2008/09/03

流れる。何度も思う。

やっと、帰ってきた。
…ということばかり書いているのでやめておこう。
ほんの3日ぶりの大阪だが、キモチは数週間ぶりである。
想うことは公私ともに多種多様、
ゆえに随分遠くに行ってきたような感じもする。
明日は高松だけど今日は大阪。
メキシカンファミレスで誕生日の祝いライヴに行ってくる。
それだけはどうしてもハズせない予定だ。

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小さいときから川を見ていた。
水は流れたがって、とっとと走り下りていた。
そのくせとまりたがりもして、
たゆたい、渋り、淀み、でもまた流れていた。
川には橋がかかっていた。
人は橋が川の流れの上にかけられていることなど頓着なく、
平気で渡って行った。
私もそうした。
橋はなんでもない。
なんでもないけれど橋へかかると、
なぜか心はいつも一瞬ためらって、
川上川下、この岸あの岸と眺めるのだ。
水は流れるし、橋は通じるし、「流れる」とは題したけれど、
橋手前のあの、ふとためらう心には強く惹かれている。

※流れる(著:幸田文)

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方丈記「川の流れはたえずして、またもとの水にあらず」云々、
よく人生は川の流れにたとえられる。
川の水は流れのあるところで交わり、
岩にぶつかっては離れ、またどこかで他の流れに別れ、
同じ流れに戻ることもあれば、
さらに分岐して違う流れに交わって行くこともある…云々。
観察をしていればするほど、
あるいはそれを想って街行く人を眺めれば眺めるほど、
はたまた自分のことを振り返っても、という感じがする。
達観や俯瞰から自分を眺めることが必要だと
本能的に思っているときに川の流れを思い出すようだ。
一体、自分は今、どこにいて、どこに行こうとしているのだろう。

いくら決断をしたところで、その決断すら
自分のおかれている状況、つまり自分の今いる流れの
大きな流れの中で、自然に道を定められている気がする、
なんていうのはこれまでだって散々思って書いてきた。
実際、私自身が全ての決断を流れに任せているのもあり、
(いや、そう思うほうが言い訳がしやすいのだ、単純に)
その時間、場所、相手がいる場合はその相手や
それまでに生きてきた自分の流れを見過ごせない。

改めて思えば「今、なぜ大阪にいるのか」というのは、
出身地なわけじゃなし、仕事があるからと移住したものの、
仕事で高松と東京を往復している今では理由を言うのが困難だ。
友だちの多くは昨年のうちに東京へ移住してしまった。
それでも大阪に住んでいるのはおそらく自分の意思である。
「意思」と呼べるほどのものがないから、余計にそう思う。
仕事でもなければ、たとえコイビトがその街に住んでいるとしても、
ココから移動してほんの少しでも流れを交え、
触れ合っていこう、なんて努力すらしないだろう。
ごく自然の流れで会う人だけで充分だと
ワタシのアタマとカラダが言っている。
(だから今、「行かなければいけない」という状況はおもしろい)
諦めが早くて刹那的、だから味わい深い。

この数ヶ月、いろんなことが交錯した。
それでも軸足は、確かにココにある。
それは「流れ」か、それとも「流れに逆らおうとする意思」か。
大阪を出て行くイメージはこの先もない。
意思がないという意味ではなく、イメージとして浮かばない。
大阪が好きかどうかという話ではなく、そういう気がしている。
だから、と思う。
いや、考える材料はそれだけじゃないけど。

で、結局、何が書きたかったのかがわからなくなったんだけど、
(ということは、何を書いているのかもわからない)
とにかく、いろいろ、そろそろ、という気分だ。
会って触れれば安心し、離れて顔が見えなくなった途端に不安になる。
イイコトを言われたときにはうれしく、
言われたことを反芻すれば悲しくてズキズキする。
どちらを意思に反映するべきなのか。
答えはとっくに見えていて、
その決断を急ぐか先に延ばすかの違いにも思える。
流れにまかせるか、流れないように踏みとどまるか。
どうするのが自分にとって一番「やさしい」方法か、
今の私にはよくわかっていない。
挙げ句の果てに思考を閉じてしまおうと結論づけた。
…ま、そう思うのもいつものことか。

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その昔、広津和郎は、散文精神を問われて、
「いたずらに悲観もせず、むやみに楽観もせず、辛抱強く生き抜く精神」
と答えている。
この言葉がボクの心情に棲みついて十五年ほどになる。

人生ながれるままに、だ。
風まかせであるけれども無駄な事など何ひとつないとも考えている。
誰でも自分をわりと神経質な人間だと思っているだろう。
ボクもそうで、些細な感情の行き違いにネチネチ、
グズグズとこだわる性質だ。
こだわるけれども、人はイデオロギーでは動かず些事で成る点を
たいへんに面白がって、全てを創作に生かす術を多少は知っているので、
どんな失敗も背徳行為も、全面的に否定はできない。
愚かであってこそ人間だ。
ある程度の事は、他人を許すし、自分はもっと許す。
元来が臆病なのかも知れない。
どうせそんな事だと思った、と、期待をしないから
裏切られたと思う感情は小さなものでしかないし、
大きな賭けをしないから大失敗もない。
もちろん大成功もない。
そうだ。
見事に平凡な道を歩いているのだ。
今後も、できたらそうありたいと願っている。

※家族の光景(著:畑中純/私/交遊社)

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松本ニイさんに『美女と竹林』が出ていることを知らされ、
東京に向かう段階からずっと書店を探していたのだけど、
(もちろん自分の歩く範囲で、だけど)
ようやく品川で発見。
つい書籍オトナ買いで、
またも「読まねばならん」本の山が高くなってしまった。
…これも「流れ」の産物、行きがかりじょう、である。


追記
東京にて徹夜のラフチェックに
お付き合いいただいたディレクターさんの話。
「パパがいないと眠れないよ〜」なんて
カワイイこと言われているのに
徹夜に付き合ってくれて本当にすいませんでした。
なーんてことを、「はよオーサカ帰りたい」と思いながら、
しかし矛盾する環境下でボンヤリと考えたりもしたのでした。

さて、仕事、仕事。

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行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、
かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
世の中にある人とすみかと、ま たかくの如し。
玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、
たかきいやしき人のすまひは、
代々を經て盡きせぬものなれど、
これをまことかと尋ぬれ ば、昔ありし家はまれなり。
或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、
あるは大家ほろびて小家となる。
住む人もこれにおなじ。
所もかはらず、人も多かれど、 いにしへ見し人は、
二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。
あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、
たゞ水の泡にぞ似たりける。
知らず、生れ死ぬる人、
いづかたより來りて、いづかたへか去る。
又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、
何によりてか目をよろこばしむる。
そのあるじとすみかと、無常をあ らそひ去るさま、
いはゞ朝顏の露にことならず。
或は露おちて花のこれり。
のこるといへども朝日に枯れぬ。
或は花はしぼみて、露なほ消えず。
消えずといへど も、ゆふべを待つことなし。

※方丈記(鴨長明)

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