悪いけど、ヒール役には慣れている。
バスケットボールなんて団体競技をしていくには、
エゴイストで純粋な愛すべきチームメート達の選んだ
「勝つチーム」にすべく“当て馬”に徹したつもりだし、
雑誌を作る上での衝突なんかはしょっちゅうだった。
「嫌われる」?、「衝突する」?、否、
それはいいものと思えるものをチームで作る上で、
必要不可欠な意識や意図の確認作業である。
悪いけど、その中でのヒール役には慣れている。
極論を口走り、できもしないことをふっかけて挑発する、
間違っていることを間違っているとわかって言ってみる、
それは私の得意芸、要するに考えてもらいたいのだ。
自分の立ち位置が、なんてつまんないことよりも
ゴールを見て、客がいれば客を見て、
ベストな方法を選択してほしいというのが意図である。
てなことを今日の朝、勇気を振り絞ってやった。
ま、認識違いというのはよくある。
その原因はクライアントどうこうというよりも
スタッフ間での認識の共有なさからくることが多い。
制作的に言うと、ま、こと作業となれば余計にだが、
クライアントの顔よりも、どっかから仕事を流用してくれそうな
同じ仕事をしている仲間に意識がいくのは当然だ。
同じ時間を過ごすことも断然多いだろうし。
でも、そもそも自分のやる仕事の意義を思えば
「いいもの」を作るに越したことはない。
仲間内でなぁなぁになって許し合うのは結構なことだが、
それでは相手に気遣うばかりで、本当に自分のフィルタを通した
クライアントの客に向けての表現はできない。
運良く、か、私はスタッフの中で最も若い。
しかも制作スタッフでは情報を多く握る位置にいるときてる。
その立場を利用しないテはないんである。
「生意気に何を言ってるんだろう」と思ってもらえたらしめたもん。
というか、そう思ってもらわなきゃ、
今のままでは次のステップに進めないんじゃないだろうか。
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こんなに痛い経験をしたにもかかわらず、野性的なお跳ねはしずまらなかった。
しかし一方にはまた、お嫁さんお婿さんの話でがっかりとめいってしまうような、
女の子本来のところがないでもなかった。
身につける美しい着物がほしかった。
簪がほしかった。
縁日の晩、ほろほろと揺れる灯に鍍金とガラス玉で光る簪には何度見とれたろう。
でも、友達が自慢そうにそれを買うのを見ると、
なんだあんなものをと軽蔑した。
ははが「虚栄は悪魔の囁きなり」と教えていてくれていたからでもあり、
簪は虚栄と信じていたからである。
それに、ちいさいときから何かほしくても
なかなかねだらない意地っ張りがあった。
あまえる調子というものが気恥ずかしくて、
よほどどうかしたうまい拍子ででもないと、
すなおにあまえ言は口に出て来なかった。
友達がおかあさんに抱きついて、
「ねえ、ねえ」なんぞといっているのを見ると、
ことにそれが食べものを買ってくれとねだっているのを聞いたりすると、
なんだかぞっと鳥肌だつようにいやだった。
離乳期をとっくに過ぎたくらいの子供がだだをこねて、
飲みたくもないお乳をせびっているのなどに出会うと、
ぴしゃんとたたいてやりたいほど憎らしかった。
それが後年自分も子供を持ってみて、なお厳しくなっているのに気づいた。
よくどこでも見る風景で、
あまえた子のなぶるままに胸をあずけている人がいると、
その都度私は皮膚的にたまらなく不快が走った。
母親には子のあまえがほんとに必要から生じているのか、
いたずらのあまえか明瞭にわかる。
幼い子になぶること、もてあそぶことを許しておくべきでないと
その話をしたら、ある人が、
「あなたは子供の頃からおそろしく強い人ですね」と返辞をした。
性感とだけでは、なるほどというわけには行かない。
とにかく、すなおにあまえられない私の性質に油をそそいだのはははである。
「だらだらとしないのは文ちゃんのたった一ツの取り柄だ」と褒めてくれる。
女のあまったれは不道徳であり、毅然としていなくてはいけないのだという。
私は、いったい誰があまったれなのか知りたかったので訊いてみると、
うちへ出入りしている女の大抵はそれであり、
ひとりははのみ、「私はあまえたことはない」とはっきりいうのである。
身みずから範を垂れたのだろう。
私はいよいよあまったれ技術習得のチャンスを失い、
ほしいものは抹殺してしまうことに強くなって行った。
あまえということは誰しもどこかに持っているらしい。
すなおでなく、ちょっとぎこつとした構えのようなものを持っているのは、
強いようにも考えられるがその実あぶなっかしい性格であり、
よいほどにすらりとあまえられる人のほうが、
不潔なあまえに毅然たる態度を持して行かれるのではあるまいか。
※ゆかた(文:幸田文/みそっかす)より
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そのスタッフの元締めとはよくやり取りをしているが、
そういうメールを「転送してほしい」と送ってしばらく後、
本当に送って、印象を悪くしていいのかと質問されてがっかりした。
これまでも散々、私が思っていることを
思っている通りに「西村がこう言っている」と言ってくださいと伝えている。
制作の窓口である彼にそう伝えていることで覚悟は決まっていた。
じゃ、一体、この人はこれまで私のどの部分と会話をしていたんだろうと。
きっと、思ってもらっているよりも肝は座っているし、
思われているよりも目的はかなりハッキリとしている。
グジャグジャというよりも、どうすればうまくいくのかを考える段階にきている。
悪口や不満を言っているんではなく、問題点を明確にして
解決していこうというメールじゃないか。
意思がないというんであれば、作るようにコントロールすべきである。
「転送する/しない」を任せたのは、自分のメンツではなく、
彼の立場に都合が悪ければ、ということでしかないのに。
今日、彼が時間のない中、苦労をして作ってもらった提案物は
思っていた以上に相手に喜んでもらえた。
「なるほど、こういうふうにモノって作っていけば安心できるんですね」
「今やってる号のチェックで疲れてたんですけど、
今回は何もしなくてよさそうですね。ちょっと休みますね。笑」と。
中でもきっと、彼が楽しんで作ったであろうタイトルロゴは
「あ、これ、かわいい〜」「これ、いいですね」なんて喜んでもらえた。
そのことがとてもうれしかったことは説明するまでもなく。
自分らに伝えたいことがたくさんあるクライアントから
「でもボクたちは作ることができないし、
外の世界を知らないから冷静な判断もできない。
変わらなきゃとは思っているけどどう変わっていいのかわからない」
と言われて奮起しないワケはない。
もちろん、たくさんの制作物を作っている会社である。
スタッフの顔や反応を見て、どんなものができるのか、
なんて推測することには慣れっこ、
ガッカリさせられたことだってたくさんあるハズなのだ。
そのクライアントから「よかった、ホッとした」と言われることを
私は単純にうれしいと思う。
そのために仕事をしていると、確認できる。
で、未だに純粋にそう思えるということは誇らしい。
フリーになったのは、もっといろんな人の役に立ちたいと思ったからで、
何も自由にやりたかったからってワケじゃない。改めて。
その軸足はブラさないようにどんどん先に進めていくだけである。
ま、もっと、そういうキモチが伝わってくれたらいいなとは。
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