超大作ドキュメンタリー映画を観て涙々の感動の帰り、
エレベーターで、「もっといい映画を選べへんかったん?」
と旦那と思しきオトコに不満を洩らすココロない年配婦女子。
シット、ダマレ、と言いたいその一方で、
ま、わからんでもないとクールに思う。
表現法、ビジュアル、リズム、コトバを
全てアドバタイジングと捉えるのであれば。
とある飲みの場において、とあるフリーペーパーについて、
「ファッションとして地雷を載せるのはどうかと思う」
ととある女子が発言したことについて、
いや、実はそのほうが効果が得られるのではないかと、今さらに意見。
今、世界は、良識や信仰よりも広告、
つまりキャッチーであることがイノチと。
かっこよくなければ、美しくなければ、おもしろくなければ、
そして何より、露出が多くなければ、何を申したところで届かない。
ネットを開けばことさらに「炎上」「炎上」とハヤしたてる文字、
駄作と想像されるラブストーリーの映画も
レビューでネット炎上、それをさらにニュースが伝えることで
広告として効果があがる。
こき下ろした評価が多くなるごと、
どれだけおもしろくないのかを確認するために
映画館に向かう人、書籍を買う人は多くなるだろう。
見え透いたあざとさは恐ろしく安易な行動を喚起するが、
その全てを軽視すべきでもない。
良いか悪いか、許すか許さないかは別として、
今、モノゴトを伝える最も効果的な手段のひとつには違いないのだ。
いや、そこに「伝えているモノゴト」が
内包されているかどうかもすでに別の話になるのか。
途中で席を立つ人、エンドロールが始まると同時に席を立つ人、
とにかく、最後まで観客を惹き付けることができなかったのは確かだ。
彼らはおそらく遊園地的快楽を求めて来たのだろうが、
その消費者としての行動動機を責めることはできない。
「ファッションとして地雷を載せるのはどうか」とは、
「ファッションとしてドキュメンタリーを作れなかったのはどうか」
をむしろ考えさせられる。
同じ彼女が、自らのライブをトーキョーでやった感想として言っていた
「スタンプラリーみたいに、来ることだけが目的の人が多くてイヤや」
は消費者行動を助長するものとしての「広告」の根本を覆し、
ウェブ、ケータイ以降から、最も効果的とされている
「つながっている感覚」戦略を真っ向から否定している。
それには激しく同感する。
それとは別の話として、映画はすばらしいものだった。
最後のホッキョクグマ餓死のシーンではウッとなったが
その後の「さまざまな生物の生きる場がなくなっている」
のナレーションは蛇足であった。
コトバはときに不要である。
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