2013/04/18

家族のこと。

おばあちゃんが倒れた。
数日前に転んで頭を打っており、
それが原因で硬膜下出血となったらしい。
家族には食欲のなさ・吐き気を言っていたようだけど、
かかりつけ医には背中の痛みだけを訴えたそうだ。
叔母BとCがベッド脇にうずくまって失禁し
倒れていたおばあちゃんを早朝に発見、
救急ヘリで高知駅の近くの病院に運ばれ手術を受けた。

母と私が広島から駆けつけたときには手術は終わっていた。
ICUで完全に医師や看護師の監視下に置かれている。
病院の処置なんかが優先されるので面会には予約が必要、
面会は30分以内・1度の入室は3人までというのは、患者の無理を避けるためか。
(10人いたら、3人・3人・2人・2人とかに分かれて順に入室する。
4組合わせて30分なので、1組あたり約7分という計算になる)
面会が許されて病棟に入ったときには
おばあちゃんはクスリで眠っており、たくさんの管でつながれていた。
自慢だったキラキラと銀色に光る髪の毛は剃られ、
代わりに腫れて内出血になった傷口が痛々しい。

それでも翌日には、弱々しくも意識は戻った。
左側はちょっと不自由な様子。
右手を握ると握り返してくれた。
目を開ける気力はないようで、ずっと閉じたままだ。
話しかけるとそれに答えて口を開く。
どこにいるのかわかる?と母が尋ねると
ゆっくりと、かかりつけの病院の名をなぞった。
声は出ない。
待合室に戻って叔父や叔母と交代がてら
おばあちゃんの様子を伝えると、叔母Cはほっとして泣き崩れた。
Cはおばあちゃんの生き写しくらい似ている。
結婚をしていないし、仕事が休みのときは
ほとんどおばあちゃんといっしょにいるので
分身みたいな感じなのではないだろうか。
おばあちゃんの娘たちはアタフタしていた。
それも、病状が落ち着くと伴に落ち着きを取り戻すだろう。
おばあちゃんは、家族に愛されているなぁと思った。
母と私は広島に戻った。

3日目は、弟の家族と姉がお見舞いに行ったらしい。
その晩、叔母Aから母に連絡があった。
ほとんど苦情のような感じの内容だった。

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子どものころ、姉とおばあちゃんは折り合いが良くなかった。
働きに出る母に、おばあちゃんは
「なんで私が子どもの面倒を見なきゃいけないの」
「なんで私が家事をしなきゃいけないの」と文句を言い、
(言っているように見えたというのが正確か)
仕事をやめるよう、母に求めた。
姉は、母を守ろうと思ったらしく、
朝、登校の前におばあちゃんと激しい口論をするのはいつもだった。
姉が口論以外でおばあちゃんと言葉を交すことはなかった。
ひょっとしたら目を合わせることもなかったかもしれない。
姉の感情は私や弟に波及した。
私はおばあちゃんの作る、大根を煮ただけの夕食も、
学校から帰ったときにくれる煎餅や饅頭も嫌い。
おばあちゃんからお小遣いをもらうのも、
飼いならされているように思えて気分が悪く、突き返したこともある。
そのうち、心配されるのも、会話をするのも、
おばあちゃんのいる空間にいるのもイヤになってくる。
おばあちゃんはいつも、
家でヒマそうにしている(ように見える)のが不快だった。
それなのに母を叱りつけることが理解できなかった。
そういうのが小学校の低学年だったころから高校で家を出るまで続いた。

「おばあちゃん」と仲良くしている家族がいるなんて想像したこともない。
むしろ、「おばあちゃん」とは、新しいものが嫌いで
聞き分けの悪い、好き嫌いの多い、頭の堅い人種だと信じていた。
弟が結婚する前、弟の奥さんとなる人と二人で飲みにいったときに
「どうしておばあちゃんと仲良くしないの」と無邪気に聞かれたときに、
初めて、私はおばあちゃんにやさしくないということに気が付いた。
だから、その筆頭で矢面に立っていた姉にとってはなおのこと、といった感じ。
私はおばあちゃんの人生を想像するよう努力することにした。
それからは多少ぎこちなさは残るけど、やさしくなれたと思う。
姉は、今はいっしょに暮らし、
心配も会話もする間柄にまで快復しているけど、
ふとしたときに嫌悪感を露にせずにいられないようだ。
少し強い口調で「干渉してほしくない」旨を訴える。
自分の息子に触れてほしくないと叫ぶ。
たぶん、それは本当に仕方がない。
本人は自分の振る舞いを自覚できない。

