以前、ミーツで温泉の特集をしたとき、
2泊3日で松山への旅をさせてもらったことがあった。
ネタのほとんどは地元の情報誌編集部に教えてもらったのだが、
そのうちいくつかは取材を巡りながら
ヒョイとおじゃまさせてもらった店である。
露口は、そのいわゆる飛び込みで取材させてもらった店だった。
店は今年で50周年になる。
サントリーバーを普及させるために大阪から松山へ派遣された露口さん、
今年で72歳である。
たったの一代で50年も、という店は他の街にもおそらくは存在しない。
おとといからまた、松山へ来ている。
今度は旅雑誌の連載コラムにある店データの裏を取るための取材だ。
もちろん露口もというので、無理矢理に私は仕事をもらったような感じでもある。
いくつも店を回った。
旧い店、新しい店、松山のこの小さな街に店はギュッと詰まっている。
大阪のキタやミナミなんかの都会でならわかる。
しばらくいた高松でもこの密集さはまだ実感できていない。
瀬戸内に面する今治からの小魚、京都にも出荷している鱧、
それに、有名処高知よりも水揚げ量が多いとされるカツオもと、
魚の量は「市場街」と言われている街よりも多そうだ。
さらに夏目漱石や正岡子規の愛した文学的な街に似合う
ハイカラの洋食の店も多い。
そういえば初日に行った旧いバーではタンシチューを出してもらった。
甘く炊いた玉葱、分厚いタンのレアな肉感が官能的だった。
そこでは71歳のママが立つ。
「家族連れで来られる人もおりますよ」とママは笑って言っていた。
タンシチューは、ママが三越の喫茶店に勤めていた頃、
覚えたままの味だそうだ。
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(前略)
さて、松山には、私が特にごひいきにしている瀬戸内の味「たにた」がある。
この店を女手ひとりで築きあげたのは谷田真理子さんである。
真理子さんと私は真実の姉妹のようなつきあいをしていた。
松山に「日本盛酒坊」という店があり、
そこの店長として働いていたのが真理子さんであった。
真理子さんのかたわらにお母さんのマサさんが立って、
お酌をしたり洗いものをしたり、
なにくれとなく真理子さんを助けておられる。
その母娘二代のカウンターに立つ姿が評判となり、店は大繁昌をしていた。
お子さんの龍一さんはまだヨチヨチ歩きの坊やであったのだが、
“好事魔多し”の諺どおり、店主との間がもめて、
真理子さんは「日本盛酒坊」を辞めて独立することになった。
行商をしながら苦難に耐えて、小さいながらも店を持ったのだが、
契約などの条件について無知であった真理子さんは、
すったもんだのあげく、新たな決意で二番町に季節料理の店を造った。
幸いなことに、長男の龍一さんが板前修業を終え、
幼なじみの月乃さんと結婚して店を手伝うようになっていたから鬼に金棒である。
祖母(マサ)ー母(真理子)ー嫁(月乃)と
三人三様の美しさに輝く女性がカウンターに立って、
お客さんをもてなす様は実に素晴らしかった。
(私は伊予松山女三代記という随筆を書いたほどであった)
無理がたたったのか、マサさんが倒れ浄土に迎えられた。
そのあとを追うように五十四歳の若さで真理子さんも逝った。
昭和六十二年七月である。
遺された龍一さんと月乃さんのけなげな働きぶりは涙ぐましいほどであった。
真理子さんの気配りがゆきとどいていた店だけに、
真理子さんの遺した形のない財産であるお客さんは、
日本のあちこちから寄ってくれる。
(後略)
※『おいしいもの見つけた(佐々木久子)』ミリオン書房より
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たにたにも行かせてもらった。
上の引用文は、たにたにていただいた本からだ。
昨日はいよいよ露口の取材。
超老舗のバーにて、カウンターに立つ夫婦の
子・孫の世代の客で店はいっぱいだ。
ご主人・高雄さんの「ボクは静かにちゃんと店をやりたい」のボヤきに反して
横では奥方・朝子さんの「まぁまぁ、もっと寄り添ってやろか?」の笑い声。
こんなに永く街を眺めていた店であるのに、
敷居など皆無、あくまでも街場のバー、というのがサイコーにかっこいい。
5つも先の席に座っていた紳士はなんと東京から、
「なんとなく露口に来たくなったから、出張にしたんだよ」と。
松山の街は何もかもを受け止めてくれる。
でもだからといって、グラグラとはしない。
先日、飲んでいた席で、
「品があって、色気があって、永く続くほどに味が出るのがいい」
と、女性の評をした人があった。
それをふと思い出して、松山は女性的な街なんだと理解した。
決して崩れることはなく、受け入れ、
噛みしだくほどにもっと深く知りたいと思わせる街なのだ。
生粋の高知県民が、松山に憧れてしまうのも、ご理解いただきたい。
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