2010/01/21

関係としての仕事。

仕事をする相手にもいろいろある。
私も、相手にとっては「いろいろ」のうちの
一人なんやろといつも思っている。
できれば、そうでない相手を早いこと見つけて、
仕事をさせてもらえることを望む。
でも、そういう関係は、
なかなか作れないこともわかりきっていることで。

自分がガッカリすることは多い。
思ったよりもお金が少ないとか、
思ったよりも考えなきゃいけない領域が多いとか少ないとか、
思ったよりもズルズルと付き合わされるとか、
ガッカリとしないことのほうが少ないだろう。
でも、自分がそう思っているということは、
おそらく相手も同じように思っているはずだ。
…てなことは、毎度のことに思うことだけど、
たとえば自分がそうでなかったかと言えばよくわからない。
それはイチバン不安になるところで。

正直言うと、私はもう、
「自分が何を言いたいか」とかそういうことはどうでもいい。
相手が何を考えているか、に合わせて反応できることが最も心地よい。
だから反応できる相手を望む。
今間借りしている事務所では余計に、反応することがイノチだと感じる。
反応できないことは無理をして仕事を受けたりしない。
みんなのやっているのは健全な判断だと思う。
たしかに、編集者時代には、「その話」に反応できる相手を探し、
そこに無理を言っても仕事をお願いした。
それだけの能力を使う力量があったのか、
今ではとても疑問に思うけれども。

そんなことを若き編集者に話したけれども、
どんなふうに彼に伝わったのだろう。

反応できる、とは、つまり、
たとえば、米を作ることに対して思うのと同じだったりして。
ま、「米を作る」とは、
春夏秋冬の季節の変化に敏感だったりとかもそうだけど、
私の思うのは、田舎で周囲と助け合って作っていくことで、
うまくは言えないけれども、気付いたことをすっと言えたり
相談し合ったりできたりすることで。
互いの違いは分かりながら、いい間合いで関わっていけることだ。
小さい集落だったからそう思うだけだろうか。
ま、でもそれは、自分が何をするか、ではない。
少なくとも私はそうだと思う。

人の役に立ちたい。
無駄な仕事だと互いに思うような助け合いはしたくない。
役に立って初めて、その対価はもらっていいものだとも。
最近は改めて、そんなことを思って。

ありがたいことに、仕事はおそろしくたくさんあり、
おそらくは私が便利に何でもやること(つまり、スペシャリストではない)
そして若いことが仕事をたくさんもらえることの理由で。
だけど、だからこそ、「この人の役に立てるのか」ということは
仕事を受ける前にとてもとても考える。
考えすぎると面倒になるけれども。

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