高松での仕事が一段落した後、
1週間ほど実家でのらりくらりと家事手伝いの真似事をしていた。
毎度のごはんを作り、片付け、
時間が有り余っているので掃除をした。
雑巾掛けは楽しかった。
何かにぶつかりそうになる毎に
向きを変えたり拭き方を変えたり、
拭くモノによっては水の絞り方を変え、
とにかく頭の中を空っぽにして拭いた。
カラダを動かすということは、
環境に柔軟にできることなんだなと思う。
思想や意思を持ってやることは、
そんなに柔軟にふらふらと方向を変えることはできない。
想いが先に突っ走って、ぶつかっても気づかなかったり
障害物に乗っかって壊しているようなことはよくあるけど、
そうではないことに関してならば、
カラダはかなりのレベルで周囲に合わせている。
雑巾を持って家の床を拭きながら
そんな当たり前のことに気がついて
ひとりボンヤリと感動を噛み締めたりしていた。
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ヒゲをのばしている。
『喪服の似合うエレクトラ』という舞台のためた。
南北戦争時代のアメリカのはなしで、
負傷してかえってきた若い北軍兵士、
というのが僕の役どころである。
舞台のうえでは、僕はボロボロの軍服に身をつつみ、
アタマに包帯をまいている。
そうした格好だとヒゲもなんとかサマになる気もするのだけれど、
上演をおえて私服にもどると、なんだかどうもシックリこない。
こんなに長いあいだヒゲをそれないのは生まれてはじめてのことだ。
朝、コンタクトレンズをいれていない目で鏡をみると、
ひと月ちかくたったいまでも毎回ギョッとしてしまう。
まあ本人が気にしているほど、
まわりは何ともおもっていないのだろうが。
(中略)
いや、いいたいのはヒゲそのものではなく、
「役でヒゲをのばしている」というときの、
ちょっとウキウキした僕のココロのことだ。
充実感というか安心感というか、
はっきりした手ごたえをもつなにかのことである。
「役づくり」というコトバが具体的にはどのようなものなのか、
なさけないことに僕はよくわかっていない。
「セリフをつぶやく」
「当時の状況をしらべてみる」
「おなじ作家のべつの作品をよんでみる」
といったいかにもなものから
「共演するかたの顔をおもいうかべる」
「台本をひらいてボーッとしている」
などという、どうでもいいようなものまで、
僕のなかではすべて「役づくり」とよんでいる気がする。
舞台稽古や撮影にはいるまえ、
台本をながめながら役についてアレコレ思いめぐらせる作業は、
たのしいけれど心もとない。
僕の場合いろいろかんがえて
結局まったくちがう人物だった、というときもおおい。
いや、むしろ僕は自分の
「人間観察のセンスのなさ」には自信をもっている。
現場にはいるまえの思考はほとんど無駄、
といってもいいくらいだ。
実際に現場にはいってからも、僕にできる確実なことといえば
「やること(ふつうはセリフとト書きだが)を
おぼえて時間どおりに現場にいく」くらいである。
正直にいうけれど、役のきもちなんてやってみないとわからない。
もっと正確にいえば、わからないままやっていることも僕にはある。
そのヒトがどんなヒトなのか、
そう簡単にわかるわけがないのだ(と僕はおもう)。
その点ヒゲは安心だ。
演出家がヒゲをはやせといっている以上、そこに間違いはない。
よく役づくりのため減量したとか、
筋肉をつけたとかいうハナシをきくけれど、
かれらはかならず嬉々としてそうした作業をやっているにちがいない。
すくなくとも、むかう方向はあっているのだ。
「ただしいココロ」をかんがえることにくらべれば、
「ただしいカタチ」にむかう作業は、
手っとりばやく、無駄がないような気がする。
ココロは呼吸にあらわれる、というハナシを
禅かなにかの本でよんだことがある。
心をコントロールするのはむつかしいが、
呼吸をコントロールするのは比較的たやすい。
ゆっくり呼吸をすればおちつくし、
あさい呼吸をしていれば、せわしない気分になる。
(友人の器楽奏者がヨーロッパの音楽学校で試験をうけたとき、
演奏まえに深呼吸をしたところ、
『ゼンか? それはゼンのサトリなのか?』と、
まわりのヨーロッパ人がおおさわぎしたらしい)
ひとのこころはゼンのサトリのように深遠だ。
それでもわれわれは、
やれるところから手をつけていかなければならない。
禅僧はひたすら坐って呼吸をする。
われわれ俳優は、とりあえずヒゲでものばす、というわけである。
※『文・堺雅人』(堺雅人著/産經新聞社)より
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最近、試合の合間のタイムアウトでの時間帯をよく思い浮かべる。
なぜかいつもウキウキとしていた。
だいたい私は監督から一番離れて、
イスに座りながら事の次第を眺めていたと思う。
監督からの指示は聞こえているけど、
その一方で時間と点差を確認しながら
控え選手がくれるスポーツドリンクを一口すすり、
イスから立って、屈伸したりアキレス腱を伸ばして
カラダの動きをもう一度確認する。
人に声を掛け、呼吸を合わせる。
集中力が高まっている自分を自覚できる瞬間だったのだろう。
ひょっとすると、コートにいるときよりもこの時間は、いい。
佳境の中にふっとできたポケットのクールさが、いい。
今はようやく腰を据えて先輩の事務所に居候気味に
居着かせてもらっている。
ありがたいことに、新しくレギュラーが決まって
すでに制作がスタートしている。
それとは別で、大学案内のコンペ参加が決まった。
ウヤムヤな感じの中、もしかして流れに乗ったら
家具のカタログも作れそうなニオイだ。
どれもが全く種類の違う仕事なのでおもしろい。
実は、クライアントも、バーターも違っている。
違っているということは、たくさんの反応があるということ。
コミュニケーションの方法もそれぞれで、
そのひとつひとつを無視できない。
回を重ねるごと、話を重ねるごと、
さまざまにある事情や制約や希望が見えてくる。
できるだけ奥深くに関わっていこうとすると
自分にはできないこと、印刷では解決できないことがわかって
歯がゆくなったりイライラしたりもするけど、
今のところはおもしろい。
森の奥で見つけた葉脈。
木は真ん中から腐って空洞ができる。
養分になるものから輪廻の旅に出る。
これもまたおもしろい。
このところ、見るもの全てがおもしろくてしょうがないらしい。
おかげで、弟曰く「姉は落ち着きがない」とのこと、
ありがたいコトバと受け取っている。
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