2009/12/02

今週は。

今週からピンの仕事が入って、気合い十分のスタート。
さっそくながら、下着の取材に勤しんだ月曜日でした。
企画には一切関わっていないし
ディレクターさんもデザイナーさんも初めましてだし、
勝手がよくわからなかったけど
商品のことはバシバシと聞けたと思う。
ま、とにかく、ここからスタート。
新しいカタログの立ち上げとなったわけです。
あと、プラスでボスからいただいた仕事を。
新しい家具のカタログの情報整理だけど、
家具のカタログに関わるのはお初で、
これまた勝手もわからないままに
しつこく質問しながらようやくページネーション案完成。
あとは撮影の香盤表と大貼りの原稿を作って
来月の撮影に突き進む、と。

とにかく、勝手のわからないことだらけ。
他の人がやったほうが早いこともわかっているけど、
そこはちょっとガマンしていただいて
辛抱強く付き合ってもらわないと。
とにかく、経験の浅さを思い知ったのでした。

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風景とは、我々身体の外にあると思われがちだが、実は人の中にある。
風景は空間そのものではない。
あくまで人が、目からだけでなく
身体全体から受け取っているものの「感じ方」である。
人が居なければ空間はあるが、風景はない。
モノの輪郭も、その風景の中にある。
つまり人の中にある。
そして、幸か不幸か人間だけが意識的に輪郭をつくることができる。
動物や植物が輪郭をつくったとしても、
輪郭をつくろうとする意識がないから
どこにも矛盾や破綻という概念がない。
自然のまま、在るがままでしかないのである。
それが、輪郭を自由自在につくれるようになってしまった人間から見ると、
皮肉にも美しいのであり、
そこに馴染む心地よさを感じたりするのである。
デザインという行為は、人が意識して輪郭をつくる行為と言ってもいい。
それゆえ、とかく人の欲望が輪郭に出る。
それは、デザイナーの自我や
売り上げを伸ばすためだけの流通論理などである。
欲望を表出させた輪郭が心地よい風景をつくるとすれば、
こんなに簡単なことはないので
本来デザイナーの職能など必要ないのかもしれない。
現代は人の欲望で輪郭がブレているモノ達で溢れている。
そのようなモノがほとんどであると、
人の感覚もそれに慣れてくる。
本来の心地よい輪郭を越えて、
ノイズになっている空間があたりまえになる。
これは感覚が麻痺している状態に近い。
このような強い主張がぶつかり合う環境にあって、
突然心地よい風景に出会った時に、
いかにそれまでの環境が心地よくなかったかと気付くことになる。
デザインの仕事をしていると、
デザインが消えかかったと思える時が訪れる。
そのモノの本来あるべき輪郭が見え隠れした時だ。
その気配をつかめば、あとは消えたと思えるところまで
突き詰めていけばいい。
本来、デザインはモノを通してコトに導く途中にあるもので、
適度に気付かせてくれて、
そのうち自然に生活の中に溶け込んでほしいものである。
デザインは、人工によって自然を探すことなのではないか。
深澤直人と藤井保の試みは、
そういうことを考えさせてくれる。

『THE OUTLINE 見えていない輪郭(深澤直人+藤井保)』解説より
(文・佐藤卓/アシェット婦人画報社)

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「答え」を探そうと急げば「答え」はプイッとそっぽを向いて、
こちらを見ようとすらしてくれない、ようなことがよくある。
いや、それが「答え」だ、と思ったことが「答え」になりきらない。
カンタンにピュピュッと、では浅はかで物足りない。
修行不足、執念不足。
毎度、ああ悔しい、の一言。
見えていないものが見えるようになればいいのに、と。
さて、仕事、がんばります。

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