そういえば、このゴールデンウィークには
マコちゃん夫婦と、
あと元『西の旅』編集の後藤さんが
私の家に遊びに来ていた。
最初の日は、私の家の周囲を散歩して家の料理を食べ、
次の日は四国山地のメインスポットでもある
天狗高原から大野が原をドライブ、
夜は高知市内へ繰り出し、たらふく魚を食べた。
翌日は朝から植物園を散策して
高知の中央市場の中の寿司を食べた。
山ではアブラメやワラビ、ウド、ゼンマイの山菜を。
海そばでは豪快な高知の魚を。
海を感じることはできなかったけど、
自然を肌に感じることができたんじゃなかろうか。
たくさん詰め込みすぎて時間が足りないように思うほどで、
きっと満足してもらえたと思う。
後藤さんはその後、うちの姉といっしょに
ロギールさんの家で紙すきを体験していた。
そこには私は参加できず残念でした。
とにかく、そんな訪問があって、
クルマでの移動中だったか何か、ふとしたときに
後藤さんが「鯉のぼり、すごいですね」と言っていた。
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黒田家
60年代のグループサウンズの音楽が
カセットテープから流れるなか、
二人の男がスーッスーッとハケをすべらせていた。
「さあ、次は緋鯉にいこうか」
「あいよっ」、
そんな言葉だけでそれぞれの道具を持ち出し、
一人は尻尾から鱗を、
一人は頭から目玉を描きだす。
ひとハケごとに一枚の布は鯉に生まれかわっていく。
ほぼ同時に作業が終わった。
宇和島は漁業の町だ。
明治38年、黒田旗幟店は
ここで大漁旗を作る店としてスタートした。
もちろんいまも大漁旗を作るが、
年が明け5月までは鯉のぼりにかかりきりだ。
その手法は昔からかわらない。
紅で下絵を描き、ノリを置く。
大豆粉を水で絞った「ご汁」で下染め、
カキ渋と油煙をまぜた黒で鱗を刺す。
そして色止め。
この作業の合間にそれぞれ乾燥が入る。
突然、雨が降ってきた。
二人は中庭に干してある9メートルの鯉のぼりをとり入れに走る。
勉さんと健さん、昭和26年生まれの双子だ。
兄の勉さんは高校卒業後、この仕事についた。
弟は大学を出て福岡の会社に勤めたが、
「人手が足らんから帰ってこい」と。
子どもの頃から自宅の横にある作業場が、
二人の遊び場だった。
遊びながら祖父や父のハケを洗ったりした。
大人になったいまもそんな気持ちが残っているのだろうか。
作業場の音楽がベンチャーズにかわる。
二人の共通の趣味は60年代のロックレコード収集。
「兄は社長、資金力が違うからとてもかなわない」、
一瞬、40年前の弟の顔になってそう呟いた。
※『ひとつ屋根の下で。』
翼の王国(1998年3月号)特集
(文/こうちえいこ、間庭喬平)
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他の地域だとうどうなのだろう。
今は四国でも数は少なくなったのだが、
未だに川を横断して鯉のぼりを流す家がけっこうある。
山合いのイナカになってくると、
鯉のぼりの数はさらに増える。
どうやら子どもが生まれたときに
贈答品としてもいただくようで、
勝手な予想だけど、子どもの誕生に対する地域の喜びは
イナカであればあるほどに大きくなる。
(基本、じいちゃんとばあちゃんしかいないから)
となると、鯉のぼりの数は、地域の喜んだ数だ。
残念ながら、ゴールデンウィークに
ヨソの地域へ行ったことがないから、
他のとこでどうなのかはわからないけど。
追記
こないだ、偶然にも姉の同僚となった入交さんが中心となって、
東京からの客人を招く飲み会が開かれた。
場所はなんと臨水。
臨水と言えば、先日ミーツの高知取材でも
土佐のお茶屋遊びをご教授いただいた料亭。
全く知らない人たちに囲まれながら、
おいしいお酒に溺れてしまいました。
(案の定、食べ物はほぼつつけず…)
ワチャワチャとした平和な会になってとてもおもしろかった。
さてこの東京からの客人たち。
なんと、「新聞バッグ」を作り、「おきゃく電車」に乗り〜と、
高知のA面をかなり堪能したそうな。
私もこのツアーに参加したい!
(というか、おきゃく電車に乗りたい)
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