
8mm〜15mmほどの大きくなった子たちを入れているヤツとで分けている。
大きくなった子たちに大人用のエサ(少し大きい)を与えてみると
すぐに食べてしまった。
大きくなった子たちの水槽に卵のついた水草を入れていたら、
いくつか孵化したチビメダカが隅っこで遠慮深く泳ぐ姿も見られたのに、
あるとき、そのチビたちがいつの間にかいなくなってしまったことがあった。
どうやら大きくなった子たちが食べてしまったらしい。
かわいそうなので、卵は他の水槽に入れることにした。
それにしても、成魚になったら、だれかもらってくれるんだろうか。
今も続々と産卵と孵化を続けるメダカに、やや青くなっている。
いつか、私の部屋はメダカの水槽で埋もれるのではないだろうか。
新しい卵が見えても、見なかったふりをしようか、
ああ、でも、見てしまったしと、しばし葛藤。
大きくなるのはいいけれど、そのことが今イチバンの心配事なのです。

そうそう、メダカの色はいつわかるのだろうと
インターネットでチコチコ調べてみたら、
生後半年ほど、とのこと(白メダカはすぐにわかるらしいが)。
うちのメダカはまだまだですね。
それにしても、遺伝子との関連や、色素が動的であることなど、
興味深い話がてんこ盛り。
よく観察してみようと心に決めて、母に「おもしろいでしょ」と報告すると、
「うちのゼミでもメダカ育ててみようかしら。
生体理解への一歩として、いいと思わない?」と言っていた。
何にせよ、引き取り手ができるのはありがたい。

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先週1週間、甥が春休みを過ごしに広島に来ていた。
会うのは半年ぶり。
たったの半年ぶりなのに、彼の中ではいろんなことが進んでいて、
たとえば、ひらがなだってスラスラ書けるし、
カタカナを書くのはまだ十分ではないけど、スラスラ読める。
最近はちょっとずつ漢字を読めるようになっていることがうれしいらしい。
「ねぇねぇ、『大きい』は読めるよ」
「『川』もわかるよ。あ、そういえば、『山』も!」
などなど、読めるものを見つけるたびに報告してくれた。
「『一』と『十』だから『千』は『いちまん』て読むんでしょ」
とほざいていたのは、かわいかったので訂正するのはまた今度にしよう。

ちっちゃかったころ競って食べていたシイタケやピーマンのことは
彼のお父さんや友だちの影響か、嫌いになってしまっていて残念だけど、
こないだまで「上手にできないから」とイヤがっていた
ボール遊びも、ジャングルジムも大好きになっていた。
「できること」が多くなって、本人は誇らしげだ。
そうそう、計算もできるようになっていてびっくりした。
もう、身支度だって、ほったらかしにしても自分でちゃんとできる。
今日、入学式。立派な小学一年生になったのです。
すべり台を逆走して、得意気なのです。
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甥は2月生まれ。
同じ学年で彼より後に生まれたのは1人とのこと。
発達目覚ましい幼児にとっては、1か月の差はけっこう大きい。
だから、4月生まれの子がもうできるようになったことが、
3月生まれの子にはちょっと難しい、ということは当然。
甥にとってもこれが難関だった。
公園で遊んでも、他の子が悠々とジャングルジムをのぼっていくのに、
まだ握力が充分でなかったりしてのぼれない。
そんなことが年少のころからなので、
カラダを動かすことに自信がなかったようだ。
やっと追いつけるようになった今は、
鬱憤を晴らすかのようにのぼりまくる。

私が小さいころ、姉と姉の同級生と河原に行ってよく遊んだ。
夏場なら泳ぐけど、泳げない時期は石投げが定番。
誰が遠くに投げられるか、飛び石は誰がキレイにできるか競争していた。
姉の同級生に対して私は小さすぎて、
うまくできないことなんか気にならなかったけど、
姉は「私は投げ方がかっこ悪い」と言ってイヤがった。
姉の誕生日は、3月30日だ。

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「何歳まで」自治体間に幅

公衆浴場で何歳まで混浴できるのかーー。
調べてみると、都道府県ごとに年齢は異なり、
実にバラバラであることが分かりました。

公衆浴場法は、具体的な年齢を明示していません。
国は「おおむね10歳以上の男女を混浴させないこと」と
通知していますが、あくまでも目安。
都道府県がそれぞれルールを設けています。

中国地方では鳥取県は「7歳まで」、
岡山県は「9歳まで」と条例で定めています。
残る広島、山口、島根の3県は条例には明記していませんでした。

全国で、混浴できる年齢の上限が最も幼いのは「6歳まで」の京都府。
一方、香川県や北海道は「11歳まで」。
こんなにも幅があるのかと驚きました。

独自の基準を設ける銭湯もあります。
音戸温泉(広島市中区)は10年前、
混浴を制限する2通りのルールを掲げました。
一つは10歳になった。
もう一つは身長が135センチを超したらー。

吉村昌峰社長(58)は「発育には差があるから、
年齢だけでなく、身長にも目安を作った」と言います。
女性客からの要望がきっかけだったそうです。

年齢の上限を変更する自治体も出てきました。
滋賀県は1995年、子どもの発育や性への目覚めが早くなったとし
「9歳まで」から「7歳まで」に。
一方「5歳まで」だった兵庫県は2008年、
「小さい子を1人で入れるのは不安」「まだ体を洗えない」
との声を反映し「9歳まで」に引き上げました。

多様な意見を吸い上げようと、自治体も苦慮しているようです。
体の発育や心の成長には個人差があり、
子どもとの混浴に対する捉え方も人それぞれ。
線引きは難しいけれど、他の利用者を思いやる気持ちだけは
共通ルールにしたいものです。

