2010/04/08

春です。

白川さんが、「最近のヤツはおもろない」と嘆いていた。
いくつか自分のお店を若い人に任せているんだが、
白川さんから見ると「そんな生温いことすんなよ」と見えるらしい。
「癒し系かなんか知らんが…」と呟いていた。
これには私も身に覚えがあって、
たとえば今もそうだけど、キョーレツにスゴイと思ってしまうと、
それ以降、ココロが縮こまって亀の甲羅に潜ったように出てこれない。
「あんたらよりおもろいこと、私やるで」と言えない。
弱い、意思もワガママ具合も弱すぎる。
最近、ボスの仕事をちょくちょく手伝ったりしているけど、
やはり縮こまっている自分に気付く。
仕事のやり方も違うし、
ボスの仕事は建築の専門知識が必要で難しいし、
…なんて言い訳もしたいながら、ハァ〜〜となる瞬間。
そんなときに自分が見えている範囲なんて、
おそらくは左右に10度くらいの角度くらいしか見えてなくて
しかも視界はモノクロだ。
精進、精進、と思っているのに、
これではぶつかり稽古にもなりはしない。

とか思いながら肩をガックリと落としていると、
あるお客さんがお会計を始めていた。
その客の会計は2,700円。
カウンターの中にいるむっちゃんは、
1,000円札が3枚くることを先に読んでいて、
お金を受け取るなり、硬貨をさっと3枚、お客の手に置いた。
「すごいな、わかってたんや」と客。
ヘヘヘ…と誇らし気なむっちゃん。

実は私は、お金を受け取るときに
むっちゃんの両手が重なり合いながらのびていることが気になっていた。
なんのことはない。
ただ、小学生か中学生かくらいの頃に
実家の店を手伝ってレジ打ちをよくやっていたのだが、
会計で客からのお金を両手で受け取ると、
父に「乞食じゃないきにゃ」と怒られた。
自分は薬とお金を交換している、という意識が高かったのか。
とにかく、妙に納得をして、
それからお金を受け取るときは片手で、を心がける。
でもたまに、両手を出すべきか、と悩むことも。
いや、なんのことはない。

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たとえば数学で、数学といえども感情の同調なしには
成立し得ないということが初めてわかった。
これはだいぶわかったほうで、
そういう花が咲いたのだから、枯れて滅びる。
また新しい種から始めればよいのです。
人はずいぶんいろいろなことを知っているようにみえますが、
いまの人間には、たいていのことは肯定する力も否定する力もないのです。
一番知りたいことを、人は何も知らないのです。
自分は何かという問題が、決してわかっていません。
時間とは何かという問題も、これまた決してわからない。
時間というものを見ますと、
ニュートンが物理でその必要があって、時間というものは、
方向をもった直線の上の点のようなもので、
その一点が現在で、それより右が未来、それより左が過去だと、
そんなふうにきめたら説明しやすいといったのですが、
それでいまでは時間とはそんなものだとみな思っておりますが、
素朴な心に返って、時とはどういうものかと見てみますと、
時には未来というものがある。
その未来には、希望をもつこともできる。
しかし不安も感じざるを得ない。
まことに不思議なものである。
そういう未来が、これも不思議ですが、突如として現在に変る。
現在に変り、さらに記憶に変って過去になる。
その記憶もだんだん遠ざかっていく。
これが時ですね。
時あるがゆえに生きているというだけでなく、
時というものがあるから、
生きるという言葉の内容を説明することができるのですが、
時というものがなかったら、
生きるとはどういうことか、説明できません。
そういう不思議なものが時ですね。
時というものがなぜあるのか、どこからくるのか、
ということは、まことに不思議ですが、
強いて分類すれば、時間は情緒に近いのです。

※『人間の建設』(小林秀雄・岡潔/新調文庫)
「人間と人生の無知」岡潔のコトバから

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しかしながら、今日は事務所と桃谷を往復、
そして海老江に納品。
チャリンコが大活躍したのでした。
あたたかいいい天気、
平日でも、昼間から花見の団体あり、
夜には近所の公園にサラリーマンの群もあった。
いつも季節はいつの間にか変わっている。

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