それはメダカも同じことか、
モケモケに広がったウィローモスに姿を隠しながら、
カラダが絡まってウィローモスの迷路から抜け出せなくなること、多々。
何度も同じことをくり返す。
あの小さな頭では、危険信号は書き加えられないのか。
でも、私(=エサをくれる人)が寄っていくと、
水面に向けてスイーッと近づいてくる。
うちにやってきたばかりの頃は、
「何やらわからない大きな生き物がきたー!」
「わー」「きゃー」といった様子で逃げ惑っていたのに。
ゲンキンなもんやね。
子メダカたちは80匹近くもいる。
過密に過ごすことを避けるために、
バケツ(といっても、小物入れのような)を5つにわけて様子を見ている。
どれも同じように土や水草を入れて、同じ水を使っているにも関わらず、
すると、あるバケツではよく死んでしまい、
あるバケツでは元気いっぱい、みたいな感じで様子が様々。
あまりにもバケツごとで個体数の差が大きくなってしまったので、
また、どのバケツも同じくらいの個体数にするために数を調整してみたら、
今日はまだ3日目だけど、みんな麗しく元気。
一体何が原因だったのだろう。
ちなみに、大きいものでは体調約9mm、
新しく生まれてしまった子が混在していて、それらは体調約3mm。
大きさの違うもの同士ではつつき合いをしない。
(というか、小さな子たちは、十分に警戒をして逃げている様子)
大きさが似たくらいのもの同士では追いかけっこに発展する。
元気なバケツでは追いかけっこが頻繁に見られた。
これらは、関係するのか??
それとも、微妙な水質の違いだったり光量だったりするのだろうか??
また少し、様子を観察してみようと思う。
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広島城のお堀端を歩くと春の匂いがした。
鳥がさえずり、桜のつぼみは膨らんでいる。
そこかしこに生命の息吹が感じられる。
その一隅に、枝もまばらなクスノキが1本、力なく立つ。
きのう朝、樹木医が手当てした。
樹齢100年余り。
幹に残る焼け跡は67年前のもの。
厚い樹皮は1.1キロは慣れた爆心地からの熱風に耐えた。
だが反対側にある陸軍幼年学校などが燃え、
炎で「やけど」したようだ。
衰えは目立つが記憶を長く伝えてほしい。
やけどを負った被爆者の人形が原爆資料館から姿を消すらしい。
幼い頃の記憶がよみがえる。
焼けただれた皮膚を垂らして歩く子はどうなったのかと、
夜も頭から離れなかった。
市は3年後にも現物の遺品類に切り替える方針という。
人形が怖いーー。
旅行代理店アンケートにもそんな意見があった。
一方で被爆者は、現実はこんなものじゃなかったと言い続けてきた。
撤去方針は時代の変化というしかないのか。
あの日を知る人が少なくなってきた。
原爆の恐ろしさをどう伝えたらいいのだろう。
土を替え、肥料を与えられたクスノキ。
新芽を吹けば、夏には葉っぱが増える。
語らぬ木が見た光景をじっくり想像したい。
『中国新聞』2013年3月17日
「天風録」より
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広島に移り住んで気づいたのは、「平和」への想いの大きさだった。
それは、新聞やテレビでの報道でも見られるし、
街の取り組みの一環としても見ることができる。
そうでなくても、たとえば街で掲げられている何気ない一言や
何気ない置物、花や木や何もかもに、ふと、
それは、新聞やテレビでの報道でも見られるし、
街の取り組みの一環としても見ることができる。
そうでなくても、たとえば街で掲げられている何気ない一言や
何気ない置物、花や木や何もかもに、ふと、
怒りや憤りを乗りこえて、自らがつかんできた希望の足跡を感じる瞬間がある。
能天気でも空元気でもない、生きていく、という強い足音を感じるときがある。
軽々しく、カンタンには口にしてはいけないような気がしてしまう。
能天気でも空元気でもない、生きていく、という強い足音を感じるときがある。
軽々しく、カンタンには口にしてはいけないような気がしてしまう。
母が広島出身なので、母の里帰りに合わせて、
幼い頃から原爆資料館に年に一度行った。
その度に不安で夜は眠れなくなるのでイヤだった。
なのに、あそこに掲げられている絵画や人形たちのその後が気になって
高知に戻っても図書室で原爆関連の絵本を怖々開いてしまうのだ。
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