2010/04/19

カワイイ。

1年くらい前のことだろうか。
下着の通販カタログを作るための取材にて、
ライターの女の子が出された下着を見て
「カワイイ〜♡」と熱狂の声をあげた。
取材相手の会社には年をとった男性も多かったのだが、
「ボクらには、その“カワイイ”っていう感覚がわからないんですよね」
「そういえば、女の人の“カワイイ”っていろんな意味を持ちますよね」
などなど、「カワイイ〜♡」の一言に食いつく食いつく。
私はそれらの「カワイイ〜♡」とはなんぞや、という疑問と、
それを考察する話に妙に納得をして、
以来、「カワイイ」をよく使うようになった。
ちなみにその会社とは、女性の下着を主に扱っている会社で、
男性社員たちは否応無く女性の感覚というものに悩まされるらしい。
カタログ制作窓口担当のMさんも、
「ボクにはブラジャーって言われても、
窮屈そうやなてくらいしか思えんかった。
最近ようやく、機能がわかるようになったくらいで」
と、よく喫煙所で話していた。
商品の開発は女性中心でされるが、
そこに混ざっていかなければならない男性にとって、
地元の有力会社にちがいなくとも、苦悩の多いことだろう。

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「美しい」とカワイイとは極めて対比的な感性だ。
いうまでもなく「美しい」という感性は、
自然に、自身学習が必要となるものだ。
だから「美しい」は一度頭を経ての感性といっていい。
例えば、「走る姿」を美しい、と感じるとする。
それは走る姿に対するバランス、秩序感のようなものや、
その軽やかさのようなものに対して美しい、と感じるのだろう。

理にかなった走り方、無駄のない走り方、
身体を上手に活かした走り方というものがあって、
その結果、実に軽やかに走っている。
こうした完成された走るフォームの秩序感が分かった上で
「美しい」と感じる。
このように美しくは知っている事象と美しく感じることの間に、
一定の走る秩序感に対する学習があって美しいと映るのだと思う。

一方、走る姿からカワイイを感じる場合は、
そうした秩序感の世界とは全く別の、完成の視点から生まれてくる。

一生懸命走る姿、間の抜けた走り方、
ピョンピョンする走り方、楽しそうに走る姿など、
走る表情を一瞬に見分けて、カワイイと判断する。
カワイイは心に直結して判断され、判断に迷いは生じにくい。

それは対象との生命的な共感から派生してくるものだからだろう。

※『カワイイパラダイムデザイン研究』真壁智治◎チームカワイイ/平凡社より

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(前略)

「配偶者の条件」は「才能」「美貌」「情愛」である。
これは一読してわかるとおり、いずれも「主観的価値」である。
「才能」は「埋もれた才能」「世に容れられぬ才能」という形容があるように、
その人に「才能がある」と思う人間の眼にだけ見えて、余人には見えない。
「美貌」も然り。
多くのラブロマンスは
「キミは自分の美しさに気がついていない」という殺し文句を伴うが、
彼女の美しさは「自分で気づかない」くらいであるから、
この言葉を発した人以外のほとんどの人にも
これまで気づかれないものだったのである。
「情愛」も同断。
「こまやかな情愛」などというものは
クローズドの空間で私的に享受されるべきものであって、
公的場面で開示されるべきものではない。
つまり、「配偶者の条件」はすべて私的、主観的だということである。
私的、主観的ということは、言い換えれば「一般的な仕方では存在しない」ということである。

(後略)

※内田樹の研究室「配偶者の条件(2009.10.18)」より

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そんなことを考えました。

明日からタカさんと広島へ。
平和公園と宮島のみだけど楽しみです。

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