叔母Aから母への「苦情のような感じ」は、
姉が見舞いに来たことへの不快感を表したものだった。
「今さら罪滅ぼしをしようとしている、もう遅い」とAは言ったようだ。

くやしい。何も知らないくせに。

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「男の友情もここまで深くなれば男色関係などあってもなくても同じことで、
男女や主従を超えたところにある美しい愛のかたちが、
雲間を出ずる月影のように、あまねく下界を照しているように見える」
本書のこの箇所を初めて読んだとき、
素直にこういうふうに思える白洲正子が妬ましいと同時に、
「嘘つき」と思った。
男色関係があったかなかったかは、ものすごく大きな違いだろう。
この人、夫以外の男とあんまりセックスしてないんじゃないか……と、
下界の私は邪推したのである。

白洲正子は夫以外の男とつきあいがなかったわけではない。
それどころか男友達のとても多い人だ。
小林秀雄、青山二郎、河上徹太郎、正宗白鳥、梅原龍三郎、
晩年は、高橋延清、河合隼雄、多田富雄などなど、広い交友があった。

女を感じさせないタイプだったのかというと、
写真を見る限りそうでもなく、
とくに小林秀雄や青山二郎と夜を徹して酒盛りした三十代後半や四十代などは、
しっとりとした色香を漂わせた美人に映っているものも少なくない。

だから当然、彼らと「何かあったのでは」と勘ぐられもした。
白洲正子は別のところで、こうも言っている。
「小林さんとか青山さんとか、何かなかったはずはないって、人は思うんだよね。
そういう考え方ってケチくさいことだ。
男女じゃなくて、人間同士の付合いってもん、あったのよ。
不倫なんてわざわざすることない、骨董だって何だって、みんな不倫だもの。
旦那ほったらかして(笑)」(月刊「太陽」1996年2月号)

白洲正子は、小林秀雄や青山二郎、河上徹太郎といった男たちが
「特別な友情で結ばれていること」を知ると、
「猛烈な嫉妬を覚え」、「どうしてもあの中に割って入りたい、
切り込んででも入ってみせる」(『いまなぜ青山二郎なのか』)と決心した。
そして彼らと、文学や骨董の師弟として、友人として、生涯つきあった。
小林は、白洲の夫の次郎とも親友で、
子供同士が結婚したので親戚にまでなった。
何かあってはそんなつきあいもできまいから何もなかったのだろうが、
いいじゃん何かあったとしても。
ともするとそういう方向に行きがちな私は、
バカにされたようでイヤな気分になった。

それが去年の暮れ、ブ男と美男をテーマにした本を書きつつ、
「美男の歴史は男色と切っても切れない関係があるなあ」などと
痛感していた折も折、本書の解説の仕事がきた。
読み返すと、「両性具有」といいながらすべて男の両性具有の話で、
女の両性具有の例は一つもない。
しかも全編、日本男色史ともいうべき一冊なのである。

これはどういうことなんだろう。

と考えつつ、彼女の対談集やら全集やらにあらためて神経を集中させると、
白洲正子を読み解く鍵が、まさに「両性具有」と「男色」にあると思えてきた。

(後略)

※『両性具有の美』(解説/大塚ひかり)

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叔母Aにはわからなくても、おばあちゃんは、
姉のそういった行動のワケを理解してくれていると信じたい。
幼いころのイヤな思い出が、互いの内面に同じ嫌悪感を生んだだろう。
でも、その嫌悪感を補おうとする不器用な気持ちが
行為の裏に見えることもあったはずだから。
おばあちゃんは寂しがり屋さんだから、
入院している間、私たちの兄弟で唯一高知在住の姉には
ちょくちょく病院に顔を出してもらいたい。
そうしている間に、気持ちがほんの少しでも和らげば出来過ぎか。

それにしても、母方の祖父、父方の祖父と不幸続き。
やっと落ち着いて、ほっとしたころのおばあちゃんの事故。
母曰く「硬膜下出血から快復することもあるから」と。
最初に連絡をもらったときには最悪の事態も予想したけど、
どうやら快方に向かっているようでよかった。
ICUから早く脱出して、近所の病院に転院できて、
さらに、家に帰って来られたら、もっといいな。

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