生来、アタマの硬いヒトだと思う。
子どもの頃のハナシを母に聞くと
本当に恥ずかしくて赤面するしかないけれど、
「腹が立つ」とヒトコト言ったら最後、
理由も言わずにただ黙って怒っていたらしい。
最近の怒り方は、またそういうふうになってきた。
苦手とするヒトが事務所に来たときに
私は黙ってパソコンの画面を見ながら忙しいフリをし、
彼がかまってほしそうに何か言っても
「忙しいので」と返してしまう。
「忙しいフリ」は、彼が帰った後も直らずに
不機嫌そうに黙々と「忙しいフリ」をするしかない。
まぁそれは、素直にいられる事務所だから
「忙しいフリが直りません」と告白できて今はラクだ。
その「彼」が自分とこのイヌを連れてくるときなど、
お茶を入れてニコニコと遊んでいるのだから
ゲンキンにもホドがあるというもの、
一体、私はなんなんだ、ということになる。
私はこの「硬さ」でどのくらいのヒトのことを
心底キズつけたのだろうか。
ときには態度で関わることを拒み、
または粗雑なコミュニケーションを繰り返し、
ときにはコトバで必死の抵抗をし、
あるいはこのブログでもいろんなことを書いてしまった。
過ぎたことは仕方ないけど、
頑とした自分を振り返るにあたり、
すでに「赤面する」の域を超えて
反省と後悔とでドキドキして冷や汗をかいて焦る。
「イヤ」というものを「イヤ」と言わずにはいられないけど
もっと他にやり方はあっただろう。
今ならもっとうまくやれたんじゃないか、なんてことも思う。
なんてことをしてしまったんだろう、と思う。
ただの自分が思う「正しさ」だけを振りかざし、
「わからないこと」をわかろうともせず
わかったような気になっていただけなのだ。
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もちろん、どこにでもあるという訳ではない。
そう希むのは、文明人の奢りというもの。
けれどないとなると、
寂しくてよるべない心持ちになるのは、どうしたことか。
コーヒーやお茶を喫みたいというだけじゃない、
そこに流れている時間にひたっていたいのだ。
旅人にとっては、心の渇きをいやしてくれる、
沙漠のオアシスのような場所。
パリのカフェは落ちつかない、といったら、
たちまち反駁されるだろうか。
すばしこい眼差しの好感こそ、パリのカフェの身上。
着こなしを値ぶみしたり、
アムールの矢を放っておいて、
知らんぷりをしたり、きわめつけのフランス式だ。
それだけじゃない、
年季の入ったギャルソンの、身ごなしの優雅さといったら。
パリのカフェでは、
みんなが臆面もなく自分のシャンソンを唄っている。
とてものんびりしてはいられない、
と憎まれ口をたたきたくなる。
それじゃあ、王道をゆくウィーンのカフェへ、行ってみようか。
とびきり豪奢で、ひっそりと静まりかえっている、
うやうやしく一杯のウインナーコーヒーが献じられるための大聖堂。
文句のつけようのないもてなしだが、
夕べに一人でいると、
水に浸っている棒杙になったような気がしてくる。
このメランコリーこそが、
ウィーンのカフェの隠し味になっているのだけれど。
いますぐ潜りこみたいのは、プラハのカフェだ。
壁いっぱいにポスターが貼ってあって、
いつまでも学生気分の抜けない、
パイプ煙草の匂いのするカフェ。
ぼんやりと愁いに沈んでいる青年もいれば、
怒ったようにまくしたてているパンクな少女もいて、
まるきり統一がとれていない。
このカフェに小説家のハシュクやチャペックが来て、
絶望したり気をとりなおしたと思うだけで、
コーヒーの苦みがいっそう深くなる。
テーブルの下に猫がいたり、
古くさいストーブに火が入っていれば、
もうなにもいうことはない。
チャペックの園芸についての小さな本にあったことばが、
どんなふうに春を待てばいいのか教えてくれる。
「おれたちのさびしさや、
おれたちのうたがいなんてものは、まったくナンセンスだ。
いちばん肝心なのは生きた人間であるということ、
つまり育つ人間であるということだ、と。」
カフェなんてどこにでもあるだろう、
といって油断していたら、
路地がなくなるようにカフェも消えてしまった。
どこもかしこもスベスベして、
詩人も、画学生も、猫も、いづらくなってしまった。
ボヘミアンという種族がどこへ行ってしまったか、
だれも気にとめたりしない。
新しいものを見たいという慾求を、
とがめようというのではない。
ときどきは、古くて傷んだものがいとおしくなって、
夕日を眺めたりプラハへ行きたくなるというだけのこと。
ぼんやり、知らない町の歩いたこともない路地に、
そのカフェはあるかもしれない。
ぜんたいに煤けていて、
木のテーブルには歳月が肘をついた窪みがある。
暖炉にはブドウの枝がくべられていて、
いい匂いがたちこめているだろう。
疲れからウトウトしているうちに、
ほのかな香りがしてくる。
カリブ海のどこかの島で、
摘まれたコーヒーのエキゾチックな香り。
それこそは、南からの思いがけない便りだ。
コーヒーを飲み干したときには、
愁いをふりはらって行かなければならない、
と青年のように思いつめている。
アンディアーモ!
さあ、行こう。
イタリア人でもないのに、こう口にしている。
どこへ行くかは、悪魔にまかせて、
さあ、とにかく行こう。
「Bon Bon Voyage 名もないカフェ」(文:佐伯誠/翼の王国2004年2月号)
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わからないことを正直に「わからない」と言うのは
本当に勇気のいることだと、今でも思う。
バカにされるんじゃないだろうかとか、
「私のコトに興味がなさすぎる」と思われるんじゃないかとか。
知っていることを自慢に思うとか以前のところで
「知らないこと」を恥じてしまう自分がどこかにあって
ワードだけを必死でメモして、
知ったフリも、知らないと正直に言うことも、
できずにいることが多い。
今朝、先輩に「私は知らないことが多すぎる」と告白したら
「年数も経験も違うから当たり前や」と窘められてホッとした。
人に対してもそうで、
たとえば「この人はすごい人だ」と最初から決めてかかると
ほんの少しの油断もできないカチンコチンの状態になり、
思っていることをひとつも言えなくなる。
というか「思う」ということができなくなる。
つまり、その時点では全く意思が働かない。
それがときに自分の感情の中に
イヤな気分を醸造していたのだろうか。
わからないことを恥じながらも
「何ですか、それ」と言ってしまえばいいのだ。
虚勢を張って、無理矢理に
同じ土俵に立つ必要は全くない。
自信のなさが「虚勢を張る」を促していたならば、
とっとと「それ」とは関わりを絶つのがイチバンである。
追記
今日は事務所にひとり。
仕事できないから必死のパッチなのだ。
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