2008/08/24

達観の末。

ドアホウすぎる〜なんてグチグチ思いながら、
おじさま方に散々文句を言いながら、
そしてときにはトッパンの事務所で大声で
なぜダメなのかを周囲に訴えながら、
ようやくラフのチェックが残り半分以下になった。
中に飲みに行ったり昼寝したりもあるんだけど、
それでもかれこれ4日間のチェック作業。
こんなにも赤字を入れることが人生の中であるもんなのか。
でもようやく、峠は超えた、たぶん。

さて、常々私は、書くことによる自分自身のさらけ出しを恥じている。
ブログは元々そういうもんだからもう割り切っているけど、
(だから「いっぱいあってな〜」という言い訳を先にしている)
ま、だから、「書かなければ生活ができない」という状況は作りたくない。
自分の考えてなさや愚かさなんかが文字としてそのまま現れるのは
服を着た大勢の人の前で裸になっているようでけっこうツライ。
実際に会うよりもストレートに、脚色や同情の余地もないままに、
見知らぬ他人に未熟さが読まれてしまうのだから。
それに、切羽詰まれば詰まるほど、コトバは自分自身に近くなる。
それがむしろいいほうに動く場合が半分、
投げつけてしまったという後悔に苦しめられるのが半分、てとこか。
表現する、というのは基本的に恥ずかしいことなんである。

ラフのチェックをしながら怒りの峠を超した辺りで、
なんとなく達観し、そんなことを思ったことがあったな、と思い出した。

もらった約200ページ分のラフには
原稿にあることの何割も反映されていない。
ほとんどが「自分なりの」解釈、「自分なりの」表現だ。
何を確認するための物だと思っているのか、という疑問はさておいて、
理解をしていないということだけじゃなく、
たかだかラフひとつにも関わらず、話の行間を読めないこと、
(「空気が読めない」なんて言わないよ。空気なんて読めなくていいのだ)
ハヤりやイマの感覚とはかけ離れたところで生きていること、
経験だけでしか物を語ることができない傲慢さが恐るべく露呈されている。
準備を怠ったまま時間に追われて作られているからなおさら無防備だ。
つまり今、私は、子どものような屈託のなさで
「ボクってこんな人です」「ワタシってこんな人です」
とにじり寄ってくる産物と格闘している、ってことか。
それを踏まえれば、今私がやっていることってのは、
その人自身を思い切り否定しているということとイコールだ。
…そら疲れるわな。

「表現とは」なんてことを
ストイックに考えてみたこともないんだろうから
作った本人はきっと気づかない。
見ている人だけがそのことを知ってしまう。
コワいね。

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サイズを考えるということは、
ヒトというものを相対化して眺める効果がある。
私たちの常識の多くは、ヒトという動物が
たまたまこんなサイズだったから、そうなっているのである。
その常識を何にでもあてはめて解釈してきたのが、
今までの科学であり哲学であった。
哲学は人間の頭の中だけを覗いているし、
物理や化学は人間の目を通しての自然の解釈なのだから、
人間を相対化することはできない。
生物学により、はじめてヒトという生き物を相対化して、
ヒトの自然の中での位置を知ることができる。
今までの物理学中心の科学は、結局、人間が自然を搾取し、
勝手に納得していたものではなかったか?

※ゾウの時間 ネズミの時間(著:本川達雄/中公新書)より

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毎日は新しい。
あるときポロッと出てしまうコトバは
もしかしたらその次の瞬間、
全く違うものになることもよくある話で。
たかだかラフひとつでセンシティブだね。
でもその一瞬前も、一瞬後も自分には違いない。
新しい毎日を謙虚に受け止めよう、なんて思ったのでした。

さて、仕事に戻ります。

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