2010/06/30

見える角度をちょっと変えてみる。

モンダイハカネガナイ。
なのだ。

取材やら資料やら何やらかんやらと物入りで、
月曜日の段階にて、財布の中はわずか11円。
さすがに土日は何も食べられず、
へろへろとなった顔で事務所に入ると、
みなさん同情により食べ物を与えてくれた。
おにぎり、タバコ、コロッケ、卵焼き、トマト…。
おにぎりはコンビニで買った余りで、
ついでにタバコも買ってもらい、
コロッケと卵焼きは持参した弁当から。
トマトは事務所の近くにある立ち呑み屋で
なんと4パックももらった。
私は人に生かされている。

そういえば高知で生活をしていると
「餓死することはできん」とよく笑い話になる。
隣近所から野菜や魚をよくもらってしまうからだ。
「こんなにいらんのに」てくらいもらう。
5月に帰っていたときには、この野菜不足のご時勢に、
キャベツにタマネギ、ウドやゼンマイ、フキが転がり込んだ。
山菜は下仕事で手間がかかりすぎる。
そして納屋はキャベツで足の踏み場がない。
タマネギは、とにかく水にさらしまくった。
「ありがとう」と言いつつも、なかなか素直に笑えないとこもある。
アジを大量にもらったときも、
「どやって食べるがよ」という空気が家の中に充満していた。

ま、いずれにせよ、幸せなのだ。
食べるものがあるということは、それだけで心にゆとりが生まれる。
高知の人が陽気に生きることのできるひとつの理由とも言う。
今日は待ちに待ったギャラ振込みデーで、
「これ、どやって使っちゃろう」とウシシな気分になっている。
ああ、この気分が月末の苦難を生むというのに。
ノドモトスギレバナンチャラ。

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See you.
じっと、見ている
目玉だけになって、見ている
見ている対象は、ほんとうに
存在しているのか
見ている自分は、
存在しているのか


実際にサント=ヴィクトワール山を目にして驚いたのは
方角や距離、さらには光線の変化によって
まったく別の表情を見せることだった
山はまるで描かれることを拒んでいるように感じられた
その後、あらためてセザンヌの絵を見てみると
まずそのサイズに驚き、質感、色、グラデーションといった
画面を構成しているあらゆる要素の
的確さに心を奪われた
そして自分が記憶していたものが
いかに曖昧で僅かなことだったかを思い知らされた
それは「写真を見て知っている」という
認識の危うさがもたらすものだ
私は写真を撮りますが、見えてることだけを
信用していません。見ようとしたことが
そこに現れていなければならないと思っている
鈴木理策

※『翼の王国』2001年9月号「特集:まなざしの彼方」

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6月の頭にNHKで車いす(というよりシーティング)の
ドキュメンタリーがあって、勉強がてら見たけれど、
正直、感動しすぎてしまったのだった。
とにかく、ただ一つ、座り方が変わるだけで、
人生に対する希望の見え方、つまり、ものの見え方が変わるらしい。
ま、そんなことは頭で考えたらいくらでも想像できるもんで、
去年カタログを作っていたときにだって
そのくらいのことは知識として頭の中にあったのだけど、
そこにはなんのリアルさもなく、
ただ知っている、ということでしかなかった。

車いすで移動をする人のことを
「チェアウォーカー」と呼ぶらしい。
そういうふうに口に出してみると全く印象が変わる。
クルマが好きな姉の息子が車いすで移動している人を見ると、
「あれ、かっこいいねぇ~~」と指差して呟くらしく、
いやまったく、そういう感じ。

ああ、すごいなー、ということを親分と話し、
実際にこの会社の商品を使っている人に会いに行こう、
ということで持ち込んでいく企画の大筋が決まった。

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