2015/03/11

生きた証。

私のいとこに、重度の脳性麻痺のお兄ちゃんがいる。もう40代半ばに近い。そのお兄ちゃんに末期ガンが見つかって、そろそろ2週間くらいになる。いよいよ点滴も入らなくなってしまったらしい。

母は相変わらず週に一度、祖母の介護に高知に戻る。そのときに、お兄ちゃんにも会いに行く。そのときのことを、広島に戻って聞かせてくれる。延命治療はしないそうだ。食べることはできないらしい。点滴が入らなくなったらもう何も与えることはできないらしい。私の姉はそれを知って「餓死するみたいやんか」と言って泣いたらしい。私の弟が、自分の娘といっしょにお見舞いに行くと喜んだらしい。

自分の力では移動することはおろか、食事だって排泄だって自分ではできない。飲み物は、おじちゃんかおばちゃんが、スプーンでお兄ちゃんの口まで運んであげる。固いものを噛み砕くことも難しくて、ときどき、おばちゃんが自分である程度噛み砕いてあげて、お兄ちゃんに食べさせる光景を目にした。不思議と「汚い」とは思わない。妙に神聖で静かな空気が流れる。多くのことの意思決定なんて夢のまた夢。うれしいときも悲しいときも、何か怒ったときも、返事はいつも「へい」だし、それ以外の言葉を言っているのかいないのか、視点は定まらず発音もしっかりしていないから、わからない。発することができないから、わかっているのかいないのか、どう感じているのか、私には察することができない。

私がおばちゃんのところに行くと、お兄ちゃんはいつも居間の大きなテレビの前でカラダをねじ曲げて寝ている。「ねじ曲げて」というか、そういうカラダなのだ。視点を定めようということか、目だけが、キョロキョロと動く。ときどき、おばちゃんが体位を変えてあげる。おばちゃんには、お兄ちゃんの言っていることがわかるらしく、相槌がたぶん、絶妙だ。実は、絶妙かどうかも正確にはわからない。だから、私には、とても残酷な感情だとわかっていながら、「物体みたいだ」と思う瞬間がときどきあった。

「もう長くない」と知らされて、私はまだお兄ちゃんに会いに行っていない。明日、やっと会いに帰る。

ふと、お兄ちゃんの「生」とは、何だったのだろうと思った。私は普段、ほとんど「人生の意味」なんて考えない。むしろ「生まれてきた意味」なんてキーワードにはムシズが走るくらい。でも、今、私がお兄ちゃんやお兄ちゃんの両親に喜んでもらえることは何か、と考えすぎて、どうしてもここに至ってしまうのだ。それは、私の母がいうような「もっと社会生活ができたはずだ」といったことかもしれないし、でも、違うかもしれない。生き物として「子孫を遺す」ということかもしれないし、違うかもしれない。お兄ちゃんの40年間は、一体何だったのだろうか。

大方の予想に反して、おばちゃんとおじちゃんはかなり明るい人だ。見た目にも華やかで、冗談や遊び心を欠かさない。新婚旅行の写真を見たことがある。それも、ロマンチックでなく、愉快な写真ばかり。お兄ちゃんが生まれてすぐに脳性麻痺とわかって、「それでも育てなければ」と決断し、「意味があって、ここに生まれてきた」と悟ったふたりの意思は何を語るのだろうか。お兄ちゃんの後、ふたりには子どもが授かったこともあったが、お兄ちゃんを介護しなければいけない、ということで諦めたらしい。それには意味があったのだろうか。何もないはずはない、と私は思いたい。そもそも、「明るさ」が障害と相反することのように思ってしまう自分も恥ずかしい。

思わず電話を持って、美川憲一の事務所に電話をしてしまった。意思表示をほとんどしないお兄ちゃんが、子どもを見て喜ぶ以外でとても愉快そうに喜ぶのは、美川憲一をテレビで観るとき。だから、おばちゃんは、四国内であれば、お兄ちゃんを連れて美川憲一のコンサートに馳せ参じる。コンサートの後に美川憲一と撮った記念写真数枚、美川憲一を応援するために作ったハデハデの衣装数点、うれしそうにお兄ちゃんの周りを囲んでいる。事情を話し、「電話をしてあげてほしいのです」と受付の人に伝えると、受付の人は親身になって答えてくれたものの、担当から折り返させますとのことだった。こういう話はたくさんあるだろうし、私の行動は完全に勢い任せだったから、なんとなく恥ずかしくなってしまった。

たぶん、お兄ちゃんが脳性麻痺じゃなかったら、とてもキレイな顔をした好青年で、きっとおじちゃんと同じく役場の職員になって活躍していただろう。きっと、私はお兄ちゃんをとても自慢に思っただろうし、たくさんの人に見せてまわったはずだ。キレイなお嫁さんをもらって、誰もがうらやましく思うような感じだったんじゃないだろうか。そんなことを想像したりする。そっちのほうが幸せだろう、とついつい思ってしまう。

だけど、よくわからないのだ。私は、お兄ちゃんの日常も、おじちゃんとおばちゃんの日常も、垣間見ることしかしたことがないから。周囲を見れば、もう「おじさん」であるはずのお兄ちゃんに対して、いつまでも赤ちゃんを世話するような生活で、戦闘も葛藤もなかったというと嘘になるに違いない。私の母の子どもたちが、あるいは、さらに、姉の子がスクスクと育つ姿には嫉妬もあったんじゃないかと想像する。でも、私が思うのと違って、そう悪いものでもなかったのかもしれない。守ることと守られることに専念するその人生とは、決して憎むべきものでもなかったかもしれない。むしろ喜びにあふれていた可能性だってないとは言えない。そこでやっぱり私は思う。お兄ちゃんの人生とは、一体何だったのだろうか、と。