「よろず相談室(中国新聞2013年4月7日)」(文/余村泰樹)

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「あれ、この話、どっかで聞いたぞ」と思っていたら、
数ヶ月前、同じ話題について、ラジオでおぎやはぎが喋っていた。
子どもがいっしょだと、関係ないと決めていたいろんなことに気がつく。
たとえば、この新聞の記事にあるようなルールだったり。
他にも、甥といっしょだと歩いたことのない道を歩いたりして、
今住んでいるとこの近くには4つも公園があることを知ったし、
その先にオシャレげなカフェがちんまりとあるのを発見したし、
うん、今度、気分転換に行ってこよう。
(いや、これは、単に探究心がないだけかもしれない)

今の生活をしていると、私は出不精なんだなと確認することひしひし。
万事が面倒で、スーパーなんかの、生活に必要な買い物以外で
外と関わりを持つことに無精になっていても、
全く気にかからないし、ストレスにもならないどころか、むしろ心地よい。
甥といっしょに、広島の親戚とも遊んだのだけど、
慣れない人と会話をするのは、例え親戚でも、
私にとってはいささか疲れることだった。
よその空気を吸うことをやめると、
その回路は退化して閉じてしまうのかもしれない。
これではいけないと、気分に乗じて久しぶりに店に入ってみたり、
美術館などに行ってみたりして、外出気分を楽しんでいる。
疲れるけど、聞こえる音や見えるものや吸い込む空気が新しい。
会話が多ければ、新しい空気と古い空気を交換できた気にもなる。

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わからなければ訊けばいい

まだ終戦後といった言葉がふさわしいような、
ずいぶん昔のことになるが、
川端康成先生がこんな話をしてくれた。

外国旅行をしていると、六歳か七歳の少女が飛行機に乗っていた。
父も母も同乗していない。
知りあいもいないらしいことがわかってきた。
彼女は一人旅なのである。
父親の任地へ行くところらしい。
母親も一足先にそこへ行っていたのだろう。

川端先生は、その少女の態度が実に毅然として美しかったと言われた。
少女の一人旅に感動するというのが、いかにも川端先生らしいが、
ここにも、ひとつの礼儀作法の問題が提起されていると思う。

彼女は、おそらく、対人関係についてのエチケットなどは何も知らないだろう。
ただし、両親に、飛行機に乗っていた何か困ったことがあれば
スチュワーデスに相談すればいい、何か要求するべきことがあれば、
そのときもスチュワーデスを呼べばいいと教えられていたと思う。
エチケットというものは、実は、それだけで充分なのである。
だから、彼女は、毅然たる態度でいられたのだと思う。
その意味において、彼女は立派な社会人であった。

訊けばいいのなら、そんな簡単なことはないと誰でもが思うだろう。
その通りである。
しかし、その簡単なことが、なかなかやれないというのが実情である。

東北地方の、仙台なら仙台の青年がいて、
その土地の高校と大学を卒業して、東京で就職して、
はじめてのボーナスを貰ったとする。
『東京たべあるき地図』なんかを見て、勇躍して、
銀座の小料理店や寿司屋へ行ったとする。
行ったというだけで勇気のある行動であるが、
そこで悠々として注文するということが、むずかしい。

最初に言葉のことがある。モジモジする。オドオドする。
品書きに「いわし」と書いてあるが、
こんな店で「いわし」を注文していいものかどうか、それがわからない。
牛肉のロースのバター焼きとあるが、これは高いんじゃないだろうか。
そんなこんなで、口も体も硬直してしまう。
毅然たる態度とはほど遠いことになり、不愉快な思いをして、
つまらない散財をすることになる。

どうして、訊くことができないのだろうか。
中年の、ものわかりのよさそうな仲居を呼んで、
こういう店で食事をするのは初めてなので教えてくださいでもいいし、
あならにマカセルでもいいのではないか。

これが、寿司屋であると、もっと恐ろしい思いをする。
職人に睨みつけられているように思うし、
絶えず急かされているような気がするものである。

小料理屋へ行ったら、酒を一本頼んで、
それを飲みながら、ゆっくり考えればいい。
吸いもので一品、刺身で一品、
焼物で一品、野菜で一品というように選べばいい。
なにかを省略してもいいし、鍋物を食べたければ刺身だけにしてもいい。
それは簡単なことだと思われる。
私は、川端先生の見た六歳か七歳の少女には
それができるような気がして仕方がない。
われわれ日本人は、そういうことに不馴れであり、下手であるようだ。

いつか、ある酒場の女給を小料理屋で連れていったら、
品書きを見て、ジュースと蛤の吸物と
土瓶蒸しと赤出しとノリ茶漬けを注文した。
こっちが恥をかく。
これは全部ミズモノである。
理に適っていないし、腹が張って、
とても全部を食べられる(飲める)ものではない。
また、ある女は、コースを食べ終わったあとでテンプラを追加した。
小料理屋で、何を食べようが、何を頼もうが客の勝手である。
しかし、女なら、テンプラには、
めんどうな下拵えがいるくらいのことは知っているはずではないか。
それができるまでに時間がかかる。
他の人は食事が終っている。
間がもてない。
それに、職人には手順があって、注文を聞いてから、
どの順序で出せば客が喜ぶかということを常に考えているのである。
食事が終わる頃に、突如として、テンプラとは何事であろうか。
相手の気持ちのわからない女は、田舎者と呼ぶよりほかにない。

『礼儀作法入門(新潮文庫)』(著/山口瞳)

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あ、えらく長くなってしまった。

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