2008/06/12
「生きる」。
先日、母方の実家である広島に、姉とタクマといっしょに行った。
前回会ったのがゴールデンウィーク。
タクマはそれからのほんの1カ月の間に、
たくましくワガママを言う子どもになっていた。
ほしいオモチャを奪い取り、奪い取った先々で興味を失う。
本は読んでいる恰好をし、絵を描いている恰好をマネする。
姉は「恰好だけよ、この男は」と言っている。
ともあれ、ほんのりと自我の芽生えだ。
「私とトモヤくん(旦那)の、社会性を省いた結果かと思うと恥ずかしい」
と笑っていたのが印象的だった。
やる気のなさか、12kgにもなるのにハイハイしかしなかったタクマも、
たかだか両手にオモチャをいっぱい持っていたからという理由で
人類の大きな一歩を踏み出したらしい。
好きな店に行けずとも、
外に出るたび引っ越しのごとく荷物が増えてしまっても、
それだけの価値=喜びを親類に芽生えさせる、希有な存在であることはたしか。
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ケヤキの裸樹は美しい。
長らく関西にいた私は、
東京に戻ってきてあちこちの公園や屋敷森にケヤキを見つけるたびに、
その姿が東京の冬を特徴づける重要な意匠となっていることを知る。
すっくと立った幹は、
易者が筮竹を見事にさばいたように広がり、
その枝は直線的に分岐してその都度、細くなる。
それでいて遠くから見ると、
枝の先端を結ぶ面はたおやかな円蓋(キャノピー)を示すのだ。
ケヤキの樹には、二本として同一の形はない。
枝分かれは、その地点、地点で、ある一回限りの選択によってなされ、
ひとたび分岐すればそれがやり直しされることも、
逆戻りすることもない。
ケヤキの内部で行われる細胞の分裂とネットワークの広がり、
つまりその動的な平衡のふるまいは、
時間に沿って滑らかに流れ、かつ唯一一回性のものとしてある。
しかし、私たちは、ケヤキはどれを見てもケヤキの姿をしているがゆえに、
一本のケヤキのあり方の一回性を、
しばしばある種の再現性として誤認しがちなのだ。
しかしそこには個別の時間が折りたたまれている。
インテリジェントビルの、精密の制御されたエレベーターのように、
最小の振動ときわめて微弱な加速度しか感じさせない乗り物に乗ったとき、
私たちはそれが上昇しているのか下降しているのか、
あるいは動いていることすらわからないことがある。
時間という乗り物は、すべてのものを静かに等しく運んでいるがゆえに、
その上に載っていること、
そして、その動きが不可逆的であることを気づかせない。
先に述べたこと、すなわち遺伝子をノックアウトしたこと、
あるいはノックインしたことによって引き起こされる
すべてのこともまた時間の関数として起こっている。
ノックアウトされたピースは、
完成された全体から引き抜かれたわけではない。
時間に沿って分岐し、そしてまた組み上げられていくそのある瞬間に、
たまたま作り出されなかったのである。
ノックインされた不完全なピースは、全体が完成されたのち、
部分を切り取られたわけではない。
これもまた時間軸のある地点で、出現し、
その後の相互作用の内部に組み込まれていったものである。
遺伝子産物としてのタンパク質が織り成すネットワークは、
形の相補性として紡ぎ出されるから、
それらは枝の分岐というよりは、
角々をあわせて折りたたむ折り紙のようなものと
たとえたほうがよいかもしれない。
時間軸のある一点で、作り出されるはずのピースが作り出されず、
その結果、形の相補性が成立しなければ、
折り紙はそこで折りたたまれるのを避け、
すこしだけずらした線で折り目をつけて次の形を求めていく。
そしてできたものは予定とは異なるものの、
全体としてバランスを保った平衡状態をもたらす。
もしある時点で、形の相補性が成立しないことに気づかずに、
折りたたまれてしまった折り紙があるとすれば、
その折り目のゆがみはやがて全体の形までをも不安定なものにしうる。
機械には時間がない。
原理的にはどの部分からでも作ることができ、
完成した後からでも部品を抜き取ったり、交換することができる。
そこには二度とやり直すことのできない一回性というものがない。
機械の内部には、折りたたまれて開くことのできない時間というものがない。
生物には時間がある。
その内部には常に不可逆的な時間の流れがあり、
その流れに沿って折りたたまれ、
一度、折りたたんだら二度と解くことのできないものとして生物はある。
生命とはどのようなものかと問われれば、そう答えることができる。
今、私の目の前にいるGP2ノックアウトマウスは、
飼育ケージの中で何事もなく一心に餌を食べている。
しかしここに出現している正常さは、
遺伝子欠損が何の影響をもたらさなかったものとしてあるのではない。
つまりGP2は無用の長物ではない。
おそらくGP2には細胞膜に対する重要な役割が課せられている。
ここに今、見えていることは、生命という動的平衡が、
GP2の欠落を、ある時点以降、見事に埋め合わせた結果なのだ。
正常さは、欠落に対するさまざまな応答と適応の連鎖、
つまりリアクションの帰趨によって作り出された別の平衡としてここにあるのだ。
私たちは遺伝子をひとつ失ったマウスに
何事も起こらなかったことに落胆するのではなく、
何事も起こらなかったことに驚愕すべきなのである。
動的な平衡がもつ、
やわらかな適応力となめらかな復元力の大きさにこと感嘆すべきなのだ。
結局、私たちが明らかにできたことは、
生命を機械的に、操作的に扱うことの不可能性だったのである。
※生物と無生物のあいだ(福岡伸一/講談社現代新書)
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1年で10数キロも痩せたせいで、
どうしてそんなに痩せることができたのか、
ジムとかヨガに通ったのかと最近よく聞かれる。
でも残念ながら私は痩せるための努力はほとんど何もしていない、
むしろ朝も昼も夜も、何を食べるかばかり気にしている。
それよりもこの1年で、「生きる」ということをよく考えるようになったと思う。
「痩せる」という行為は身体の形を整形するためのモノではなく
生活そのものを自分の身体に馴染ませていくことだと痛感した次第。
仕事や恋愛、結婚も、生物学的に根拠があるはずだ。
身体の形もそれに同じくで、
生きている環境で生きやすいための形に、自ずとなるんではないか。
生きて次に生命を宿すための効率性や必然性が根っこにあるように思える。
仕事のために生きるなんてのはおもしろくない。
もちろん、話題としておもしろくない、ってことではなく。
ついでに。
子どもは産まれたばかりのとき、個性はない。
「育児書は取り扱い説明書みたい」と姉が言っていた。
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