そのややくたびれた哀愁の町並み
見たこともない旧式のベンツ
川で洗濯をするお母さん
イワシの塩焼きの匂い
愛想はないが、もの静かで心やさしき人々
何もかもが心地よく心と体に染み込んでくる
ただひとつしんどかったのは、小さな村に行くと
そこに居る村人全員に見つめられることだった
でもあれから16年
ポルトガルの印象は熟成するポルト酒のように
年々豊かになるばかりだ
※『翼の王国(2001.11)』
「まなざしの彼方(文:齋藤亮一)」
--
瞬間的な衝動に反射神経で応える。
それは瞬きにも似た感覚。
数時間前の像を呼び起こし、焼き付け、再び過去を旅する。
目の前にある、二度と出会わないであろう今を、
一瞬にして時流の産物にしてしまう。
過ぎ去りし時に皆、「ああだ、こうだ。」
思い出を語るには、あまりにも乱暴ではかない行為。
切り取られた像は有無を言わさず、刹那の現世界。
写っている事物のみがリアルな形状を語らう。
感情の入り込む余地など皆無に等しい。
本来写真とは、そういった欠落の連鎖から
抜け出せないものなのかもしれない。
けれども、空間が二次元に燃やされながら永遠に過去へ追いやられる傍ら、
一度手を離れた写真等は、見る人の情操に紛れ込み、根を下ろす。
すでに苔を落とした世界はあらゆる眼光を浴び、
内に秘めた思いをじわりじわりと吐き出すかの様に再び光合成を始めるのだ。
花達は、自らを装飾するかの様。
匂いにも似た色気を滲ませてくれる。
彼等の色っぽさに、僕は心奪われ、陶酔する。
不思議なもので趣の一切を受け入れないであろう写真は、
矛盾との同時性のなかで余情をまとうのだろう。
この所僕は、再度蘇生した世界から
頻繁に余情めいたものを感じ、それらを快いとさえ憶う。
※『81LAB. vol.9』
「29℃ 12分。焦げたフィルムの果てに(文:横山隆平)」
--
実際にサント=ヴィクトワール山を目にして驚いたのは
方角や距離、さらには光線の変化によって
まったく別の表情を見せることだった
山はまるで描かれることを拒んでいるように感じられた
その後、あらためてセザンヌの絵を見てみると
まずそのサイズに驚き、質感、色、グラデーションといった
画面を構成しているあらゆる要素の的確さに心を奪われた
そして自分が記憶していたものが
いかに曖昧で僅かなことだったかを思い知らされた
それは「写真を見て知っている」という
認識の危うさがもたらすものだ
私は写真を撮りますが、見えてることだけを信用していません
見ようとしたことがそこに現れていなければならないと思っている
※『翼の王国(2001.11)』
「まなざしの彼方(文:鈴木理策)」
--
ロバート・キャパが来日したときのことだが、
おそらくは本人が気がつかないうちに撮られたのであろう、
一枚のスナップ写真がのこされている。
キャパはそれを見せられて
This is certainly myself.
という一行を添えてから、キャパと署名したという。
certainlyというのは、字義通りに受けとれば
「確かに」ということになるが、
そこにはむしろ「不確かさ」のニュアンスがありはしないだろうか。
いつも撮ってばかりだったのが、
いきなり被写体になったという戸惑いもあったことだろう。
あるいは、そこに世界的な報道写真家ではなく、
ハンガリー生まれのアンドレ・フリードマンが写っていることに
不意を打たれたのかもしれない。
絵画のような注視のメチエに対して、
写真はまなざしのようにすばやい。
まなざしのようにきまぐれだ。
写真はカメラアイという客観性を特徴とする機器というよりは、
まなざしによって事物を知覚する人間もどきの何かなのだ。
人間が旅をするように、カメラも旅をする。
世界の果てまで行きたいという欲望は、
未知のものを見たいという衝動でなくて何であろう。
人間の眼玉、カメラのレンズ……、
そのまなざしの彼方には、何があるのだろう。
※『翼の王国(2001.11)』
「まなざしの彼方」
--
いつか誰かから「アナタは記録をしたいんやね」
とわかった風に言われたことがある。
伝えたいなんてハッキリと言ってしまうのも少しおこがましく、
じゃあ一体何をしようとしているのか
迷っていたときのことだった。
たしかに私の中で情報は、
啓蒙するための道具にも物を売るための道具にもならない。
見ているものを見ているままに。
文体や方法よりも、私に見えた事物や出会った人に誠実に。
一度自分のフィルタを通したものならば、
あえて味付けなんかしなくても「私に見えたもの」。
そうやって何かを追っかけたいって理想は
きっといつまでも変わらないことなんだろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