2008/03/31

立体的な方向へ。

一人で酒を呑むことを覚えたのは高校に入ってからで、
どういうきかっけだか解らない。
中学時代から、呑むようになっていた。
酒は、ラジオの次に寄り添ってくれた、恋人だった。

子供の頃、死について考えていると、どうしようもなくなった。
死というのは、
死ぬのが怖いと思っているこの自分がなくなってしまうことだ、
と考える自分がいなくなってしまうことだ、
……という無限の連鎖。
大森荘蔵の云っている、あれだ。

そこから宗教なり、哲学なりに進むのなら、
真っ当なのだけれど、酒を呑んでしまうのが、どうにもクダラナイ。

逗子の商店街で、サントリーの一番安いウオッカを買い、
鞄に押し込んで帰宅する。

そして、自室で、イギー・ポップの「TV EYE」を聴きながら、
生でウオッカを呑むのだ。


ああ、今、おまえの犬になりたい
ああ、今、おまえの犬になりたい
(I wanna be your dog)


ジェイムス・ウィリアムソンの、野蛮きわまるギター・ソロ。

※『en-taxi vol.19(2007 autumn)』
「Another Girl, Another Planet(文:福田和也)」より一部抜粋

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もう随分前のことになるが、
大阪に来て3年くらいたったころ、初めて通天閣の下、
新世界の「洋食」と暖簾のかかった串カツ屋に連れて行ってもらった。
そのとき私は日本橋東という、
新世界から徒歩でほんの10分ほどの場所に住んでいたが、
まるで興味もなく、足を向けたこともなかった。
「大阪といえば○○」という場所であること、
なのに自宅周辺は生きることに無我夢中な人が道路を寝床にする街であること、
アンバランスさがどうしても南へ行く気を失わせた。

バカに大きい立体の駐車場にクルマを停めて歩く。
すぐそばにパッチが干された古い木造の家、細い路地、
たまに家の前にピンクのバラが咲いている。
その家々の間に同じくらい古い木造の喫茶店。
通りをかえてウロウロは続く。
ポルノ映画館、浮浪者の出店に
漫画やオモチャのなんや古いモノが並び、
「ヘタクソや」とかなんとかかんとか言われながら
近くの古いゲームセンターでスマートボールを打った。
新しい串カツ屋のすき間を抜けて細い商店街に入り、
将棋がパチパチと鳴る間に「洋食」と暖簾のかかった店で串カツを食べた。
説明によると、彼が浪人をしていたころ、
予備校をサボってこの界隈のパチンコ屋に通い、
パチンコ屋の後に新世界をウロウロして時間を潰したんだそうだ。
「ここのんは、エビがアホみたいにデカくてぷりぷりしてる」
と教えられるがままに頼んで食べたエビは、
本当に大きくてぷりんぷりんっとして旨かった。
彼に連れて行ってもらった「新世界」という街は新鮮に映った。
平日に仕事を抜け出して、だったからか、観光客も浮浪者も目に入らない。
いや、いても気に止まらなかっただけかもしれないが。

その数週間後、私はまたそのエビの串カツを食べようと店に行く。
同じくらいの時間に行き、同じようにビールを飲んで、
同じようにおいしく食べられる状況を作り込む。
エビはこないだと同じように肉厚でブリンッとしている。
でも、こないだと同じように「おいしい」とびっくりすることはない。
エビの他にいくつか何かを頼んで食べた。
でもやっぱりこないだと同じように楽しくもなかった。
ガッカリしながら店を出てブラブラと街を歩いてみるが、
見るものが平面的すぎて、見上げて見える大きな置物も何か悲しかった。

あのとき私は、恋をしていたのだ。

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最近、打ち合わせやらで人と会うことが増えた。
ついこの前まで全く知らなかった人、
もちろんどこかですれ違ったり、もしかして電車で隣り合わせだったりしても
これまでなら存在にすら全く気付かずに通り過ぎていた相手と話す。
その相手が結婚をしていることを知って、
「私の甥は、身内だからだろうけど、めちゃめちゃかわいい。
早く子どもを作らなダメですよ」と言うと、
「いや、実は、4月に産まれるんですよ〜」なんてニヤニヤしたりする。
「あら〜、まあ〜、働かなダメっすね〜」なんて言って
こっちもついついニヤニヤしたりする。
何かプレゼントでも買ってやらんといかんような気になる。
つい数週間前まで全然知らなかった相手、
繰り返すけど、
どこかですれ違ったり、もしかして電車で隣り合わせだったとしても
これまではその人が生きているということすら想像もしなかった相手に。

以前にあるバーで「動機はどっからくるんだろう」と
無茶苦茶な質問をして、うんうん悩ませた末に、
周りの人や環境からの影響だろうという結論をいただいた。
もっといい答えを期待していたからそのときはガッカリしたのだけど
今になってナルホドと思ったりしている。
人は立体的に見える景色の方向へ、
あるいは立体的に見たい方向へ進んでいく。

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コンタクトレンズ、どんなに目が渇いても、世界が白く濁っていても、
寝るぎりぎりまで入れたままにしておやすみの直前に、
文字通りひっぱがすのですが、
はがしたあと、枕元に手鏡が落ちていたので、何気に覗いてみた。
するとそこには驚愕の色々が映し出されていて、おほ、と声が出た。
凄まじかったのは皺。
目の下に波状の線がぞくぞく編みこまれ、
集合させられ地図のようになっていた。
これは……あの、……皺、よなあ、と思わず声をかけた。
皺に。
ふだんの化粧、肌を見るのはすべてレンズ装着時なので、
近くのものにはピントが合わず、裸目ほどくっきりは見えないにしても
それにしても今まで見てた私の顔は何だったのか。
ないと思ってた皺が突如出現し、これは私が知らなかっただけど
私はそれをさっきまで知らなかったので皺はなかったのだが
今は見えたので皺がある。
これはどういうことなのか。ううむ。
なんかわからんが不穏な感じ。
図らずも裸目で見た自身の顔の細部にぶち当たり、
ここにも決して解決はできぬ、
世界と私と認識の問題の縮図があるのやなあ、難儀難儀。
って鏡を置いたのでした。

そもそもコンタクトレンズを初めて付けて
街を歩いた日のことはとても印象的で、運転してる人の表情、
隣人のまつげ、行き来する人々の服の模様の細かい部、コンクリートの粒立ち、
が、もう、がんがんに見え、その時も今まで私は世界の何を見ていたのか!
と驚愕したものやった。
って世界の彩に圧倒されつつも
そこにもやっぱり確かに同じような不穏があった。
本当はどっち。
人間の目がキャッチ出来る色には限度があるだけで
世界はそれの何億倍もの色を発してるというではないの。
そういうこともあるのだから、ああ本当はどっち。
なんて小学生のようにそわそわした気分になり、
なんやレンズを外してるのと付けてるのとの両方で、
飽きもせんと同じ問題にやられてる始末であります。

※『en-taxi vol.19(2007 autumn)』
「フワッ!&ガチッ!」>「皺のばして皺(文:川上未映子)」より一部抜粋

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映る色は、誰といっしょに見るか、
どんなことを考えながら見るか、によって変わる。
そのときの湿度や温度、人とすれ違う数によってもきっと違う。
何の因果か、という感じのことも作用するだろう。
だから私には、アナタの目に見えるその色が、
本当に私の目に見えているその色と全く同じだとは思えないのだ。