おとつい。
エリート警察の栗田氏が赴任先だった西宮から東京へ異動とのこと。
何年ぶりかで大学のバスケ仲間で集合、
懐かしの二条駅近くの中華、大鵬で飲んだり食ったり大騒ぎ。
(テリドンで有名、サークルの伝統で、男の子は代々ここでバイトする)
しっかし女の子はひとつも変わらんけど(独身だから?笑)
男の子はタバちゃんの河内なヤンチャ具合が増したくらいで
みーんなおっさんになった。これは結婚して子どもができたせいか。
ミキがおもむろに言い出すには、私らの付き合いはもう12年。
(内、会っていた期間は約1/3、「付き合いが12年」、ん?)
そういえば、といろいろ頭を巡る。
普段無精なくせにわざわざ電話をかけてきた近藤は
女の子がまだ私とグラとモモの3人しかいない時代に
男の子一人でずっと奮闘していた阿波の国のフォワード。
グラの家に私と近藤と3人で集まってはダラダラと飲んで、
グラが寝静まってしまって、間が持たなくなって
デヴィット・リンチの『エレファント・マン』とか、
あーだこーだ言いながらふたりで観ていたり
近藤が好きだったハイスタとか、私が好きだったマゴコロとか
これまたあーだこーだ言いながらふたりで聴いてたりしたなぁ、など。
あれ、そういえばふたりの話に退屈したグラが寝てしまったのか、
どっちが先だったんだろう。
その数年の時期というのは、
ケガをして第一線を退いて
バスケに対する目標を失って悶々としていた時期で、
サークルのバスケで勝つか負けるか必死になったりするのもアホらしく
たかがそんなことのためにディスカッションするのも虚しく
スネてナナメ方向からしかモノが見えずに
学校にもサークルにも行かずにひたすら遊んでいたころでもある。
ふらっとサークルに戻ったとき、
ハレモノに触るようにしてきた他の仲間に対して近藤だけは
アウト・インでポイントを稼ぐプレイから
アウトのみでコントローラー志向になった私をちゃんとわかっていて、
「らん(私)、もうガツガツいけへんねや」とバスケ批評をして出迎え、
「あんたの向こう見ずなプレイは変わらんなぁ」とバスケ批評で返して、
それがあったからまたバスケをしに行くようになった、ような気がする。
何気ないそのやり取りは今もたまにふっと浮かぶ。
栗田氏のおっさん臭いテクニシャンなバスケには憧れたし
ナオキくんの投げやりな思いやりのコトバはぐっとくたし
グラの母のような達観した物言いにはよく泣かされたし
ミキの“KY”なコーフンぶりにはしばし突っ込まなきゃいけなかったりするし
(つまりほっとけないのね)
イヅミの無意味に勝ち気なプレイはそれこそ「ストップストップ」なんて
コントロールしてやらんとなんともならんし、
思い出してフフと笑みがこぼれる印象は、
「付き合い12年」の今もそのまま、か。
でも、なんだかんだ言いながらサークルで
一番最初に思い出すのは近藤だったりする。
特に連絡をするワケでもないし、好きとかそういうことではなくして。
私はサークルでは未だに“ハレモノ”であるがゆえに
一応そこはデリカシーを持って、集まりには参加しないことにしていた。
改めて話すことはないし、同じ思い出も少ないので。
あー、でも、このたびは行ってよかった。
近藤はいつも、こういうナイスなときに私を呼ぶ。
私と同じく、集まりにほとんど来ないタバちゃんも
(「お互いジコチューの位置やな〜」と共感し合う友人である)
そこのこぢんまりとした集合の輪にはいたからだろう、
近藤はホントにうれしそうによく喋っていた。
あのころの悩みなんて、もう笑って済ませられる話だね。
イチビったメガネかけて、ボッサボサの頭でヤツレた顔をして、
ケータイの中の子どもの写真をイキって見せたりして、
ホント、いいおっさんになった。
カラオケはさすがにもういいやという感じもして、
兄さんを呼び出して夜の木屋町をフラフラと飲み歩いた。
酔っ払いの四畳半酒場にて、ニルヴァーナのライヴPA氏を相手に
散々語って周囲をヒヤヒヤとさせたらしい。
大丈夫、PA氏には「アンタはかわいい人やなぁ」と言われたから。
て、これ、気を遣われてるんかしら。
最後はウトウト、兄さんが落ちたのでそのまま始発で大阪に帰った。
久しぶりの京都は、やっぱり朝帰りになる。
出町柳←→淀屋橋を何往復もしなかったことが奇跡だ。
甥の成長をイチイチ喜ぶなんて、私もいいオバハンになった。
ちなみに手前にいるのは弟。
1ヶ月くらい前に帰ったときにタクマは姉と私を間違えて泣いていた。
ざまぁみやがれ。へへ。
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